猿と狸(第18回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
秀吉の天下は、着実に拡大、急成長を続けます。まずは西に向かって勢力拡大を始めますが、これに最も貢献したのが安国寺慧慶でしょう。大毛利軍を秀吉の同盟軍として豊臣政権に引き込み、さらには配下として手なづけてしまったのです。
毛利3兄弟は「三本の矢(伊語でサンフレッチェ)」の教えがあまりにも有名ですが、毛利元就は「中央に欲を出すな」とも教えています。この教えを忠実に守ったのが、秀吉にとっては幸いでした。特に、毛利水軍を指揮する小早川隆景が秀吉に協力的だったことで、九州、四国への侵攻が助けられました。大軍団の輸送に船が不可欠だったのです。
「佐治一成を使って…」という計画が頓挫しましたが、瀬戸内水軍が戦わずして手に入ったことは、秀吉の天下取りにとってはどれだけ大きかったか、計り知れません。四国制覇目前だった長宗我部元親が降参せざるを得なくなったのも、水軍による大量動員で瀬戸内側数箇所から攻め込まれ、手が回りきれなかったためです。
毛利も、長宗我部も、創業者のあとを継ぐべき優秀な長男を失って、軍団のまとまりを欠いていたのが家の勢いを停滞させてしまった遠因になっています。
後継者の育成というのは、いつの時代にあっても創業に次ぐ重要課題ですね。
秀吉も後継者問題で挫折し、家康も苦労します。織田家が秀吉に乗っ取られてしまったのも、長男の信忠が本能寺の変に巻き込まれて、亡くなってしまったからです。
47、黒を愛する利休と、黄金の輝きに目がない秀吉。心は通じ合わせながらも、あまりに対照的な二人だ。互いの嗜好と才覚を剥き出しにして、正面からぶつかり合ったら一体どうなるか……。
そんな日が来ないことを真剣に祈りながら、江は赤い茶碗をそっと置いた。
秀吉と利休は、文化面では違いすぎるほどに対立していますが、経済政策に関しては、全く同じ思考をしています。それまでの農業中心の経済を、急速に商工業中心の貨幣経済に切り替えています。これは、信長が種をまいた楽市楽座を発展させ、日本経済に大きな花を咲かせました。豪華絢爛な安土桃山文化は、現代の日本の基礎を築く重要な文化大革命でもあったのです。通商国家日本の基盤を作ったのはこの時代で、その後の徳川幕府の圧制を受けながらも、根強く残ってきたからこそ明治以降の飛躍的な発展が可能だったと思います。近代日本の先駆者としての秀吉の功績は、もっと高く評価してもよいのではないでしょうか。助平爺、耄碌爺ばかりを強調するのが最近の秀吉観ですが、韓国など近隣の偏向した「歴史認識」に押されて、過小評価というか、偏向しすぎです。助平爺なら家康のほうがずっと程度が悪いですけどね(笑)
秀吉が最も注目し、促進したのは鉱山開発と海外貿易でした。この点では堺の商人である利休も全く同じ思考をしますが、対立していたのは富の配分でした。早い話が税率です。
利休は税金をとられるほうの立場です。秀吉は召し上げる立場です。
利休から見れば、贅沢三昧、浪費三昧の秀吉に経費削減、行政改革を求めます。それが「黒」であり、わび、さびなのですが、一方の秀吉は財政投融資派です。政権が金を使えば、それだけ経済が潤うという考え方です。金は潤沢にあります。生野をはじめとする鉱山から、金銀が溢れるほどに湧き出していました。国債など必要ありません。現在の政権与党も、この時代に生まれて来ればよかったんですがね。ちょっと、時代錯誤のバラマキが多すぎます。海外との交易も活発でした。輸入品は主として繊維です。木綿、絹が中心で、庶民にも衣類革命が起きていましたね。
ただ、主要輸出品の中に「奴隷」が入っていたのが問題でした。日本人奴隷は優秀で、東南アジアでは引っ張りだこの人気だったのです。イスパニアもポルトガルも、競って奴隷集めをやっていました。それに使われたのがイエズス会系の教会です。このことに気がついた秀吉が、キリスト教禁止、奴隷輸出禁止の措置をとりました。秀吉は、日本における人権主義の草分けでもあります。これも歴史教科書では教えませんけどね。
48、秀勝の死は、養父である秀吉には大きな痛手であった。秀次が力を示し始めていたが、まだまだ互いに競わせるつもりだったのだ。秀次がこれまで上げてきた戦果が、火事場の馬鹿力というか、実力以上のものであることを秀吉は冷静に見抜いていた。
「秀次には競争する相手がいる。今度は弟が相手じゃ。子吉は秀勝と改名させる」
