どうなる家康 第5回 人質交換

作 文聞亭笑一

いやはや・・・凄い発想の転換というか、飛躍・跳躍に「驚き、桃の木、山椒の木」

これは歴史物語と思ってはいけませんね。

時代を借りた劇画、漫画の世界です。

そう思い直してみていると、なかなか面白いと思い始めました。

何を起こすかわからない脚本と演出、歴史に名を借りた創作物語、SF空想小説の中に没入した方が・・・気楽に楽しめそうです。

時代考証の小和田さんを批判してきましたが、小和田さんもここまでやられたら何も言えませんね。

「勝手にしやがれ」でしょうか。気の毒になってきました。

家康とお市

漫画ですね。家康とお市が幼なじみで一緒に過ごしたとは・・・アハハ 嗤うしかありません。

家康は1542年生まれ、6歳の時に尾張・熱田に人質として拉致されます。

一方のお市は1547年生まれ、家康の尾張時代には1歳の赤子です。

一緒に水練をしたとすれば風呂桶の中か、盥の中でしょう。

現代で言えばビニ・プールでの水遊びですね。

しかし、劇画的発想で見れば面白い。

そこまでやるか!と言った雰囲気です。

なまじ、歴史を知らなければ面白い展開ですよ。

幼なじみの思い出は 青いレモンの味がする・・・なんちゃって。

家康とお市には接点は全くなかったでしょうね。

しかし、藤吉郎・秀吉は終生にわたってお市の面影を慕い続けます。

そして、その娘の淀君の色香におぼれ、国益を台無しにする暴挙を始めてしまいます。

その伏線でしょうかね。

テレビ画面では家康よりも秀吉役のムロツヨシの表情が印象的でした。

前回に書いたとおり、家康が清洲まで出かけた可能性は低いのです。

それが清洲に数日にわたって滞在とは・・・、その意味で今回の放送は全くの虚構、お遊びでした。

ただ、織田家家臣団から見て「三河は格下」という意識はありました。

「今川の配下であったものを独立させてやったのは自分たちだ」という意識があり、さらに「三河は番犬」と言った感覚もあったようで重臣の佐久間信盛などは、あからさまにそれを口にしていたと言います。

人質奪還

今川氏真が瀬名を陵辱するような場面がありました。

ありそうな話ですが、それは幼なじみの再会のような話でしょう。

今川義元は息子・氏真の正室候補として、鶴姫・亀姫の二人を幼い頃から手元で育て、公家風の礼儀作法を英才教育していたと言われます。

その鶴姫とは・・・瀬名、家康の正室です。

亀姫は・・・飯尾豊前の妻として浜松に嫁入りします。

なぜ鶴亀が氏真の正室から外れたのか。

政治です。

「甲駿相の3国同盟」の締結です。

甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、相模の北条氏康・・・戦国武将として指折りの大物です。

この3者が同盟を結び、その証として政略結婚をすることになりました。

今川の姫が甲斐武田の世子へ、武田の姫が小田原北条の世子へ、そして北条の姫が今川の世子へと縁組みがまとまり、今川氏真の元には「早川殿」が輿入れしてきます。

鶴亀は用なしになりました。

が・・・鶴にも、亀にもすでに氏真の手が付いていた・・・と言うのが歴史小説の通説です。

氏真としては、幼なじみ、昔の恋人の鶴姫(瀬名)を使って家康への脅しをかけ、尾三同盟への妨害がしたかったと思います。

人質とはそういう物で、殺してしまっては役に立ちません。

最後の最後まで殺さないで使うのが戦国流の駆け引きです。

いや、それは信長を除いての話です。

信長というサイボーグのような男は日本史の中で際立ちます。

日本人的でありません。

サテ、家康。人質奪還に「雪斎方式」を検討します。

今川の軍師・雪斎禅師が織田に拉致された家康を取り戻すためにやった戦略は、安城城にいる織田家の長男を捕虜にして、人質交換すると言う方策でした。

これが成功して、家康・竹千代は駿府で青春を過ごすことになります。

家康とその重臣達はこれと「同じ事をしよう」と目論みます。

狙いは掛川城の鵜殿長照です。

氏真にとって鵜殿一族は代々の重臣、伯母の嫁ぎ先でもあります。大切な親戚です。

鵜殿一族の誰か、それに家族までを捕虜にして、松平の捕虜・瀬名、竹千代、亀姫、さらには重臣達の人質と交換しようと計画します。

数正凱旋

作戦は大成功でした。

敵将の鵜殿長照は自刃してしまいましたが、その子どもや女達は捕虜にできました。

これを材料に今川と人質交換の交渉です。

松平方の全権大使は石川数正でした。

自身も家康と共に駿府での人質生活の経験がありますし、今川との人脈もあります。

交渉は、松平が主導権を握る展開で決着し、松平方の人質は全員解放となりました。

竹千代を馬の前鞍に乗せて岡崎へ帰着した石川数正、将に凱旋将軍でした。

…が、これが後々のヒガミ、ヤッカミの元になっていきます。

横並び発想を是とする日本的社会で目立つことをする場合は・・・万全の配慮が必要です。

こういう気配りをしなくてはならないのが若者から嫌われますね。

かつて私もこれを嫌いましたが、今やその世界に溶け込んでいます(笑)

この人質奪回作戦での家康は果断でした。

「どうする?」などと迷っていません。

この作戦で活躍したのが服部半蔵とその配下の忍者達です。

夜間、西郡城侵入し各所の放火し、その混乱を付いて家康の本隊が攻めかかるという奇襲でした。

忍者ハットリクン・・・徳川忍者部隊の初陣でもありました。

この作戦で家康は「これしかない」と全力投入でした。

それが・・・部下達にも信頼されました。

司馬遼太郎は家康をモデルにした小説「覇王の家」で「大将には二つの必要条件がある」と述べています。

知恵や武術、体力は十分条件に過ぎないが

① 「威」がなくてはならぬ

② 思いやり、優しさがなくてはならぬ

と、哲学的というか、論語的というか、王道、覇道などという価値観を披瀝します。

それが司馬遼史観であり、我々世代の共通認識でもあります。

英語にすればリーダシップですが、大将、親分、親方、旦那の資質ですよね。

① の「威」とは哲学というか、断固たる姿勢でしょうね。男気とも言います。頑固とも・・・

② は共同、協業というのか、上下関係ではなく仲間意識のつきあいでしょうね。

この二つがあれば、そのほかの才能は参謀を見つけ出して活用すれば良いと言います。

信玄に勘助、秀吉に半兵衛・官兵衛、家康には本多正信・・・企業参謀という風潮と司馬遼太郎の歴史物語は日本の高度成長期をリードする思想でもありました。

高度成長期、あの時代は山岡荘八の「徳川家康」が企業管理職の必読の書・教科書的な位置づけでもありました。