どうなる家康 第4回 清洲同盟
作 文聞亭笑一
3回目で、少し・・・真面目さが出てきました。なので・・・もう少し続けてみます。
この時の家康は18才、高卒直後の年代ですから悩むでしょうね。
抱える問題が大きすぎます。
自立、独立を求める家の子郎党、織田への方針転換を働きかける水野、久松などの母方親戚筋、駿河に残してきた妻や子どもたち・・・、迷って当然の状況です。
今川からの独立には犠牲が出ます。
テレビでは人質として駿府にいた者たちが処刑されます。
しかし、処刑されたという記録はありません。
優柔不断な氏真が処刑を急いだとも思えませんね。
家康の妻子の場合、二人が処刑されなかったのは瀬名が重臣の娘であり、今川の血筋に繋がる・・・瀬名は今川氏真の従妹・・・という事からでしょう。
ただ、この時代の人質への対応は冷酷無比でした。
敵対すればいずれは処刑される運命です。
殺るか殺られるか・・・人命や人権に関しては現代の感覚とは比較になりません。
清洲同盟
独立して織田を採るか、今川に残るか・・・まさに「どうする家康」です。
母親の系統、水野や久松を通じて織田からの勧誘があったのは、当時の織田家には東部戦線の三河に向ける戦力がなかったからですね。
美濃の斎藤との戦線が緊迫していて、東西に敵を抱えたくない状況でした。
テレビ映像では信長が高飛車に「子兎」などと家康を見くびった設定をしていますが、そんな余裕はなかったはずです。
美濃の斎藤を始末するまで、東には勢力を使いたくない・・・その一念なのです。
家康とその家中にとっても「同盟か」「臣従か」この差は大きいですね。
家康にとっても家来衆にとっても「独立」こそ悲願であり、今川の臣下から織田の臣下に鞍替えしても意味はありません。
戦国期に小領主達の間で一般的に行われていた「勝ち馬に乗る」ための「鞍替え」とは全く次元が違います。
さらに、人質の安全を確保しなくてはなりません。
人質は家康の家族だけではなく、石川、酒井、本多など重臣達の妻子も含まれます。
その中で「どうする家康?」が4点あります。
1, いかに今川氏真、駿河衆を騙すか?
今川と敵対するわけではない・・・云々と
2, 駿河軍の動き、人質への扱いがどうなるか?
服部半蔵を駿河に向かわせます
3, 早急に西三河を平定してしまうこと
織田との対等の交渉条件作り
4, 今川からの人質奪還の方策を練る
家康は清洲に出かけたのか?
家康が信長の本拠地である清洲城にまで出かけて攻守同盟を結んだ・・・と言うのが甫庵信長記の記録ですが、太田牛一の「信長公記」や、大久保彦左衛門の「三河物語」にはそういう事実は載っていません。
戦国時代に大名同士が直接交渉するなどと云うケースはほとんどありません。
史実は担当者を通じての交渉で成約したのでしょうが、物語的には熱田での人質時代を思い出して、旧知を温めつつの直接交渉の方がドラマチックです。
沢山のエピソードを盛り込むことができます。
家康の小姓・植村新六郎が太刀持ちとして従い、制止されても織田家の侍に太刀を渡さなかった、それを見た信長が「忠義者」と褒めて、褒美の太刀を与えた等々・・・。
小瀬甫庵・・・江戸時代の人気作家です。
太田牛一の原作を更に膨らませて面白おかしくし、読みやすい物語にしています。
江戸時代はベストセラーになりました。
甫庵は儒学者で医者でもありますが、金沢藩に仕官するための就活に信長記、太閤記を書いたとも言われます。
大久保彦左衛門は「三河物語」の中で、甫庵の書物に関して「三つに二つは嘘だ」と、辛辣な評価をしています。
そういう彦左衛門の書物も大久保家の活躍を美化するために、かなり創作が入っているようです(笑)
清洲同盟の締結は1562年、内容は3項目です。
① 互いの領域の確定 ・・・
互いの領土の、境界線を決める 尾張・三河の国境線
三河にある織田領を松平へ、尾張の松平領を織田に、それぞれ返還
② 戦線協定・・・
継続中の両軍の争いを止め、国境に戻る。相互不可侵条約
③ 攻守同盟・・・
相互安全保障条約、一方が戦争を始めたら軍を出して支援する
と言われていますが、最初の同盟は①だけではなかったか・・・と言われています。
姉川合戦や朝倉攻めなど、その後の戦いで家康が信長を全面的に支援します。
それと重ね合わせている節がありますが、桶狭間直後の段階で家康にその余力はありません。
しかも、東三河で今川勢力との戦いに明け暮れていて、清洲に出かける余裕も暇もありませんでした。
信長にとっても美濃との戦いの真最中です。
後方の東部戦線が静かであれば、それで良いのです。
美濃・斎藤攻めに集中できます。
信長、家康、互いにとって休戦協定で十分なのです。
大樹寺
前回でしたか?「今度のドラマは大物俳優を使い捨てにする」と書きましたが、1回目でチョイ役だった野村萬斎の「義元」が3回目の夢の中に出てきました。
回想シーンを沢山作るのかもしれませんね。
その意味で2回目にチョイ役で出てきた里見浩太郎の「登誉上人」も別のところで出てくるのでしょう。
おおかた6回目辺りの「三河一向一揆」でしょうか?
家康・徳川家と浄土宗・・・関係が深いですね。
江戸入り後の大本山・増上寺も浄土宗です。
浄土宗の開祖は法然、京都の大本山は知恩院になります。
法然と云えば
月影の 至らぬ里はなけれども 眺むる人の 心だに澄む
・・・という道歌で知られます。
月・・・仏の教え 信じるか信じないか勝手・・・と突き放します。
大樹寺は矢作川を挟んだ対岸の河岸段丘に建ちます。
山門から岡崎城が正面に見える位置ですから岡崎、松平家の弥栄を守る位置でもあります。
松平家3代目の親氏が創建し、さびれていたのを7代目の清康・家康の祖父が再興し、さらに家康が大伽藍を寄贈したと伝わります。
家康が亡くなると遺骨は久能山東照宮と日光東照宮に分骨され、位牌は大樹寺に置かれました。
家康ばかりでなく、歴代将軍の等身大の位牌が安置されています。
ちなみに家康の位牌の高さは159cm、当時としては中肉中背でしょうか。
大樹寺の名前の由来ですが、征夷大将軍の唐名が「大樹」だから・・・と徳川将軍家の到来を予測していたような説がありますが、地方領主・松平家3代目がそこまでの見識と大望を持ったとは思えません。
後付け・・・でしょうね。
一方、沙羅双樹のことを大樹という場合もあるようで、そちらの方が尤もらしいですね。サテ4回目・・・どうなる家康?