秀吉の息子に「秀勝」が三人います。初代は岐阜の時代に実子として生まれましたが、育ちきれずに死にました。二代目は信長の四男を養子に貰い、秀勝を名乗らせています。
この秀勝は優秀だったのですが、生来虚弱でしたが、信長の血を受け継ぐという点で、秀吉政権の正当性を担保する位置づけでもありました。
秀吉は既に、関白の位になって天皇家のブランドを背負っていますから、信長ブランドは必要ないのですが、丹羽、池田、堀などという旧同僚に対しては「信長の後継者」としての正当性の証でもあったのです。この結果、信長の血を引く茶々の値打ちが、格段に上昇しました。ストップ高の株価…というほどに。勿論、信長関連銘柄の初、江も同様です。
秀吉政権、関白といっても、日本の半分程度の勢力で、現在の日本アルプスから東の徳川、北条、上杉、伊達など有力大名は独立王国として健在です。
中でも、徳川は家康の長女督姫を小田原北条家の正室に送り込み、攻守同盟を結んでいます。家康の持つ5カ国に北条の8カ国が合体すれば、その勢力は秀吉に匹敵します。
49、秀吉は城攻めを得意とすると聞いたことがある。それも正面切って攻めるのではなく、城を隙間なく包囲し、時をかけて、じわじわと相手の戦意を奪っていくのだという。私はその城のようなものだ。城攻めの話を聞いたとき茶々は思った。私を囲むこの部屋も、贈られる品々も、一輪の花までもが秀吉の軍勢なのだ、と。
秀勝の死で、秀吉には遠慮や戸惑いがなくなりました。茶々を側室に迎え、信長の血の後継者を手に入れなくてはなりません。まさに城攻めの言葉がぴったりでしょう。
先手の武将は石田三成、片桐助作など、近江浅井家の旧臣です。更には伯父の信包、有楽など使える駒を総動員ですね。理で迫り、情で迫る。勿論、寧々も秀吉の手先です。
田渕「江」では江が必死に守る筋書きにしていましたが、江の力などは殆ど無意味だったでしょうね。むしろ、茶々自身が、変わり行く環境にしたたかな計算をしていたのではないでしょうか。なんと言っても、秀吉には実子がいないのです。さらに、茶々にしても、頼りになるのは秀吉しかいません。父の旧臣たちは皆、秀吉の部下になっています。秀吉の妻になる。決して悪い相談ではありません。
50、焦りが頂点を越えた秀吉は、最後の、究極とも言えるもち札を使うことにした。
旭姫の見舞いと称して、実母の大政所を三河へ差し向けたのである。
上洛した家康に万が一のことがあれば、人質である母を殺してくれてかまわない。 そうした含みを持たせた、まさに崖っぷちの決断であった。
秀吉は小牧長久手での失敗に懲りて、家康を武力討伐することには見切りを付けています。
ましてや、敵に回して小田原の北条と組ませてしまったら、天下分け目の戦いをしなくてはなりません。戦場になるのは、やはり関が原から木曽川にかけての一帯になります。
戦力比較をすれば五分と五分で、甲乙つけがたく、上杉や伊達、佐竹などがどう動くかも見通しがつきません。ここは、天皇から戴いた錦の御旗を前面に押し立て、官軍としての示威を背景に交渉ごとで解決する道を選びます。
一方の家康は、和戦両様の構えです。北条とは同盟を結びましたが、これはいわば相互不可侵条約のようなもので、攻守同盟ではありません。秀吉との戦争に入っても、北条が助けに来てくれる保証はないのです。うかつに仕掛ければ、長期戦になって経済力に勝る秀吉に足元を切り崩されます。いかに有利な交渉に持ち込むか、企業合併の持ち株比率を争うような交渉ごとです。秀吉が対等合併に同意する見込みは全くありませんから、いかに経営権を保持するかというギリギリの線を探らなくてはなりません。しかも、家康政権の外務大臣とも言うべき重臣の石川数正は、秀吉に引き抜かれてしまっています。これまた、徳川家内部を説得する上での障害です。
旭姫の輿入れ、これでは妥協しません。家康からすれば息子の秀康を秀吉の人質に取られていますから、<これで5分と5分>という感覚でしょうね。徳川の独立を売り渡し、経営権を奪われる代償にはなりません。秀吉の母まで人質にとって、これでようやく秀吉が譲歩したと、内外に示すことが出来ました。この辺りが潮時と考えたのでしょう。
浜松に着いた大政所と旭姫の屋敷の周りに、柴を積み上げて、焼き殺す準備をしたのが、
「一筆啓上火の用心」の鬼作左です。作左がそこまでしたのは、自分が手塩にかけて育てた秀康を取り上げてしまった秀吉に対する、あてつけだったでしょうね。