南蛮文化(第19回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
秀吉はついに太政大臣の位まで手に入れます。藤原一門以外でこの位を手にしたのは平清盛以来ですね。400年ぶりの快挙!です。このことを快挙と捉えるか、伝統の破壊、成り上がり者の驕りと捉えるかは意見の分かれるところですが、実際の権力の所在と形式に大きな差があるというのは社会を分かりづらくします。
朝廷の権威を無視し、それに取って代わろうとした信長、朝廷を神棚に祀り上げて無力化した家康に比べれば、旧制度を維持しつつ、それを利用した秀吉が一番の尊皇家ともいえるのではないでしょうか。
昨今は秀吉に対する評価が「権力亡者、侵略者」として、悪玉と捉えるのが多数派ですが、中国や韓国の「歴史認識」に気を使いすぎです。あの当時の世界情勢は弱肉強食が当然ですし、西欧各国は競ってアジアへの侵略を進めていたのです。そんなことをあげつらうのであれば、モンゴル帝国による世界制覇や十字軍の遠征などは悪の権化になります。
日独交流150年を祝う国会決議に、ドイツ政府に断りもせず「先の大戦へのお詫び」などを盛り込もうという感覚はどこかおかしいと思います。しかも全党一致で可決だというのですから何とも論じようがありません。マスコミも、それに造反して退席した議員を批判するトーンでしたね。現在の歴史観は自虐的に過ぎると思いますよ。
豊臣秀吉…功績も大きかっただけに、その裏側の陰も大きかった人です。光は光、影は影、双方とも正しく認識すべきでしょうねぇ。
51、大阪城に君臨し、天下を取りさばく秀次の姿を江は想像しようとした。うまく像が結ばなかった。猿に良く似た顔が、ひょいと取って代わってしまうのだ。
誰も秀吉になれない。秀吉はそれほど偉大だということだろうか……。
豊臣家には実子の跡継ぎがいません。それもあってか養子はたくさんいます。信長の子・秀勝は死んでしまいましたが、姉の子が三人、徳川秀康、宇喜多秀家、木下秀秋などが主だったところで、中でも姉の長男である秀次が後継者候補No1です。
秀吉と秀次…この二人を比較しようとすることが土台、無理な話です。方やたたき上げの創業者、もう一方はわけもわからず役職に就かされてしまった若者です。
「伯父さんが総理大臣になったから、おまえ、次の総理だ」と言われたら迷惑この上ない話です。中小企業においてだって同じことで、「社長の息子だから次期社長だ」と言われて単純に喜ぶ人はいないでしょう。ましてやこの伯父さん、人心掌握術の名人です。百年に一度出るかでないか、そういう天才肌のスーパーマンです。取り巻きがしっかりしていれば、それでもやれないことはありませんが、叔父さんの参謀は黒田官兵衛、蜂須賀小六、前野将右衛門、千利休…曲者ばかりです。忠誠心で秀吉に従っているのは弟の秀長や福島、加藤、片桐、石田などの若手ばかりで、その連中も秀次を馬鹿にしています。とても…、
跡継ぎが出来る環境ではありません。
「秀吉はそれほど偉大だということだろうか…」と江は問題提起しますが、…偉大です。
当時最高の軍事専門家、政治家、文化人をスタッフに抱え、それをたくみに使いこなして課題を次々と片付けていく手腕は、見事としか言いようがありません。諮問委員会、対策本部ばかり作って、なにも出来ない現総理に比べたら、太陽と泥亀の差ですねぇ。
52、戦と決まる前、島津家に和平恭順を説く手紙に、添え状をしたためるように求められることを利休は話した。政治への関与はそこまで深く、利休の声望は遠く薩摩にまで達していることになる。
千利休は哲学者、文化人の側面もありますが、政治家です。政界デビューのきっかけが茶という世界でしたが、この頃になると秀吉政権の財務大臣的な立場を築き上げていました。利休は、元は堺の商人です。堺自治政府の閣僚とも言うべき納屋衆の一員でしたから、堺の資本家代表の立場でした。堺の商人たちは信長に自治権を取り上げられて以来、利休というパイプを通じて、政権への影響力を発揮してきていたのです。
ですから、島津にせよ、伊達にせよ、小田原の北条にせよ、茶道の普及という隠れ蓑を使いながら、政治工作を仕掛けていたのです。
