「論語と算盤」逐次解説 第13回 

文聞亭笑一

49 実践あっての理論

学問の修養には際限がない。かといって、学問を追求するあまりに空理空論に走ってはならぬ。

理論と実際、学問と事業とが、互いに並行して発達しないと国家の隆興は達成できない。

儒教にしても、中国では宋朝の頃までは空論が横行し、政治も頽廃し、国力も低下した。

その死学であった儒教を、政治理念として復活させたのが神君・家康公である。

有名な「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。・・・云々」の原点は論語にある。

理論の探求と、その実践があってこそ政治も経済も正回転を続けることができるのだ・・・と説きます。

誰にも異論のない所なのですが、学者、評論家と称する方々がテレビに出てきて、何がしか吠えたてている姿を見ると「空理空論」と言う印象を拭い去れません。

とりわけ最近では「オリンピックと、コロナワクチンの調達をなぜ結びつけて交渉しなかったのか」と、後付の理屈で政府批判をしていますが、そういうアイディアがあったなら、もっと早くに専門家委員会に提案すべきでした。

政府にも提言すべきでした。量は確保できていますが注射できる人がいない、ワクチンを運ぶ物流が確保できないというのが現実です。

批判ばかりして、汗をかかない人が偉そうにするマスゴミとネットの世の中・・・現代はその意味で空理空論の世界かもしれません。

50、意志力の鍛錬

総じて世の中のことは、心のままにならぬことが多い。

自分の心のうちでも、一度決めたことが他人の誘惑により、また怠惰な心根や、突然の出来事に驚いて心変わりしてしまうことがある。

これは意志が弱いと言わざるを得ないし、意志の鍛錬ができていないということでもある。

何人も問題の起こらぬ時において、その心がけを練っておき、いざとなったらそれを順序良く進めるばかりである。慌てたり、迷ったりすることはない。

余が、長年の経験で得た教訓は

「些事の微に至るまで、これを閑却すべからず」

「自己の意志に反することなら、事の細大を問わず断固これをはねつけるべし」・・・である。

渋沢栄一の経験談を披露する例文が多く、要約しにくい章でしたが、結論は最後の教訓ですね。

些細な問題は「これくらいのことは誤差のうち」などと見逃してしまうことが多いのですが、そういう中に重要な問題の予兆が隠されていることもあります。

とりわけ人心の機微にかかわることは、具体的な形を以て現象に現れません。ついつい見逃して・・・後悔します。

これが「ブルータス、お前もか!」になったり、「なぜだ?!」と叫んで社長を退任したりするハメになったりします。

また、意に反することでも「ま、いいか」「ちいせぇ、ちいせぇ」などと太っ腹を見せようとして清濁併せ呑む度量を見せたりしますが、これが危険だと言います。

オレオレ詐欺や、悪徳商法に引っかかるのも、こういったことの延長線上でしょうね。

角は立ちますが・・・断るべきことは、断る勇気が必要ですね。・・・・・・この後に乃木大将の殉死を称える文章と、神君・家康を称える文章が続きます。

乃木大将については203高地の消耗戦などは愚劣な采配だと考えますし、部下を戦死させた数の多さでは愚将だと思っていますので、解説は避けます。

ただ、台湾総督としての乃木希典の現地政治は素晴らしく、それが現代の日台友好関係にまで好影響をもたらしています。

家康については49と似た内容なので省略します。

51、「修養」反対論

修養に対して反対する人がいる。

二つの反対意見があるが、その一つは「修養は天真爛漫であるべき人の性を傷つける」といい、もう一つは「修養は人を卑屈にする」と言う。

まず、これ等の反論をする人は、修養と修飾を取り違えているのではないか。

修養は、過ちのない人生を過ごすための勉学、訓練、忍耐などであるから、天真爛漫を抑えることはあるが、傷つけることにはならぬ。

また、卑屈になるような修養は、ニセ君子を目指すような誤った修養であろう。

おそらく、礼節や敬虔と言ったことが嫌いな者たちの妄言ではなかろうか。

この文章が書かれたのは昭和初期ですが、戦後の日教組が「道徳教育反対!!」として掲げた反論に似ていますね。当時から屁理屈を言う輩がいたようです。

尤も、形だけの礼儀作法を以て「修養だ」「修行だ」とする一派もありますし、葬式仏教などと揶揄されるように、宗教界が「法話」などと言って道徳を説きながら、裏では「地獄の沙汰も金次第」と金儲けに徹しているといった実態もあります。

本来の修養・・・人格形成修養は人が、人として生きるために避けて通れない道でしょう。

52、道徳の混沌時代

西洋文化の導入を以て「儒教は古い」と遠ざけられたが、道徳律は新しいか、古いかの問題ではない。

あるか、ないかが問題で、道徳があるのならキリスト教でも良い。古いと捨てて、何も持たないのが問題である。

世界の列強が宗教を有して、道徳律が確立されているのに比し、独り吾が国のみがこのありさまでは大国民として甚だ恥ずかしい次第ではないか。

現代も「混沌時代」は続きます。国民に共通の宗教は存在しませんし、道徳律も曖昧です。

が・・・何となく、「科学技術教」と言うのか、諸宗教からの「良いとこ取り教」と言うのか、

そんなもの・・・私流に言えば八百万(やおよろず)教・・・が、ディファクトスタンダードとして、できつつあるように見えます。

日本人は無宗教だ…などと言いますが、老若男女共々に初詣は神社で二礼二拍手一礼をし、お彼岸には仏前に花を供えて「南無阿弥陀仏」とか、「南無妙法蓮華経」などと呟きます。

そして「子、曰く」の中の気に入った幾つかを、座右の銘などと称して、時々に反芻したりします。

また、「汝右の頬を打たれたら…」などと聖書の文句なども引用して、子どもを教育したりします。

教義が体系化されていないという批判もありますが、人夫々に「気に入った順」と言う価値観で、自分教の教義(?)に優先順位がつけられていますね。