14 信長のデビュー戦(2020年4月15日)

文聞亭笑一

先週は「聖徳寺の会見」と呼ばれる斉藤道三と、織田信長の出会いの場面で終わりました。

この会見で、道三は信長に二度、驚かされます。

一つは前回の放送にもあった通り、300という鉄砲の数です。道三は十兵衛に命じて30丁の鉄砲隊を作ろうとしていましたから、なんと!その10倍もの鉄砲を目の前に見せつけられました。ビックリ仰天、言葉通りの「ケタ違い」でした。

二つ目は信長の当日のいでたちです。派手、派手の着流し姿で、評判通りの「うつけLook」で登場し、会見前に室町風の正式の衣装である「大紋直垂(だいもんひたたれ)」に着替えて登場します。このあたりの演出を行ったのが濃姫・帰蝶なのだ・・・、と云うのが前回のタイトル「帰蝶のはかりごと」の意味でしょうか。

鉄砲が300丁も織田家にあったわけではありません。織田家とて、せいぜい50丁あったかどうか、それも疑わしい所です。では、鉄砲はどこから来たのでしょうか?

紀州(和歌山)雑賀、根来の傭兵軍団を雇いましたね。それが伊呂波大夫に渡した砂金の使い道でしょう。当時の和歌山の守護大名は畠山家ですが、守護としての統率力を失っていました。紀州の地侍たちが一揆を組織したのが雑賀党です。一揆とは・・・現代風に言えば協同組合でしょうか。また、根来寺の僧兵たちが商売としての軍隊?警備会社?を組織したのが根来党です。

雑賀も根来も、貿易港・堺に近いこともあり、また彼ら自身も紀の川河口の港を使った貿易もしていましたから、鉄砲の製造や火薬の入手もできます。東国の大名に比べたら、早い時期から鉄砲の威力を知り、扱いにも熟知していましたね。そして、その戦力を「傭兵」という形で近隣の大名に売ります。戦争請負人・・・といった役回りです。この傭兵、専門軍事集団は根来衆が元締めであったと思われます。雑賀衆は農民兵ですから近畿圏中心で、遠方までの出張はしません。

根来(ねごろ)衆と鉄砲

根来衆と呼ばれる軍事専門家集団は、元々が現在の海南市にあった根来寺の僧兵です。雑賀(さいか)衆は農民兵ですから、農繁期には動けませんが、根来衆は坊主ですから定職がありません。いつでも出動可能です。紀伊半島を一巡りして、海路で尾張へも出かけたのでしょう。

根来に300丁もの鉄砲があったのか? 多分、この時は雑賀の兵も借りたのでしょうね。それとも道三の「30丁の鉄砲隊」に300の数字を当てただけで、100丁、200丁でもビックリするほどの数です。この軍団を率いていたのが津田監物で、根来寺の宿坊である「杉の坊」を本拠にしていました。杉と鉄砲という組み合わせから、後に信長を狙撃した犯人・杉谷善住坊は根来の一味ではないかとする説がありますが、彼は根来(紀州人)ではなく、甲賀の名家の一つ、杉谷家の出身者のようです。甲賀忍者の一族です。

津田監物は楠正成の末裔と称し、津田流砲術の開祖として知られます。自ら種子島まで出かけて、見本と製造技術を持ち帰っていますから、鉄砲の生産も行っていたかもしれません。

聖徳寺の会見もさることながら、後には信長主催、光秀演出の「京都御馬揃え」にも参加していますから、織田軍団とは友好的な付き合いであったと思われます。その後、秀吉とは対立し、雑賀孫市などと共同で秀吉に対抗していますね。

村木砦の戦

信長の戦争場面と言えば、どうしても「桶狭間」を想像してしまいますが、織田家当主としてのデビュー戦は「村木砦の戦」になります。新人指揮官としての、いわゆる初采配ですね。

どの辺りでしょうか。今の大府市です。

父・信秀が今川と講和した以後、今川方からの調略が進み、西三河、東尾張の豪族は、次々と今川に寝返ります。

下図のように、織田方として残ったのは刈谷、緒川の水野信元だけです。水野信元は矢作川の両岸に緒川城と刈谷城を持ち、矢作川の商業圏を維持してきました。その財源があるから、今川に対抗できます。

今川の軍師は雪斎禅師です。

「将を射んとすれば先ず馬を射よ

⇒水野を落とすには矢作川を封鎖せよ」当然の戦略です。緒川、刈谷の中間に村木砦を築き、両城を分断します。水野の経済力を奪い、戦わずして軍門に下らせるという戦略です。放置すれば東尾張は今川一色に染まってしまいます。

