海人の夢 第22回 戦乱のあと

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

戦いはあっけなく終わりましたが、後始末が大変です。主戦場は白河御所でしたが、上皇方についた公家屋敷などにも別働隊が攻撃を仕掛けて、その殆どを焼き、破壊しつくしています。残党が逃げ込んで、ゲリラ戦があちこちで発生するのを防ぐ意味と、金銀財宝などの没収が目的です。特に頼長屋敷は、藤原氏の氏の長者であり、博学をもって知られる通り、貴重な文化財、特に膨大な蔵書を有していました。学問のライバルである信西が、この機会を見逃すはずがありません。漢籍の蔵書を中心に、書物の没収に精力をつぎ込みます。さらに、頼長の書き残したものを他人の目に触れさせたくありません。政敵である頼長を極悪非道な人物に仕立て上げて、後白河帝への信頼と尊敬を集めるためです。そう、証拠の捏造も含めて、戦後処理のためには、証拠が必要なのです。

近頃、警察や検察庁の捜査立証のやり方が問題視されていますが、多かれ少なかれその種のことは発生します。見込み捜査とか、誘導尋問を皮切りに、先入観に基づく証拠調べになります。東京裁判でもそうでしたが、判決が先にあっての証拠固めです。

有罪立証のために有利な証拠の収集と、そして不利な証拠の隠滅のために、敵方の屋敷は焼き払われます。その惨状を見て、西行は

これや見し 昔住みけむ跡ならむ 蓬(よもぎ)が露に月の懸かれる(西行)

と詠みました。西行が仕え、住んでいたあたりの屋敷も、すべて灰燼と消えました。

ふるさとは 見し世にもなく褪(あ)せにけり いずち昔の人や行きけむ(西行)

戦乱の跡は、まさにこういう寂寥(せきりょう)感に襲われるでしょうね。

津波の被災地、福島原発の強制退去の町……現代にも通用する寂しさ、空(むな)しさです。

M06、忠実は、思いのほかの態度で
「そもそも氏の長者たるものが弓矢に当たったことなど、昔からあったであろうか。
しかも流れ矢に当たるとはもってのほかなり。かかる不運のものとは金輪際(こんりんざい)、対面すべきに非ず。一刻も早く、消息も届かぬ遠く遥かな地へ落ちさせたまえ」
というなり、取りつくしまもなく一間のうちに入ってしまった。

逃げる途中、流れ矢に当たって負傷した頼長は、宇治の平等院、父忠実を頼って逃げ込もうとします。が、処分を恐れた忠実は門前払いを食わせます。

実は戦争の当日、忠実の要請で藤原家の菩提寺である奈良興福寺の僧兵や、吉野の兵たちが宇治の近くまで進軍してきていたのですが、上皇方のあっけない負け戦に、援軍もならず急ぎ引き返しています。

「会戦はもう一日、二日後。まずは僧兵たちで鳥羽院を占拠し、それに駆けつける天皇方を、鳥羽にいる大和勢と、白河御所に籠る上皇方の軍勢で挟み撃ちにする、というのが、頼長が立てた基本戦術でした。もし、その通りになれば形勢は逆転します。

清盛が参陣を遅らせた理由の一つはこういう読みがあったのかもしれません。悪平太時代に培(つちか)った傀儡(くぐつ)師などの情報網から、興福寺僧兵、吉野武士など大和勢の動きを逐一受け取っていたと思われます。

一方の忠実、中立を装っていましたが、ホンネでは頼長を支援していました。

長男の忠通が関白では、藤原摂関家は衰退の一路をたどります。なんとしてでも昔の栄華を取り戻すには、上皇方に勝ってほしかったのです。

頼長の要請では腰の重かった興福寺も、忠実からの指令には従って出てきていたのです。

「負けた」と知ってからの変わり身の早さ、さすが老練政治家でしたが、忠実の動きは、敵方の信西にも読まれていました。信西が義朝の献策した夜討ち、朝駆けに即断を下し、先制攻撃を仕掛けたのは、孫子の軍争篇「疾きこと風の如く」以下を熟知していたからにほかなりません。

F57,信西は熱く潤んだ目頭を抑えた。
頼長は碩学を誇り、綱紀粛正に邁進した。信西と道を違え、強引な手法で人の恨みを買いはしたが、政一筋に生きた頼長の志や知識は朝廷で生かされなくてはならない。
信西は日記を閉じて顔を上げた。決然とした目をしていた。

