海人の夢 第25回 空き巣狙い

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

保元の乱の後、信西が主導した大粛清が行われると、後白河帝は、16歳になる息子の守仁親王に譲位をしてしまいます。これは、天皇を受ける際の約束事ではありましたが、情勢が変わった今となっては、その約束事に縛られる必要もなかったのです。

が、天皇位という窮屈な立場を嫌ったのでしょう。根が遊び人、自由人ですから、宮中の格式や、行事の多さに辟易(へきえき)とし、権力だけ保持したまま、気楽な立場を選んだものと思います。白河、鳥羽の姿を真似ました。

それにしても、高齢で、病後の天皇陛下が、国家元首としての行事や、宮中儀礼などのスケジュールに忙殺されておられる姿は、傍目にも気の毒に思えますねぇ。皇室典範を改正してでも、皇太子や、宮家に分担させないと、寿命を縮めます。

さて、上皇による政治、これはその後、家康、秀忠に引き継がれて大御所政治となり、更に近世になると、総理大臣経験者が、そのまま権力を保有して傀儡後継者を立てるという、自民党的・黒幕政治の伝統を作ってしまいました。民主党に政権が交代しても、同じことをしようとする人が現れますから、日本的政治スタイルとも言えます。これは、決して民主主義的とは言えません。武士道精神にも悖(もと)ります。その非民主主義の代表のような人が「民主主義の原則」とか、「天下国家」などといいますから…笑ってしまいますよね。

25、平治元年の12月、清盛は重盛以下の一門を引き連れて、紀伊の国熊野社に詣でた。
昔から熊野社は歴代の天皇も信心篤(あつ)く、公卿たちも熊野詣を行っている。そのために紀伊の国の海沿いには道が出来て、これを熊野街道と呼んでいる

これが、清盛の油断であったか、それとも誘いであったか、諸説分かれます。

誘いでしょうね。忍者集団を駆使して、情報の扱いに精通した清盛が、信頼など公卿たちや源氏の動きを見逃すはずがありません。更にいえば、政権運営を主導している信西と清盛の関係が蜜月とはいえなかったですから、反信西派が、何らかの形で事を起こしてくれるのは歓迎です。留守中に都で事が起きる。平氏はあずかり知らぬ。――これでフリーハンドの立場を得ます。揉め事は大きければ、大きいほど良いわけで、双方がヘトヘトになったところに乗り込んで、一気に政権中枢に駆け上がることが出来ます。

民主党と自民党が泥仕合を繰り返せば、繰り返すほど、第三勢力のみんなの党や、大阪維新の会に期待が集まります。同じことです。

清盛は、ことのあるのを予測していますから、留守宅の警備と、自分たちの安全確保には十分な準備をしていたはずです。時子以下、親族の身の安全のための脱出ルート、護衛については十分な手配りをし、事が起きたら直ちに脱出する手配は出来ていたはずです。

自分たちの武装、武具についても、参詣行列とは別ルートで輸送隊が進んでいたでしょうね。しかも、都の情報は忍者部隊によって、時々刻々と駅伝方式で伝えられていたと思われます。武士ですからねぇ。そのくらいの警戒は当然です。

26、清盛の予期していた通り、自分たちが都を離れた12月4日、夜に入ってから藤原信頼は、源義朝を呼び寄せ、叛乱を謀った。
このときの信頼の考えは、内裏(だいり)におわす天皇、それから東三条殿におわす後白河法皇、お二人とも幽閉してしまい、信西入道を廃して、公卿の総帥になった自分が、天皇に請うて公卿や武士たちの除目(じもく)を行おう、という考えであった。

信頼は、清盛たちが浪花津から海路に入るのを、今や遅しと待ち構えていました。

清盛が、確実に都を離れたことを見極めてから、事を起こしたかったのです。それだけ、清盛の情報網は知られており、源氏が兵を集めたりすることや、信頼の屋敷に出入りするのを見つかりたくなかったでしょう。義朝を呼び寄せたのも、夜の帳が下りてからでした。

作戦計画は、まず、天皇と上皇を拉致することからです。「玉(ぎょく)を手に入れる」などとも言いますが、手元に拉致、監禁しておけば、官軍と称して全国の武士団に指令が出来ます。平氏の勢力が如何に強くとも、賊軍の汚名を着てまで、味方に付くものは少数です。

