16 合従連衡(2020年4月30日)

文聞亭笑一

先週の後半は、尾張も美濃も血なまぐさい事件で終わりました。

尾張では名目上の国主・斯波義統が暗殺され、それを仕組んだ守護代の織田彦五郎も、守山の織田信光に暗殺されます。信長の反対勢力の大きな柱が消えましたが、まだ弟・信行を擁立しようという勢力は残っています。

美濃では家督を譲られた高政が、対立する弟二人を暗殺します。隠居した道三の影響力を打ち消して、自らが理想とする政治を行うためでした。高政の理想は旧体制の復活による美濃一国の安定でした。自らを土岐一族の末裔と称し、正当な政権であることを誇示します。

合従連衡

「合従連衡」は中国の春秋戦国時代にできた言葉で、利害の対立する者同士が同盟したり、離反したりを繰り返す様を言います。

日本の戦国時代も応仁の乱をきっかけに先ずは分散化現象が起こります。幕府の権力から離脱し、部分最適というか、領国最適に走り国家全体のことなど無視します。

守護家を中心に六十四州がバラバラに分解し、さらに、その中でも本家・分家に分かれ、更には家来筋の土豪たちまで独立して覇を競いました。

1550年ころになると集約化の傾向がみられ、力のある地方大名が国内を統一し、更に隣国まで勢力を伸ばして領国、勢力範囲を増やします。

駿河の今川は伊豆から遠江、三河にまで勢力を広げ、4か国の太守にまで成長しています。

甲斐の武田も信濃に進出し、諏訪、伊那、深志を手中に収め、佐久から善光寺平へと触手を伸ばしています。

同様に相模の北条は、今川から独立して上杉から相模を奪い、武蔵、上総、下総なども参加に加え、更に上野、下野にまで勢力を伸ばします。

そして越後の長尾も越中を切り取り、関東を狙います。

つまり、物語が進行している今(1550年ころ)は「集中化」「統合化」の流れにあります。

この流れを理解していたのが斉藤道三や織田信長で、流れに逆らおうとしていたのが斉藤高政、織田彦五郎、織田信行を擁立しようとする勢力などです。

流れが集約化に向かったのは、流通の活性化と、それと同時に起こる情報の伝達力でしょうね。忍者や隠密など使わなくても、商人の口から他国の情報が伝わってきます。情報が飛び交うと、権威による安定的な政治が難しくなり、経済力など実利で政治を動かすことになります。

~ちょっと脱線・北条早雲~

経済が歴史を動かす…と言う当たり前の話を、教科書は教えてくれませんでしたが、当たり前のことをして一代で関東を手に入れた男がいます。北条早雲という方が、通りが良いのですが、元の名は伊勢新九郎。新九郎の本家の伊勢家は室町将軍家の官房長官のような役柄でした。

この家から新九郎の妹か従妹の北川殿が今川家に嫁に行きます。ところが、家督相続をめぐって今川家にお家騒動が起こり、北川殿の産んだ幼君の後見人として新九郎が駿河に赴任します。新九郎は駿河のみならず、伊豆にまで勢力を伸ばし、伊豆方面の代官というか、領主になります。

そこらは司馬遼太郎の「箱根の坂」に詳しいのですが、新九郎・早雲が一気呵成に関東を席巻したのは経済政策そのもの・・・、つまりは税制です。

奈良朝の公地公民制以来、日本の税制は「五公五民」が標準でした。ところが政情が不安定になって、戦いが頻発すると軍資金確保のために税率を上げます。戦国時代の平均は「六公四民」でしたね。更には侵略した占領地に対して「七公三民」などというケースもあったようです。

ところが、これと反対のことをやったのが北条早雲です。早雲は伊豆の国の税制を「四公六民」にしました。大幅減税です。そして商人を使って相模から武蔵方面に評判を流します。

「北条の天下になれば税金が下がる」庶民たちは六割持っていく現領主よりも、北条が領主になることを望みます。戦わずして・・・民意は北条方に靡いていますから、内乱、反乱などのきっかけさえあれば、領地が乗っ取れます。

・・・郷土史会で「戦国期の川崎」を語りますので、ちょいと、ご紹介しました。

雪斎死す

太原雪斎・・・今川家の軍師が死亡します。

今川にとっては外務大臣、兼、陸海軍元帥とも言うべき人で、武田、北条、上杉を相手にした合従連衡を始めとして、尾張・美濃・近江経由の上洛作戦の筋書きづくりや根回しまで、一手に引き受けていました。

東庵先生こと、公家の山科言継などを駿河に招いていたのは朝廷工作でもあります。雪斎の筋書きでは「尾張の織田は蹴散らす(武力討伐)。美濃の斉藤高政は懐柔して与力(家来)にする。

近江では、将軍家を後援する六角を従えて京に上る。

京に巣食う三好、松永の一党を蹴散らして、京を将軍家に取り戻す。

朝廷から副将軍の綸旨を出してもらい、足利将軍を傀儡として、今川義元が政権を執る」

雪斎はその為の工作を、着々と進めていたと思われます。勿論、今川義元も、その母のj寿桂尼も同様な戦略を共有し、互いに役割を分担して工作に当たっていたのでしょう。朝廷工作などは公家の出身の寿桂尼が担当していたと思いますね。

その雪斎が死んでしまいました。描いていた戦略の中には「雪斎ならばこそ…」の部分が多分にあったと思われます。とりわけ近隣諸国の信用、身内の国衆などの安心感、期待感などは義元よりも雪斎に重心があったのではないでしょうか。

その証拠に、桶狭間以降の今川の凋落、崩壊が早すぎます。原因は息子の氏真が無能ということになっていますが、そればかりではなく「雪斎あっての今川」だったようにも思います。

今週は家康(竹千代)も登場するようですが、竹千代も雪斎には心酔していたようです。成人してからの政治スタイルは雪斎の訓えの影響が大きかったのでしょう。

家康は居城を岡崎から浜松、駿府、江戸と移しますが、最後は駿府に戻ってきます。心の故郷は駿河だったのでしょう。家康の場合、父親の広忠とは早くに別れていますから、彼の心の中にあった父親は雪斎だったのかもしれません。

江戸幕府が「保守回帰」なのも・・・その影響かもしれません。

今週は余談が多くなりました。

NHKの今週のタイトルは「大きな国」 大きな国とは、地方勢力が連合、合体、同盟した姿を言うのでしょう。美濃、尾張から東海地方全体に視野を広げます。