海人の夢 第24回 黒衣の宰相

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

保元の乱の後始末は悲惨を極めましたが、その裁可を一手に引き受けたのが信西でした。

厳罰主義…片っ端から死刑を宣告します。「邪魔者は消せ」と、復活させたばかりの死刑制度をフル活用して、公家といわず、武士といわず、根こそぎ処分してしまいます。

この被害を最も受けたのが源氏でした。為義に繋がるものは、幼子まで処刑してしまいます。義朝にとっては弟たちが、ことごとく殺されたわけで、これを恨みに思わぬはずはありません。女たちとて、桂川に飛び込んで自殺した為義の正室を始め、悲劇の数々は枚挙に暇がありません。

「過酷な処分はしない」といっておびき出し、捕まえたら厳罰に処するというやり方でしたから、怨嗟の渦は広がりますね。信西のやり方は、まさに恐怖政治です。

更に、崇徳上皇も仁和寺で出家謹慎していたのですが、讃岐に遠島してしまいました。

上皇の取り巻きだった公卿たちは、皆、別のところに遠島にされたり、死罪にされていますから、従うものとてない寂しさです。

なぜ、ここまでしたか。信西を突き動かしたのは「不安」という化け物ではなかったでしょうか。手に入れた権力を離したくない、という思いが強ければ強いほど、それを揺るがす者は敵に見えてきます。不安が不安を呼び、不安の根を絶とうと…厳罰に走ります。

21、清盛も叔父・忠正の首を刎ねなくてはならなかったが、それには、平家の武士たちの心を一つにするという目的があった。もし忠正の命を助けても、おそらく西国へ逃れて、兵を集め、清盛を討とうという体制を整えたに違いない。
そうなれば、平氏一門の中で互いに血を流し合うことになり、天下に泰平を招こうという清盛の望みは遠くなる。

「もし、忠正一門を救っていたら…」という仮定の話ですが、ここで村上元三が推測する通りになったでしょうね。この時点で平氏の影響力のある地方は17カ国に及びますが、その隅々まで、清盛の指令が行き届いているわけではありません。中国四国地方から西は、その時々の政治的思惑で、どう転ぶかわかりませんし、筑前には、平氏の収益源である密貿易の拠点があります。忠正が、もし、ここを抑えてしまえば、豊富な資金を使って兵を集めるのは容易ですし、京への資金の流れが止まってしまいます。金の切れ目は縁の切れ目、清盛の部下掌握にも支障をきたすばかりか、朝廷工作もままなりません。

忠盛以来、平氏が朝廷から大事にされてきたのは、その軍事力だけではなく、財力だったのです。特に保元の乱では、京の市内戦争でしたから、都は焼け跡だらけです。復興資金を持つものが大切にされるのは当然で、源氏より平家が大切にされるのは、その一点に尽きます。

東日本大震災への対応、原発再稼動問題、いずれも財政との兼ね合いです。「ない袖は振れぬ」わけで、資金を得るために消費増税は避けて通れません。原発も稼動させなくては、エネルギーが不如意になり、企業は生産拠点の海外移転を加速させてしまいます。経済界の意向を無視した「福祉国家」の理想論など、砂上の楼閣です。

「国民に約束したマニフェストを守ることこそ、民主主義である」と、理想論を振りかざし、威張っている政治家がいますが、世の中の変化に対応できないガラパゴス政治家でしょうねぇ。こういう人に天下国家を任せたら、どこに連れて行かれるのでしょうか。

22、残るは、為義の8男・為朝だけであった。
9月に入って、清盛の家来たちが、ようやく八郎為朝の行方を探り出してきた。
為朝と数人の家来は、近江の国甲賀郡、和田の里というところに隠れているという。

戦争をスポーツ化して観たとき、保元の乱のスーパヒーローは源為朝です。相撲で言えば大鵬、北の湖、千代の富士、白鳳といった存在感でした。野球なら王、長島、金田でしょうか。「強いものは憎まれる」などとも言いますが、人気も抜群です。

当時の庶民の間でも、英雄として人気が高かったものと思われます。ですから、隠れ家の情報などは警察に上がってきません。ましてや、信西が過酷な処分を繰り返すのを見るにつけ、ますます、隠そうとします。したがって、遠くに逃げるよりも、為朝の活躍ぶりを良く知っている、都の周辺のほうが安全なのです。