伊勢、播磨、筑前の兵は平氏の親衛隊ですが、それ以外の平氏の勢力圏の兵は、日和見するでしょう。それが信頼の狙いであり、しかも、謀反の成功の鍵でもあります。

そこから先が…、戦を知らない公卿の読みの浅さでしたね。「除目(じもく)」などという、戦にとってはどうでも良いことに精力をつぎ込もうとします。除目とは、官位の辞令を渡すことですが、官位は、それに伴う利益が伴ってこそ意味があります。平和なときは名誉を求めますが、戦時下にあっては生き残ること、生存の欲求こそが最大の目標ですから、せめて利益誘導ぐらいまでしか欲が及びません。欲求5段階説…などというものもありますが、戦時下、災害時は、「生き残る」という低レベルの欲求が優先します。

後の話になりますが、信頼は戦闘状態に入ったとき、自らが鎧兜に身を包んで軍事総督をやろうとします。その結果、源氏の指揮系統が乱れて、義朝、悪源太義平などの精鋭部隊の動きが鈍くなってしまいました。

原発事故に、「俺が、俺が」と前線に飛び出した宰相がいましたが、戦を知らぬ素人が、非常時の指揮を取るほど危ないことはありません。これからの日本では、更に各種の災害が予想されています。自衛隊、警察、消防などで日頃から訓練を受けている人たちを先頭に立てないと、二次災害、三次災害のリスクが大きくなります。企業の防災組織も「総務課長、お前がやっとけ」では危険ですよ。平時と戦時では違う能力を必要としますからね。

原子力安全委員会、東電…という反面教師を見たばかりでしょう。各組織の防災、避難などの、自主防災組織の再点検をお勧めします。

27、この叛乱は、よほど慎重にことを進めなくてはならない。
熊野詣に出かけている清盛一行を、すぐに討手を向けて、攻め滅ぼしてしまう必要がある。そのために義朝は、急いで兵百騎ほどを熊野街道に向けた。

この部隊に、真っ先に立候補したのが悪源太義平でした。関東で、数々の戦闘を経験してきています。従う部下も一騎当千の強兵ぞろいで、斉藤実盛、熊谷直実などという、後に義経の配下で大活躍する面々もいました。彼らが急襲すれば、いかに清盛が準備万端していても、応戦するには間に合わなかったのではないでしょうか。傀儡師たち忍者の足が、いかに早くとも、馬には敵いません。なにも知らずにいるところを、精鋭部隊に不意を撃たれて、清盛以下主だったものたちの首はなくなっていましたね。

これを止めたさせたのが信頼です。その点では、左大臣頼長のビデオテープを見るようです。先手必勝、兵は奇道なり、という戦の基本を知りません。更に言えば、信頼のクーデター計画は、保元の乱を、少しも教訓にしていなかったのです。

義朝も、その意味では軍人としてリーダ失格ですね。義朝自信が保元の乱で失敗した父・為義と同じく、公卿の言うことに逆らえなかったのです。位負け…というのでしょうか。

東電、福島で、本社、総理官邸の指示に逆らった所長、彼の行為が正か邪か…、顛末(てんまつ)を詳しく知らないと、うかつに論評できませんが、災害時の現場指揮官としては正しい行動だったと思いますよ。現場でしか判断できないこと、ばかりなのですから・・・。

28、既に信西入道は、藤原信頼が自分に対して何か企んでいる、と察して、病気と称し、人知れず洛外の別荘に引きこもり、都の様子を探っていた。

信西は、前号でも触れましたが、常に不安に苛(さいな)まされていました。血の粛清をやった張本人です。いかに冷血漢とはいえ、人間ですし、和漢の文書に通じていた知識人です。

孔子や孟子が「してはならぬ」と戒めたことをし続けているのですから、必ず、仕返しがあると判っていたはずです。分かっていますから、当然、対策は準備します。

清盛の熊野行き、これには猛反対したと思います。それとも、清盛が無断で出かけてしまったのでしょうか。

もしかすると「俺の役割は終わった」と、観念していたような気もします。敵方が動いたら逃げる、これが信西の基本方針で、事実、その通りに行動しています。部下を総動員して、信頼の動き、源氏の動きを探索していたでしょう。そして、信西の最後の武器は後白河上皇であったはずです。後白河上皇のもとに逃げ込んでしまえば、上皇の裁可がない限り、信頼に引き渡されることはありません。更に、信頼にしても、上皇を殺すことはできません。有史以来の大悪人の汚名を着てしまいます。

上皇の居場所を知る、これこそが信西の本命の情報、命綱だったでしょうね。

それがダメなら吉野に逃げる。吉野から熊野社に逃げ、あわよくば清盛と合流する。

これが次善の策だったでしょう。

いずれにせよ、信西も事のあることを予測していました。信頼の打ち手も、読み筋でした。