次郎坊伝07 検地

文聞亭笑一

今回の物語の主題は「検地」です。いわば国勢調査というか、税務調査です。これによって、今川への上納金や、戦争時の徴兵の数、兵糧の供出が割り当てられます。

検地の基本は自己申告(指(さし)出(だし))ですが、自己申告に嘘はつきものです。従って、為政者による立ち入り検査が入るのですが、する方とされる方では利害関係が相反しますから、互いの騙し合い、駆け引きになります。この検地の結果に依って租税、軍役、村役などあらゆる納税義務が生じます。

検地と言えば、豊臣秀吉が行った太閤検地が有名ですが、奈良朝が全国支配を始めた頃から延々と続けられてきた税制の基本です。ベースになるのは土地の広さであり、更に土地の質であり、そこで作られる作物の種類などによって、実に複雑な税の仕組みになります。最終的には米の取れ高に換算して、〇〇石と評価されます。日本の算術の歴史は、遣隋使、遣唐使が中国から税制を取り入れた時に導入され、この検地とともに発展してきたと言えます。

検地の仕組み

基本的に「耕作地」はすべて検地の対象になります。水田は「田」として、それ以外は「畑」と定義され、田と畑で単位当たりの石高に大きな差が付きます。さらに、田も収量の多い順に上田(じょうでん)、中田(ちゅうでん)、下田(げでん)などと評価されます。区画整理された現代の田圃などは、全て上田の部類でしょうね。日本では地名や苗字などに「田」のつくケースが多いのですが、ルーツを遡れば検地の際に認定された土地評価から来ている場合が多いようです。

それはともかく、土地評価の上中下は税を取る立場と、取られる立場で大きな差になります。

井伊家のように、百姓からは「とる立場」で、盟主の今川に対しては「取られる立場」となると、二重帳簿にしたくなります。百姓からは上田としてたくさん召し上げ、今川には中田として安い税を払うということをしたくなります。一種の粉飾決算、脱税ですが・・・、これができるかできないかは盟主と地方豪族との力関係ですね。力のある豪族は上田を下田にしてしまいますし、力がなければ中田が上田にされてしまいます。ここらあたりは検察官と領主との力関係であり、知恵の絞りどころでしょう。

イタリアにアルベロッペという村があります。ここは薄い板のような石の屋根が立ち並ぶことで有名な観光地ですが、この屋根の形状がまさしく脱税用でした。当時のイタリア税制は、屋根の数で村の税が決まっていました。農民たちは税を逃れるために、役人が来た時に素早く屋根を壊して、軒数を減らして見せるために、脱着可能な屋根形状を産みだしたのです。

日本でも人頭税(人口で税が決まる制度)が取られた地域では、信濃の姨捨のように、隠れ里を作って住民を隠しましたし、間口税(通りに面した店の間口の広さで税が決まる)が取られると、京都のウナギの寝床のように、間口の狭い家並みを発明(?)しています。とる者ととられる者の騙し合いで、大昔から税と共に文化の歴史を刻みます。現代の消費税・・・逃げ場のない税なので嫌われますねぇ(笑)

検地で重視されるのは面積の方ですが、戦国時代は奈良朝ころから続いていた一間(約2m)の尺を使います。これを近世の<一間=182cm>にしてしまったのが秀吉の太閤検地です。従来の一坪が・・・、新尺を使うと坪当たり0,7㎡も増えてしまいます。

従来の一坪=2,00m×2,00m=4、0㎡

秀吉流一坪=1,82m×1,82m=3,3㎡

モノサシをチョイと変えるだけで、2割以上も増税をやってしまったのですから凄いですね。秀吉流の錬金術と言っても過言ではありません。庶民の教育レベルが低く、こういう平方計算が理解できる者がいなかったから、実行できたとも言えます。

今週の放送は最初から最後まで、検地を巡る次郎坊、直親、政次のやり取りのようですから、太閤検地の余談を続けます。

太閤検地は、豊臣家の直轄領から始まりました。摂津、河内、和泉、近江といったあたりが最初です。この辺りは平たんな土地が多く、古くから稲作が進んでいましたから田の形も長方形の条理田が多く、比較的簡単に面積が割りだせました。沖積平野や沼地を干拓してできた田が多いので、土地も肥えていて、上田となるところが多く、それほど揉め事になることもなく、順調に事が進みました。石田三成らの経済官僚は、ここでの実績をベースに全国展開を図ります。そうなると、棚田などの変則な地形、田の形状が複雑な場所では、面積の割り出しに時間が掛かります。なかなか検地が進みません。

これを「領主の怠慢」と判断して叱責したり、処罰したりしましたから、三成が嫌われる元を作ってしまいました。三成自身も関東の北条を征伐した後、東北方面に検地奉行として出かけていますが、関西との違いに驚き、簡便法や古来の石高を了承したりもしています。ただ、徳川寄りの領地には厳しく判断し、上杉の会津などでは、盟友の直江兼続などに「好きにせよ」と丸投げして、依怙贔屓をやっていますから・・・恨みを買いますね。

東北で人気が高かった検地奉行は浅野長政で、陸奥の南部家の検地ではかなり大目に見た上に脱税・・・いや、節税の方法まで教えたようで、大いに感謝されています。南部城下の名を「不来方」から「盛岡」に替えたりしたのも浅野長政のアドバイスであったようですね。江戸期を通じて、南部藩内では浅野の人気が高かったようです。