勝てば官軍、負ければ賊軍…言い古された言葉ですが、歴史は勝者によって書き残されます。従って、敗者はアホ、バカ、マヌケな大悪人と書き残されますが、負けたほうがすべて悪かったわけではありません。

頼長は学者肌で、正義感が強く、古きよき時代への復古を目指した政治家でした。が、荘園からの税制に戻るには、地方の力が、既に抑えきれぬほどに向上してきていたのです。公卿たちが独占していた文化も、僧や武士たちによって地方に伝えられ、公卿と平民との文化格差は平安期とは比較にならぬほど接近してきていたのです。民力が向上していたにもかかわらず、それに応じた文化レベルの引き上げを怠ってきた、公卿たちの自業自得の結果とも言えます。

なんとなく、現代でこれに似ているのは官僚と民間企業の関係ですねぇ。

輸送船団方式が華やかなりし頃は、官が主導して民間企業を業界団体などに組織し、指導し、Japan as No1に仕立て上げたのですが、バブル以降は立場が逆転してきましたね。

民間の方が進んでしまって、官が付いて来れません。私がタッチしたアウトソーシング業界などでは、官は全く無知で、通産の課長補佐が「勉強に」来ていました。その男こそが阪神タイガースを買収しようとして騒ぎ、有罪判決を受けた男です。…懐かしい。

ともかく信西は、頼長の日記を見ながら「粛清、厳罰主義」の決意を固めます。

19、信西は洛中や洛外に高札を立てた。
それには、いずれも出家して名乗り出たときには、命を助けるべし、とあった。
ここで、なまじ追捕(ついぶ)の兵を出して諸方で戦を繰り返すよりは、そうした方が公卿たちに効き目がある、と公卿の信西自身が良く知っていたからであった。

出家すればお咎(とが)め無しとすれば、第二、第三の信西が出現します。戦争、人殺しの罪に、そんな甘い処分はあるはずがない…と考えるのが常識ですが、それが信じられるほどに、平安期というのは平和、ぬるま湯が続いていたのでしょう。

これは明らかに信西の罠(わな)です。ともかく、捕まえてしまえば処分は思いのまま、甘い餌で釣ろうと仕掛けた罠に、続々とかかってきます。本人たちが信じなくとも、親類縁者、微罪の者たちが信じますから、隠蔽情報がすぐにあがってきて、隠れていた者たちも逮捕されてしまいます。

公卿たちは甘い期待を持って次々自首してきますが、武士たちは騙されません。敗軍の将は殺されるというのが、既に武士の社会で常識化していましたから、源為義も、平忠正も、自分の支配地に向かって逃げます。支配地に戻り、勢力を巻き返して都に攻め上がるしか生きる道はないのです。が、忠正は伊勢で、為義は尾張で、為朝は摂津で、いずれも裏切った身内に逮捕されました。

F58、崇徳院はあちこちの知るべを頼ろうと散々に彷徨(さまよ)われ、最後に弟君・覚性法親王のおいでになる仁和寺をお訪ねになった。しかし帝方へのとりなしを断られ、罪人として沙汰を待つ御身となった。

崇徳院の逃避行は悲惨でした。極僅かな武士団と従う公卿たちに守られて北に逃げますが、都の北は山岳地帯です。輿も通れない山道ですから、徒歩で進むしかありません。

従う者達も一人減り、二人減り、とうとう数名を残すのみでした。夏、7月でしたから凍死することはありませんが、追われる道ですから不安にさいなまされて神経が異常になったかもしれませんね。それでも洛西の仁和寺までたどり着いたのは、そうとうな体力があったのでしょう。宮中にあって歌ばかり詠んでいた人…というイメージですが、これだけの道のり、険路を独力歩ききったのですから軟弱男ではありませんね。

覚性法親王……一時期は近衛帝の後の天皇にと候補に上がった人ですが、弟の後白河帝が即位してからは、すっかり政治に関心を失いました。兄の崇徳が転がり込んできたのは迷惑千万です。宿舎は提供したものの、即座に天皇方に通報します。兄弟といっても、殆ど一緒に育てられることはなく、子供のころに出家させられていますから、兄弟の情など起きはしなかったでしょう。普段疎遠にしていながら、困ったときだけ転がり込んでくる親戚ほど困ったものはありません。

僅か数名の党でしかなかった国民新党の亀井静香、身内に追い出されて石原慎太郎を頼ります。橋本徹を頼ります。転がり込まれたほうは…迷惑でしょうね。イメージが落ちます。

更に、刑事被告人のままのあの方…どうするんでしょうかねぇ。乾坤(けんこん)一擲(いってき)でしょうか?