流れるままに(第45回)
今週も時間調整(?)の余談を続けます。
NHKテレビの方は三姉妹の愁嘆場ですから、余計なことを言わずに涙を流すのが、人としての正しい感情の動きだと思います。テレビを見ながら涙を流す人を見て、笑う人がいますが、そういう人は、少々左脳が勝ちすぎた人で、右脳が退化する危険がありますから注意した方がいいですね。歳をとってボケたくなかったら、悲しい時は泣き、嬉しい時は笑うのが精神衛生上の「体操」です。呆け老人の93%は感情を殺し過ぎたために右脳が退化し、血行障害を起こして、脳細胞が壊死した結果だと言われています。
喜怒哀楽…思うがままに発揮できるのが隠居の特権です。120歳まで生きたという奄美、徳之島の泉重千代さんは、「笑うが人生」と遺言したそうです。
…と、ここまでは、涙もろくなった文聞亭の言い訳です。が、原因不明、治療不能のアルツハイマーになってしまったら仕方ありませんが、呆け老人のうちで、アルツハイマーはたったの7%なのです。感情を殺し過ぎた結果で、ボケたくはありませんねぇ。
淀君と秀頼を早く殺し過ぎました(笑)ので、今週も周辺の出来事をご紹介します
大阪城を欲しがった男たち
「大阪城が欲しい。大阪城をくれ」と言った男が二人います。
一人は家康の6男(5男とも言われる)松平忠輝です。もう一人が江と秀忠にこよなく愛された徳川忠長…次男の国松です。いずれも、時の将軍である父に「兄が将軍なら、俺は大阪城の主にしてくれ」とせがみ、謀反の予兆として処断されてしまいます。
ということは……それだけ大阪城に魅力があったんですねぇ。秀吉が18年の歳月を費やして、設計・製作した、城郭の最高傑作だったということでしょう。
まずは、松平忠輝の話から始めます。
忠輝は、テレビにも出てきた茶阿の局の子です。家康は未亡人ばかりを狙って側室にしていますが、中でも最も信頼し、駿府城の奥を任せていたのは茶阿の局でした。才色兼備の上に人格、教養も抜群で、家康の欠点をカバーして、家中の安定を保ち続けた実質的正妻です。家康の正妻は最初が今川義元の姪であった築山御前ですが、信長の命令で処刑してしまいます。その後、秀忠の母・西郷の局が実質上の正妻になりますが、先立たれます。
しばらく正妻なしで、側室ばかりでしたが、その一人が茶阿でした。
その後、秀吉の妹の旭姫が正室になりますが、これまた先立たれます。
結局、50歳から死ぬまで正妻代りをしてもらったのは茶阿の局になります。秀吉に寧々という協同経営者がいた様に、家康にとっての共同経営者は茶阿だったのです。
だからこそ…、大坂冬の陣の女会談で、徳川家代表を務めたのです。
忠輝は、その茶阿の子です。当然溺愛されると思いきや…、出生以来嫌われます。
その理由は双子だったからです。双子はどちらが兄で、どちらが弟ということもないのですが、一方は捨てられるのが当時の習いでした。忠輝は生後すぐ、捨てられたのです。
ところが、幸か不幸か、兄の松千代が流行病(はやりやまい)で死んでしまいます。その結果身替りに復活して、家康の五男として華々しい道を歩むことになります。
家康の五男と言っても、長男の信康は信長に殺され、次男の結城秀康は養子に出され、将軍を継いだのは三男の秀忠です。四男も関ヶ原の後病死していますから、双子の五男が死んだあとは六男忠輝が徳川家No2なのです。江が女ばかりを生み、家光が誕生するまでは、忠輝が皇太子(?)つまり将軍位継承権者だったのです。
関ヶ原直前、家康は私婚事件を起こして三成を刺激します。三成の暴発を誘います。
この私婚事件は伊達、蜂須賀、福島の3家に対して仕掛けたものですが、伊達家の相手が、実は忠輝だったのです。忠輝と伊達正宗の愛娘である五郎八(いろは)姫との婚約です。
石田三成の反対で、一旦は破談になりますが、三成が追放された直後に結婚しています。
五郎八姫とは、何とも変わった名前ですが、これは伊達正宗が男の子の名前しか考えていなかったため、こじつけで名付けられました。「伊達の五郎」…正宗は男の子が生まれると信じ切っていたのです。いろは姫は正宗が目の中に入れても痛くないほどの愛娘でした。
大策略家である正宗の愛娘と、徳川継承権位No2忠輝との組み合わせ…これ自体が、既に、後の事件を予感させます。正宗による将軍家乗っ取り構想につながります。
その話は後にして、忠輝は9歳のときに父・家康の名代として大阪城に秀頼を訪ねます。
