海人の夢 第23回 粛清の嵐

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

保元の乱は、戦闘こそ短時間、小規模で終わりましたが、その後の戦後処理で遺恨を残し、平治の乱への導火線を敷いてしまいました。

信西や後白河天皇は、台頭してきた武士の力を弱めるために、過酷な処分、粛清を行います。「邪魔者は消せ」とばかりに、上皇方についた武士団を徹底的に叩いておこう、という魂胆だったと思われます。

清盛には、伯父の忠正一族を斬れと命じます。

義朝には父の為義始め、頼賢以下4人の弟を斬らせ、その子供たちまで処刑させます。

こうすることで、武士団の動揺を誘い、内部分裂を起こそうと考えたのでしょうか。

それとも、命令に背かせて、それを追討するために、2回戦を仕組んだのでしょうか。

結果的にはいずれの思惑も不発に終わります。源氏も平家も、動揺するどころか、内部から異分子がいなくなることで、団結が強固になって、ますます軍事力は向上してしまいます。指揮命令系統が整う結果になりました。

替え玉を使って逃がすにしても、義朝も忠正も有名人ですから、ごまかしは利きません。

逃がすと言う選択肢は全くなかったでしょうし、逃がしたら「謀反」として成敗されることは必至です。一門全体が根絶やしにされてしまいますから、そんなリスクは負えません。

清盛も、義朝も、処分撤回を求めて信西と掛け合います。

F59、「そもそも死罪などという法はない」
清盛はなんとしてでも処分を撤回させようとする。
「古にはあった。死罪が廃されたは世がそれを必要としなかったからじゃ。それに値する罪を犯すものがあらば、執り行うが道と言うものじゃ」

清盛が言うとおり、平安期の300年間、都で天皇の裁可によって死刑が執行されたことはありません。が、坂上田村麻呂や源義家による蝦夷征伐では、戦闘での殺戮、捕虜にしたものへの死罪など、都以外の地で死刑執行が行われていました。東北の阿倍一族や清原一族などは、前九年の役、後三年の役で粛清されています。

理屈と膏薬は、どこにでも貼り付く…といいますが、当時、宮廷第一の知識人といわれ、天皇の権威を振りかざす信西に、清盛や義朝が理屈で太刀打ちできるはずがありません。

無駄な抵抗と知りつつも、抵抗するのが人情ですね。源氏や平家が処刑を渋っているのを見て、信西は先手を打ちます。上皇方の公卿たちで、武器を持って戦った者たちを、次々と処刑していきます。もし、西行が出家せず、佐藤義清のままでいたら、間違いなくこのとき処刑された70人の公家武士の中に入っていたでしょう。西行は「良い時に逃げ出した」とも言えます。これも……運でしょうね。

現代、裁判員制度が導入されてから、厳罰化の方向に振り子が揺れています。死刑判決の出る裁判事例が増えていますが、法務大臣がなかなか死刑執行の判を押しません。おかげで、死刑囚の収容が出来ないほど、刑務所が一杯になってしまいました。

死刑執行…誰にとっても寝覚めの悪い仕事です。ですが、「私は死刑廃止論者です」と言って、職責を逃げる人を法務大臣にしてはいけませんね。死刑判決の確定した事件と言うのは、誰が見ても信じられないほどの残虐な事件なのです。精神異常を理由に起訴猶予や、無罪判決もありますが、これとて???ではないでしょうか。人を殺すなどと言う心理は…所詮、異常心理なのです。

F60、「義朝。わが首をはねよ。源氏の棟梁の証の、この太刀で。親兄弟の屍の上に雄々しく立て。それがお前の選んだ道。源氏の栄華へと続く道じゃ。

義朝にとって、父や弟を斬ると言うのは辛かったでしょうね。斬られるほうは、捕まったときに、既に覚悟を決めていたでしょうから、比較的冷静に判断が出来ますが、斬る方は…なんとか助ける方法を模索します。自分が切腹して死ぬほうがよほど楽でしょう。