村木砦を粉砕し、刈谷の水野を助けなくてはなりませんが、信長が那古屋城を空けると・・・、

油断ならぬ敵が身内にいます。

清須の織田彦五郎・・・織田本家が、那古屋を奪いに来るかもしれません。上の図では清須は赤、織田方ですが、信長方ではありません。彦五郎家が守護代で、清須には守護の斯波義統も居候していますから、権威的には、建前上は、清須の彦五郎家が織田家の正統なのです。

今川はそこを突いて、彦五郎に空き巣狙いを使嗾します。

留守居を道三に頼む・・・織田家臣にとってはビックリ仰天の発想が出てきました。一度会っただけで信用して良いのか、相手は「蝮」と評判の悪人だ・・・、など、など、猛反対です。

一方の道三、聖徳寺での信長に惚れこんでいますが、戦の腕は未知数です。「お手並み拝見」と西美濃3人衆の一人・安藤守就に1000人の兵をつけて那古屋に派遣します。

これを見て、弟・信行派の一番家老・林佐渡は「城を美濃に任すとは何事か」と、兵を自分の城に引き挙げてしまいました。まるで信長を信じていません。軍律違反と言うより、敵対行為です。初期の信長軍団はこんな状況ですね。

その評価を一変させたのが村木砦の戦です。

鮮やかな作戦で今川勢を圧倒し、降伏させました。刈谷と名古屋の間で、今川に寝返っていた者たちを、もう一度織田方に取り返します。

寺本、大高、鳴海、笠寺などは織田と今川の狭間でフラフラとしています。不節操と言えばそれまでですが、戦国時代の豪族の立場は皆同じで、東海地区だけの現象ではありません。それは何年か前の大河ドラマ「真田丸」でも、真田の右顧左眄でご覧になった通りです。

現代の中小企業とて同じことで、強い者に靡くのが世の常です。

3ページ目にはみ出してしまいました。ついでですから戦記風に書きましょう。

(前頁の絵は村木砦の想像図です。川中島のような砂丘です。 …大府市観光協会)

1554年2月20日

美濃から安藤守就率いる美濃兵1000人を名古屋城に迎える。

これに憤った林佐渡(秀貞)は、兵をまとめて城に戻る。戦線離脱

信長はそれに構わず、熱田に進軍。熱田港から強風の中を知多半島周りで刈谷に出陣

夕刻、知多半島東岸に上陸し野営

2月21日

陸路で緒川城に入城。自軍の攻撃配置を決める。

信長軍の到着を知らぬ今川勢の隙をついて、一斉に村木砦の攻撃にかかる。

信長親衛隊は正面攻撃、鉄砲を使い敵の挟間(はさま・・・弓矢を撃つための窓)に集中攻撃をかける。敵の飛び道具を封じて、そのすきに歩兵隊が城壁を登る。

この時に信長が採った手法が、分業制

鉄砲を撃つのは信長ほか、射撃名人。 鉄砲の掃除をする係。弾と火薬の装填をする係、

火縄の仕掛けを点検する係、こんな分担でひっきりなしに挟間に出てくる敵兵を射殺したようです。敵は石垣を登る兵を射落としたいのですが、姿を見せれば鉄砲で狙い撃たれます。石垣を登られ、塀を越えられて、門を破られ白兵戦となれば、数の勝負です。敵中突破して逃亡するか、降伏するしかありませんね。

その後は刈谷で戦後処理をし、帰りは陸路をとって、今川に寝返っていた城の者たちを服従させながら那古屋に戻ります。

2月27日

那古屋に帰城。安藤以下の美濃兵は引き揚げる。

    安藤の報告を聞いて道三が「いずれ我が息子たちは…」と言ったとか、言わぬとか…

これはドラマのお楽しみです。

この頃からでしょうか、信長語として有名な「…であるか」が始まったようです。

寝返っていた者たちは必死で言い訳をします。やりそこなったら首も領地もなくなりますから懸命です。こういう時に、言い訳を聞いてもらう相手が、「・・・であるか」としか言わなかったら…怖いですねぇ。であるか…は疑問符にも聞こえますし、承認にも聞こえますし、わかりません。

さらに「結果は追って沙汰する」とでも事務官僚が告げるのでしょう。

沙汰があるまで、生きた心地がしませんね。この怖さ・・・信長の特徴の一つです。

信長が誤解?されるのは秀吉による信長公記の脚色でしょうか。冷酷無比になっていきます。