秀頼7歳、忠輝9歳。二人は意気投合し、一緒に遊び、「将来は二人で一緒にやろう」的な友情を感じ合います。テレビでは秀頼が秀忠の意向を頼りにした設定でしたが、秀頼が頼りにしていたのは、実は、忠輝でした。
秀頼と忠輝は、海外雄飛の連判状にサインをしあってもいます。
伊達正宗が仕掛け、家康の側近であった大久保長安が企画した「海外雄飛計画」の提案者、つまり、連判状の筆頭が松平忠輝、そして最後の記名者、承認者が豊臣秀頼なのです。
秀吉の意思を継承して、世界の帝王になろう……というのが趣旨で、家康→秀忠→家光と続く鎖国、内向主義とは正反対の構想を企画していました。本拠地は大阪、国内は兄の秀忠に任せ、自分は秀頼と共に海外に、世界視野の本部を作る…という構想です。
これは、実は、イスパニアの宣教師ソテロの提案です。
伊達正宗は、単独では徳川に敵わないと観念していましたが、政権への夢は持ち続けていました。最後の手段として、外国勢力を引き入れて政権奪取を狙います。いろは姫の夫である忠輝は、看板として利用価値があります。傀儡として最適です。それに、豊臣秀頼が関白として協同経営者となれば、誰も文句を付けません。この構想を以て、支倉常長をローマ法王庁に向かわせたのです。実にグローバル発想でしたねぇ。
が、この計画は、口の軽い忠輝の家老であり、家康の側近であった金山奉行・大久保長安の派手な行動で露見してしまいます。家康が「断固、秀頼抹殺」を決意したのは、この事件が露見した時かもしれません。二条城の会見で「秀頼は立派な男」と分かり、その決心を固めたと見るべきでしょうね。
更に、忠輝は家康に疑われる行動を続けます。
大坂夏の陣で、大和口の総大将に任じられたのは忠輝でした。主力の兵は忠輝の領地である越後高田、信州川中島75万石の精鋭ですが、与力として伊達正宗の1万が続きます。大和(奈良)からの道筋は大阪城の弱点である南からの攻め口ですから、主力部隊と言ってもいいでしょう。豊臣殲滅の先鋒でもあります。
が、忠輝も正宗も、世界制覇の相棒として隠密裏に友好関係を保ってきた秀頼を殺したくありません。自分の手で仲間、相棒を殺したくなかったのです。
その結果、どうしても進軍が遅れます。できれば、誰かに代わってほしいのです。
そんな事とは関係なく「華々しく死にたい」と願う大坂方の後藤又兵衛が突撃してきます。
真田幸村も家康一人を狙って、この方面に玉砕攻撃を仕掛けます。大坂方の力のある集団は真田、後藤、長宗我部、毛利勝永の4軍団ですが、そのうち3つが、忠輝の担当方面に攻めかかって来たのです。
水野を先鋒とする徳川譜代の大和口部隊は大損害を受け、挙句の果て、真田の玉砕攻撃の前に、家康の本陣は旗印さえ踏み倒されて、家康は必死で逃げ回ることになりました。
忠輝の動きの遅さ、伊達勢の怠慢が招いた大混乱でした。
さらに、伊達勢は味方の前田勢に一斉銃撃を加えます。これは正宗の最後の賭けで、前田が応戦してきたら、混乱のさなかに家康の首を真田幸村に取らせてしまおうという魂胆でした。が、前田の3代目、利常は冷静に一切応戦をしません。抗議もしません。
これで正宗の夢はついえ去りました。徳川勢の同志討ち、内部混乱は起きなかったのです。
結果は、「遅参、怠慢」の罪で忠輝は改易、前田家は明治まで百万石が残りました。
伊達正宗は、ローマに派遣した支倉常長を見殺しにし、政権奪取の夢を捨てました。
もう一人、「大阪城をくれ」と言った男が、秀忠と江の溺愛した国松、徳川忠長です。
家康の死後、3代将軍には竹千代・家光が就きます。忠長は駿府55万石の大名として、幕府No2の立場になります。家光には後継者がなかなか生まれませんから、おとなしくしていればよいものを、彼もまた、将軍になりたがります。父親の秀忠に対して「将軍をサポートするために大阪城が欲しい」とねだります。大阪城、それだけの魔力があったんでしょうね。堀を埋めても、要塞としての魅力は日本一だったのでしょう。
大御所秀忠、将軍家光、ともに忠長のこの申し出を、謀反と感じます。
蟄居謹慎、駿河55万石召し上げ、高崎城幽閉、切腹と続きます。
家康は12人の男の子を生みますが、残ったのは秀忠と御3家の4人だけでした。
江の産んだ男の子は二人でしたが、残ったのは家光一人です。
最大のライバルは身内である、とは、何とも切ないですねぇ。
財産があろうが無かろうが…、身内の争いほど醜いものはありません。 『兄弟仲良く』は貧乏人の特権でしょうか。それとも、相続した者の「人徳」の問題でしょうか。
欲の皮の突っ張り合いで、家庭も政治も、そして倫理も乱れます。