平氏の探索網が、そういう人情をかいくぐって隠匿情報を探り当てたのには、忠盛以来の、裏の情報網があったからでしょう。忠盛、清盛と続いて、平氏は海賊退治をして成果を認められていますが、海賊を処刑せず、一門の末端に加え、傀儡師(くぐつし)集団として傘下に加えています。傀儡師(くぐつし)とは、大道芸人のことで、都や地方を巡業して歩きます。これが配下にいるということは、忍者、探偵の役割を持たせたということです。

NHKドラマにでてくる兎丸の一党、彼らがその役割を担っていました。

為朝は、雨の日、風呂に入っていたところを平家の武者100騎に踏み込まれて、捕縛されてしまいました。相当大掛かりな逮捕劇でしたね。

余談になりますが、私の住い、川崎市幸区が最近有名になってしまいました。オームの手配犯人が、隠れていた町としてです。が、我々住民が匿っていたわけではありません(笑)

密集地の安アパート、住民の目は届きませんよ。「隣は何をする人ぞ」ですからねぇ。

23、戦乱がおさまってから、藤原忠通が氏の長者に復したとはいえ、最も勢力を得たのは信西入道であった。むしろ、藤原一門から孤立して権力を振るい、墨染めの衣をまとっているところから黒衣の宰相と呼ばれた。

宰相とは、現代では総理大臣のことを言いますが、当時から江戸時代までは四位・参議という朝廷の役職を言います。内閣府の役人ではありますが、その上に中納言、大納言などがいて、更に、内大臣、左大臣、右大臣、関白がいますから、現代の局長クラスでしょうか。しかし、天皇への取次ぎなどを行いますから、内閣官房長官といった役どころでしょうね。でないと、辣腕を振るえません。

信西も藤原一門には違いありませんが、藤原家も700年代の鎌足以来、分家を繰り返して裾野が大きく広がっています。ピンからキリまで…の藤原家のうち、非主流の南家の出身です。まぁ、現代の少数派閥出身の大臣というところです。

ドラマでは法衣をまとっていませんが、出家して入道を名乗っていますから、着ていたのは墨染めの衣でしょうね。その信西のもとに、出世を求めて人が集まります。源氏も、平家もそういう点では公卿たちと同じです。平氏、清盛は、娘を信西の息子の嫁に送り込むことに成功しましたが、義朝は、信西の息子を養子にする工作に失敗しました。結納金として用意した金品が、源氏と平家では一桁ほど違っていました。

24、信西に近づくことを諦め、義朝は、同じ藤原家の信頼(のぶより)の屋敷に出入りするようになった。信頼はまだ26歳だが、藤原家の中でも名門であり、天皇から深く寵愛されている。また、信西に従わない公卿たちは、信頼を中心にして、朝廷内に新しい勢力を築こうとしていた。

天皇位をめぐる争いは、保元の乱で決着しましたが、藤原家の争いは、新しい局面を迎えました。南家出身の信西が大きな顔をするのを喜ばない北家の公卿たちが、派閥争いを始めます。藤原家の南北抗争でしょうか。これが…平治の乱への伏線になっていきます。

義朝が、信西派に付くことをあきらめたのは、やはり一族を殺された恨みでしょうか。

それとも、平氏への対抗意識でしょうか。そのどちらでもなく、藤原信頼からの誘いの手だったように思います。保元の乱で、武士団の存在感はいやがうえにも高まっています。信頼が、信西に対抗して主導権を握るには、武力の裏づけを必要とします。既に、平氏は信西と姻戚関係を結び、良好な関係にありますから、手元に引き寄せる相手は源氏しかありません。義朝も昇殿を許され、殿上人になりましたが、平氏に匹敵する位階を与えられていませんから、昇進の意欲が高かったでしょうね。

「信西がだめなら、信頼があるさ」という政治判断でしょう。

権力を求めての烏合の衆の集まりは、昔も今も全く変わりがありません。ちなみに、烏合の衆とは<規律も統制もない寄り集まりの人々>を言うのですが、政権与党も、野党第一党も、どうやら烏の群れのようですねぇ。野党第一党には綱領があって、自主憲法制定を目指すと方向性は定めてありますが、与党の方は、その綱領すらありません。あえて言えば、<政権交代を実現する>がそれに替わる共通目標だったのですが、交代が実現してからは糸の切れた凧です。自分の考えが全くない鳩ポッポ、野党のまんまの菅蛙、それに権力欲の塊のような蝦蟇親父がからんでトロイカでしたが、彼らに国家の大計などあるはずがありません。欠陥大臣ばかりが出てしまうのは、勉強と信念が足らないからでしょう。