あえて身内に処分させる、…このあたりが信西の残酷なところです。天皇の命令に従うか、それとも違背するか、踏み絵を踏ませるようなものですからね。

実際は、義朝は処刑の場に立ち会っていません。「関東に逃がす」と騙して、京都の北辺、八瀬のあたりまで連れ出し、そこで鎌田次郎正清に首を挙げさせています。

まぁ、人情として当然でしょうね。

今回のドラマは「お話」ですから、義朝の苦悩や、頼朝の精神構造の形成までドラマチックに描きますが、自ら手を下していたら、精神異常で廃人になってしまいます。ましてや、12歳の頼朝がこんな残酷な場面を目にしたら、鎌倉幕府の創設までいかなかったでしょう。お話として、後に義経を粛清する決断にいたる伏線として、目撃体験を挿入したものと思います。

F61、義姉上が言ってくださった。わしにこれ以上の苦しみがないよう祈ると。わしの苦しみは平氏がついえることじゃ。ここで身内を斬る痛みを乗り越えてこそ、一門は栄える。そのためならば、わしは喜んで斬られよう。

これまたドラマ仕立てですが、清盛にとっては、事あるごとに反対の立場をとってきた叔父であり、平氏内部でのライバルですから、義朝が親兄弟を斬るのに比べたら、精神的には楽だったと思います。実際に手を下したのは伊藤忠清、盛国、時忠ですが、六波羅近くの六条河原で公開処刑をしています。

実際に忠正を説得し、引導を渡したのは池の禅尼・宗子だったと思います。

引用した部分で「義姉」とは宗子のことで、忠盛の妻です。

このことがあってから、池の禅尼は一層、仏門に傾斜していきます。忠正や清盛、それに実子の頼盛の苦しみを全部引き受けて、苦しみぬいたのでしょう。このときの反省、苦しみが、後に頼朝の助命へと繋がっていきます。

処刑のタイミングは平氏が源氏より先でした。この情報が伝わって、義朝は選択肢を失ったのです。源平双方が命令に従わなければ、粘り様がありましたが、平家が命令に従ってしまった以上、粘ったら「謀反・成敗」の口実を与えてしまいます。

父親と弟を斬るしかなくなってしまったのです。清盛を恨みます。

ドラマでは、清盛が宋剣で首を落としたことにしていますが、宋剣は首を切るには不向きです。肉厚の鉈のようなものですから、日本刀に比べて切れ味が悪く、こういう場面に向いていません。そんなところも、今回の時代考証は甘いですねぇ。

F61、「滋子。勤めに出よ。こたびの戦で上皇様や左大臣様にゆかりの方々が職を追われ、後宮にも人手が足らぬと聞く。そなた、どなたかにお仕えせよ」

滋子は清盛の妻、時子の妹です。絶世の美人であったと言われていますが、遊び人の後白河が一目ぼれして溺愛したと言うのですから「才長けて、眉目麗しく、情けあり」だったでしょうね。滋子の産んだ子が後の高倉天皇です。

時子は「どなたかにお仕えせよ」と言いますが、どなたかではなく、嫁入り先は天皇と、予め密約が出来ていたのでしょう。平氏が宮廷内で力を持つに至った裏には、この滋子の力がかなり大きかったと思います。そして、滋子の兄、時子の弟である平時忠が平氏内部や、宮廷内で大きな顔をし始めます。「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語し「奢れる者、久しからず」と世の顰蹙を買った張本人でもあります。宮廷工作の苦手だった清盛に代わって、宮廷内の陰謀、策謀を取り仕切るようになっていきますが…それは後の話。

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今週は少し余白が出来ました。重い決断の話ですから筆が進みません。

重い決断と言えば―――ドジョウ総理が、まさに清盛、義朝の心境でしょう。

「不退転の決意」「政治生命を賭ける」と何度も表明していますから、後には引けません。消費税増税に向けて「小沢を斬る」正念場です。7割がた、斬るでしょうね。斬らなければ政治家失格となり、ドジョウも民主党も政治生命を断たれます。

その前に、自民党との解散総選挙の密約が必要です。衆議院の定数是正がMUST要件です。そうしないと選挙無効の訴えが出て、解散が出来ませんからね。まず、定数是正を自民党案丸呑みで通します。0増5減・・・これで司法の壁は越えます。

次に、衆議院での強行採決、小の造反は仕方がありません。造反者は除名処分です。

自民、公明が賛成するかどうかは、賭けです。むしろ、自民公明が踏み絵を踏まされます。

まず、増税と言う点で一致して、増税した税金の使い道は「選挙で争う」という方向でしょう。少なくとも離党した小は大幅に議席を落としますね。

我々選挙民が、踏み絵を踏まされる番ですよ。どうするか? おのおのがた、お覚悟を!