「論語と算盤」逐次解説 第12回 

文聞亭笑一

45、小成に安んじてはならぬ

長い間国を閉ざして欧米の文化に接触しなかった我が国が、僅か4~50年で彼の長をとり、我が短を補い、彼らに恥じぬまでに進歩した。

これを以て世間では「創業の時代は過ぎた。守成を計るべし」などと言う者もいるが、小成に安んじてはならぬ。

内を整えると同時に、外に伸びるということを工夫しなければなるまい。

北海道や新領土に資金を投入して事業を起こしていくのは当然だが、海外に向けて大和民族発展の道を拓かなくてはなるまい。

いずれの地域でも厭がられ、嫌われる人民とならぬように心がけることが、即ち発展の大要素であると思う。

省略した部分のあちこちに「米国との政治対立」の話が採り挙げられています。

太平洋戦争への伏線になるような事例が挿入されています。

昭和初年ころから日米間には不穏な空気が漂っていましたね。

現在の米中関係のような雰囲気でしょう。

新領土とあるのは、日清、日露、第一次大戦で得た台湾、朝鮮、山東半島の租借地などを指すのでしょうか。

栄一は「それよりも交易による利を・・・」と主張します。

46、事業は公益のため

維新の大改革は「治める人、治められる人」の垣根をとり、商売の範囲も「藩」という小さな単位の垣根を取り払ったことである。

したがって商人も広い世間で商売できるように勉強をせざるを得なくなった。

商売繁盛に繋がる実業教育は急速に進んだが、道徳教育には全く気が回らず、利欲の餓鬼が現れ、腐敗、混濁、堕落、混乱を招いてしまった。

富をなす方法、手段は、第一に公益を旨とし、人を虐げる、人を害する、人を欺く、偽るなどと言うことの無いようにしなくてはならぬ。

尽くすものを尽くして道理を誤らず富を増やすのだ。

私のお世話になった会社の創業者・立石一真が常に口にしていた言葉が「企業は公器である」でした。

公の役に立つ会社なら・・・発展させてくれるが、社会の役に立たなければ衰退するしかない・・・そういう意味で、経営戦略や事業戦略を立てる際の原点でした。

不祥事を起こした企業の経営者がテレビに登場し、禿げ頭を視聴者に見せる「会見」をやりますが、再発防止には決まって「Compliance」などと、わけもわかっていない横文字・カタカナを口にします。

そういう「従業員にとって分かりにくい言葉」を使うから、不祥事が起きるのではないでしょうか。

Compliance法律順守などは当たり前中の当たり前で、対策などになりません。

我々の働きで 我々の生活を向上し よりよい社会を作りましょう

40年間唱えてきたOmronの社憲です。「よりよい社会」を、どうイメージするかは事業単位に異なりますが、今日よりは住みやすく便利な明日へと発想します。

これを見た大手企業の役員さんが「これだから関西企業はダメだ。社会よりも自分の生活が先に来ている」と嗤いました。

…が、「関西はタテマエでのぅて、本音の方が先でんねん」と、お返ししました。

マスゴミや、専門家と称する連中、特にマスコミ出身都知事のカタカナ好きには閉口します。

47、人物の評価

「人は棺を蓋って後、論定まる」という。しかし、生きているうちにも信を置くべきかなど様々な点で評価、評判をしなくてはならぬ。

その人の地位や、富を以て評価するのが一般的傾向ではあるが、孔子などは、地位も富もない劣等生である。その劣等生の孔子が言う。

「その人の以てするところを視、その依るところを観て、その人の行為が世道人心にいかなる効果があるか察しなければ、人の評価はできない」

私は成果、成績は二番目に置き、その人が世に尽くした精神と効果に重きを置いてみている。

いつの世でも評価は難しい問題ですが、いつの世でも避けて通れません。

まずは学校に入るところから「試験」「テスト」というものに遭遇し、否応なしに評価されてしまいます。

学校と言うところは毎日の様になにがしかの評価が行われるところで、それがイヤだと言っていたら不登校とか、閉じこもりになってしまいます。

社会に出ても同様で、賞与査定、昇給査定と、最低でも年に2,3度は評価されます。

これらは渋沢の言う成果、成績の評価ですが、「人物」となると・・・それだけの要素ではありませんね。

地域社会の付き合いでよくあるのが、現役時代の延長上で偉そうな口を利く人です。

高級官僚、大手企業の管理職だった過去を過大に意識し、偉そうな口を利いて顰蹙を買います。

こういう連中ほど道路清掃、公園管理などのボランティアに参加しませんから、地域社会から浮いた存在になります。

老後スポーツなどでも、仕切りたがって・・・トラブルを起こします。

「昔の名前で出ています(小林旭)」は、カラオケで歌うだけにした方が良いですね。

48、元気とは

世間ではよく青年の元気が大切だというが、老人に元気がなくてよいというものではない。

元気とはいかなるものかと問うに、孟子の言う「浩然の気」がこれに当たるのではないか。

孟子は「至大至剛、以直養(直を以てやしなう)」と言う。

即ち、正しいやり方で体を養い、しっかり食事をとることだと。

渋沢栄一がこの項で言いたい「元気」とは「やる気」とか、「前向き」とか「積極性」と言われる物ではないだろうか…と思ったりもします。

前後の文章から読むのに「大正の学生は元気が足りぬ」と言う世評に対して、元気論を展開したようです。

渋沢栄一がこの本をまとめた頃は、維新から明治の興奮が冷め、醒めた雰囲気と言うか・・・大正ロマンのような軟弱?な風潮にあったのでしょう。

「若者よ、元気出せ」とか、「元気が足らぬ」とか、明治維新への懐古的雰囲気があったのかもしれません。

「昔は・・・えがったなぁ」 老人会などに顔を出すと、決まってこの文句に出会います。

懐かしがるだけなら問題ありませんが、この後に「それに比べて・・・」と、現在への批判的文句がついて来ます。だから年寄りは嫌がられます(笑)

昔が良かったのは、あなたの身体が健康で、能力があったからです。

それが無くなったのは、至極自然な老化現象で・・・、誰のせいでもありません。