秀吉政権の基本経済政策は、産業振興と通商立国ですから、高度経済成長時代の田中角栄政権と良く似ています。角栄は列島改造論ですが、秀吉は列島統一が旗印です。このことは、堺の商人にとって市場拡大につながり、更には貨幣経済の浸透に役立ちます。
金融資本と政権の密着…これが秀吉と利休のWin−Winの関係なのです。
堺の金融資本が薩摩に強い関心を持っていたことは、ちっとも不思議ではありません。
薩摩の先には琉球があり、当時の重要な軍事物資である火薬、鉛は琉球経由の輸入品です。
更に、その先には高砂(台湾)、ルソンからジャワへと海の道がつながります。ですから、薩摩が中央政権に敵対していては商売がやりにくいのです。利休が島津家に和平恭順を説く手紙を書くのは、当然過ぎるほど当然です。
53、キリスト宗門の不気味さを改めて思い知らされた秀吉は、既に入信した庶民のキリスト教信仰は認めることにした。そして貿易による利益を確保するため、南蛮船の来航は奨励した。
不明瞭で、徹底しない布令である。
秀吉が「思い知らされた不気味さ」は「天皇・関白」よりも「ゼウス」のほうが尊重されるキリシタンの怖さでした。政治的に制圧しても、信仰の世界で足元を揺すられてしまえば、国家の統一が出来なくなるという恐怖感でしょう。彼らを敵に回すと、折角片付けた本願寺との宗教戦争の再現になります。「それだけは避けたい」という苦肉の策が「信仰は認めても布教は許さず」という禁止令でしたね。宣教師の国外追放と、キリシタン大名の追放でした。このとき、高山右近が追放されています。ただ、「棄教した」と表面をつくろった黒田官兵衛、有馬義信などはお咎めなしです。田淵さんはこのことを「不明瞭で、徹底しない布令である」と評価したのでしょうが、灰色ゾーンを大きく取った法令というのは、古来よりの日本の伝統です。「白黒付けないと気がすまない」という欧米的法体系の方々にはわかりにくいかもしれませんが、後世の大岡裁きなどは灰色決着の典型です。
マスコミ報道や、弁護士出身の政治家は白黒つけたがる性癖がありますが、そればっかりでは、世の中法律だらけで窮屈になってしまいます。法律とマナーの程よい調和、これが一番住みやすい世の中ではないでしょうか。ですから、学校での道徳教育が必要なのです。
54、江は呆然と高次を見上げていた。
仕える先を次々に変え、挙句の果てに妹を秀吉の側室に差し出して、仕官の座を射止めた男。そんな情けない男ににはとても見えなかった。
京極高次、のちに姉・初の亭主になる男です。かなりの美男子で、名門の気品があったようです。文化人としての教養も備えていました。ですから、姉の初が一目惚れしてしまったのです。いわゆる貴公子ですね。
が、政治家、軍人としてはからきしダメだったようで、その分野では姉の龍子と、妻の初におんぶに抱っこされた髪結いの亭主だったようです。原作では「妹を」となっていますが、これは多分校正ミスでしょう。姉のはずです。
高次は浅井に居候していて追い出され、姉の婚家の若狭武田にいましたが倒産で失業し、ぶらぶらしていたところを姉の「おねだり」で秀吉の旗本に加えられていました。
情けないのは、この時期よりも後の、関が原前後です。大津城主だったのですが、東軍、西軍のいずれにもつきかねて、判断を姉と妻に委ね、結局は東軍について籠城します。
関が原決戦の前日に耐えかねて降参し、高野山に逃げ込みますが、家康から「よくやった」と褒められて50万石を提示されます。が、なんと、「治める自信がない」と辞退し、若狭で8万石程度に落ち着きます。謙虚といえば謙虚ですが、女房の初や、姉の龍子からすれば「根性のない旦那様・弟」だったでしょうね。京極家は足利幕府全盛期には、北近江で50万石ほどの所帯だったのですから、8万石では再興したといえるかどうか…。
京極龍子を「おねだり名人」と書きましたが、戦国期にはそれ以上の凄い名人がいます。家康の次女の督姫で、小田原北条に嫁に行きますが秀吉に攻められて逃げ帰った後、姫路の池田家に嫁に行きます。そこから…家康におねだりを繰り返し、池田家は姫路で40万石、岡山で30万石、鳥取で30万石とあわせて百万石の大大名になってしまいました。
加賀前田百万石といいますが、池田も百万石の大大名なのです。女房の力というのは凄いものです。スーパー内助の功ですねぇ。
鳩山家も…母の力で驚くほどの「お小遣い」がもらえますしね。うらやましい。