もう一つ余談を言えば、石田三成と石川数正の確執です。

石川数正は後に、次郎坊伝にも出てきますが、この時期は人質として駿府にいる竹千代(家康)の小姓頭として、家康の面倒を見ています。家康は、幼少期はヤンチャ坊主で、行儀に煩い寿桂尼に叱られてばかりいます。成長しても鈍重というか慎重で、今川義元は気に入りません。叱責、苦情、要求の類はすべて数正が受けます。「お前が付いていながら何事か」という調子だったようです。

その数正が、家康を裏切って秀吉の下に走った時、秀吉は「和泉、河内の内で10万石」の恩賞を約束します。それを調達する役を担ったのが石田三成でした。三成は図面上で10万石分の土地を調達しますが、その殆どは奈良の東大寺や興福寺、法隆寺といったところの息のかかった土地で、実質上の実入りは1~2万石しかなかったと言います。

その後、石川数正は信州・深志(松本)10万石の領主になりますが、太閤検地の時、石田三成が検地奉行として来るのを拒否しています。「嘘つきは断る」と秀吉に直訴し、奉行を交代させています。この辺りの確執があって…朝鮮役の最中に数正は不審な死を遂げたことになっています。金が絡むと、人の世はギクシャクしますね。

隠し田

井伊直平の領地・川名の奥に隠し田がありました。隠し田とは今川に申告しない土地のことです。地目の上下を誤魔化すのに比べたら、随分と大胆な脱税行為です。しかし、太閤検地以前に隠し田は全国的に一般的で、地方豪族の大半がやっていたことです。とりわけ山間部では、随所でやっていました。

この隠し田が多かったのが・・・東では信濃の国、西では肥後の国でした。どちらも山奥の狭い谷間に、新規に開墾した棚田が多い土地柄です。秀吉の検地に抵抗したのもこの地方が多かったですね。秀吉に任命された最初の肥後の領主・佐々成政などは、検地を強引にやり過ぎて地元豪族の大反乱を招き、改易されてしまったりしています。

井伊谷も浜名湖に面した平地は隠しようがありませんが、上流域は南アルプス、中央アルプスに連なる山岳地帯です。小規模な谷間の扇状地や河岸段丘が随所にあり、小集落があります。これを「山である、何も採れない」と誤魔化そうというのですから大胆です。

これに比べて信濃や東北地方の豪族の中には、検地が来るとわかったらその年は棚田の畔に土を盛り、畑にカモフラージュして蕎麦や豆などを植え「畑地でごぜぇます」と誤魔化した者も多かったようです。庶民の脱税の知恵というのは・・・したたかですねぇ(笑)

家康と瀬奈の結婚

江戸時代に書かれた書物には「瀬奈は今川義元の娘である」というものが数多くあります。

しかし、現在の通説は「関口親永と井伊直兵の娘・佐名との子で、今川義元が養女にした」ということになっています。どちらが正しいかわかりませんが、「義元が側室にしていた佐名に子ができたので氏真との家督争いになるのを避けて、関口に下げ渡した」という説もありますから、寝床の中の出来事は闇の中です。DNA鑑定でもするしかありません。

ともかくも「三河の厄介者」と言われた家康に、実子、養女を問わず娘を嫁にやるということは、三河の松平を縁戚に連ねるという意味で「重視する」という意志表示に変わりありません。この時代既に家康の父松平秀忠は死亡し、岡崎城は今川の代官に乗っ取られていましたから、三河衆にとっては朗報です。

元服、妻帯となれば、しかもその妻が義元の娘となれば、家康が本領に帰ってくる…つまり、岡崎城が三河の者たちの手に戻るのだと大喜びします。

しかし、義元にはしたたかな計算がありました。「松平を捨て石にして織田を討ち、勢いに乗って京の都に旗を立て、将軍の宣旨を受けて幕府を再興する」という上洛計画です。これは亡き軍師・雪斎和尚から何度もたたき込まれてきた義元の基本戦略です。足利氏の血を引く今川ですから、将軍になる条件は十分にあります。軍事力を見せつけさえすれば…朝廷はそれを拒絶する理由がありません。

その戦略を実行するために、まずは「織田か、今川か」に去就の定かではない三河の地侍たちを支配下に付けなくてはなりません。三河は地侍たちが群雄割拠していて、今川の占領地として完全掌握できていないのです。

松平の傘下にある家臣団は、大久保、石川、鳥居、本多程度で、奥平、菅沼、戸田、水野、酒井などは去就のはっきりしない者たちばかりです。むしろ、戸田や水野、酒井といった面々は織田派の色彩が強いのです。元服して妻帯した元康(家康)を旗印にして、三河の民心を今川に靡かせよう…これが娘を嫁にやるという政治なのです。安倍とトランプのゴルフのようなものです。

井伊谷の井伊家、三河よりは今川支配の強い地域ですが、完全支配しておかないと、三河から尾張への進出に当たって後顧の憂いが残ります。今川のもくろみ通りに検地して、過大な軍役(税)を与え、反乱の恐れのある者たちをすべて西上の軍団に引き連れていきたいのです。戦いの先陣にし、戦力を消耗させてしまうというのが戦術です。「邪魔者は消せ」井伊勢が織田勢と消耗戦を繰り返せば、井伊谷の領地は自ずから今川の領地になりますね。検地は…その布石です。