流れるままに(第46回)

大阪冬、夏の陣は、徳川政権がこの国を支配することを、決定的に見せつけました。

全国の諸大名がこぞって参加した合戦ですから、一種の政治ショーでもあります。家康が動員した20万人という兵士の数は、関ヶ原の東西両軍の人数と同じですが、今度はそのすべてが徳川幕府軍として参加しています。

一方の大坂方は10万人とも言われますが、実質は5万人程度ではなかったかと思われます。そのうち数千人は戦死し、また、数千人が捕らえられていますが、軍団長、部隊長級を除いては処刑まではされていなかったようです。刀狩りの徹底で、武士の身分をはく奪することに重点が置かれ、京都、大阪などの都市部から追放処分を受け、身柄を預けられた藩から、厳しい監視下に置かれたようです。

ともかく、反徳川の核となるべき勢力がなくなりました。残るは、徳川家内部の分裂の火種ですが、先週号で触れたとおり、秀忠の弟の忠輝が越後、川中島75万石を召し上げられて謹慎、大阪城に兵糧を差し入れた福島正則も広島55万石を召し上げられて、信州高井へ左遷と、豊臣系の大名たちが厳しく管理下に置かれます。とりわけ家康が目を付けていたのは、九州の加藤、島津、細川、中国の毛利、浅野、北陸の前田、東北の伊達、上杉でした。彼らを仮想敵国として、幕府中枢は警戒を怠っていません。睨まれた方も苦心惨憺で、前田利常などは鼻毛を伸ばし放題にし、殿中でストリップをするなど、馬鹿殿を演じるのに懸命でした。

前田利常は、臨終の家康から「お前を殺してしまわなかったのが心残りだ」とすら言われています。浅野家、上杉家も赤穂浪士事件では取りつぶしの危機に遭遇しました。

秀忠の時代に取り潰した大名家は39家に上ります。「江物語」に登場する秀忠とは違う、冷徹な側面があったのです。

149、大坂の陣がもたらした衝撃と悲しみは、戦の終焉から時を経ても、江の中から消えることはなかった。
朝も昼も夜も、淀と秀頼を思い、涙が頬を伝わった。浅い眠りの中、ふと眼を覚ますと、淀がそこに居るようで、そのまま朝を迎えることもたびたびだった。

戦の火種は消えました。反徳川がまとまる旗印はなくなりました。ここからの250年間で、戦争があったのは島原での切支丹騒動、天草四郎事件だけです。これは、藩主の圧政と、キリシタン弾圧に対する農民一揆の大掛かりなもので、大坂の陣から逃れて九州に渡った浪人たちも参加しています。武士を失業した者たちの、最後のあがきでしたね。

更に、家康は戦争の火種となる「朝廷」を、徹底的に封印してしまいます。家康が朝廷の動きを封じるという政策をとったことには、この国の歴史をよくよく研究していると感心させられます。有史以来、この国の大戦争、内乱は、そのほとんどが朝廷、公家たちの策謀が原因になっています。朝廷が直接手を下したのは、後醍醐天皇による建武の中興だけですが、源平合戦も後白河法皇による裏工作であり、それ以前の奈良朝でも、皇位継承をめぐる利権争いが原因となった戦争です。

「諸悪の根源を封じる」ために、家康が作った禁中ご法度は、天皇を始め公家たちの政治関与を一切認めません。この時から、天皇家は神棚に祭り上げられた象徴天皇になったのです。明治維新で復権しましたが、それは形だけのことで、天皇の意思は殆ど反映されないのが明治体制でしたね。

150、夫の後を継ぐのは、やはり国松になるだろう。秀忠の兄、秀康がそうだったように、竹千代はどこかへ養子に出してもいい。そんなことまで江は考えるようになっていた。

秀忠政権に新しい火種が生まれます。後継者問題です。

戦国時代は血統よりも、徹底した能力主義が世の中を支配していました。実子に実力がなければ、優秀な人材を選んで養子、または娘婿にし、家督を継がせてきました。そうしなければ家、つまり企業組織が保てないのです。そういう点では現代社会に似ていますね。

創業家が、その特権を維持できるのは概ね三代目くらいまでであり、同族経営と批判されないまでも、企業内部の和が保てなくなります。Pドラッカーが企業の公器性を唱える前であっても、特権階級に対しては批判の矢が向きやすいのです。戦後の成長企業でも、創業家が経営の中核に座り続けている企業は殆どありません。

さて、徳川家の場合ですが、初代と二代目で後継者に対する意見が割れます。

秀忠は、戦国以来の能力主義を前面に立て、次男の国松を指名したいと考えます。一方、家康は「法治主義」を志向していますから、長子相続を形として天下に示したい意向です。

これに、女の情が絡みます。お江とお福、この二人は全くそりが合わなかったようで、

「江は春日に殺された」という説もあるくらいです。増上寺の墓地から江のミイラが発見された時、江の遺体からは砒素が検出されたとも言います。

春日の局、お福は相当な政治家だったようですね。世間受けしようと思い付きのスローガンばかりを叫ぶ現代の女性政治家とは土台が違います。

151、竹千代も泣いた。江に取りすがって泣いた。お福が驚きの目でそんな竹千代を見ていた。なぜ、今日までこうして抱きしめてやらなかったのか、いや、そうできなかったのか。すでに自分と身の丈が変わらないほどに成長したわが子を抱きながら、江はおのれの不甲斐なさをただただ責めていた。

江は、相当なモンスター・ママでした。情が強いというのか、思い込んだら命がけと言うのか、わが子に対する防衛意識、教育志向は当時の常識、現代の常識を越えた異常さがあります。天国と地獄を行き来してきた、自身の経験によるものでしょうが、過剰でしたね。

現代の教育ママの病原菌は、三過と言われます。過保護、過管理、過干渉の三つですが、これにやられたら男の子はモヤシになり、無気力人間か暴走族にしかなりません。

過保護で育てられたら、怪我もできませんからチャレンジ意欲などは湧いてきません。

過管理されたら、どこかで暴発するしかありません。

過干渉では、干渉してくる相手に憎しみを感じだします。

竹千代も国松も、江とお福が競い合って過保護、過管理、過干渉をしますから、自分の意思を発揮できません。竹千代は内向し、陰気になります。国松は良い子になろうと必死で演技します。どちらも可哀想でしたね。

結果は、家康が乗り出して「長子相続」を将軍家が率先垂範することで、三代将軍家光が誕生しましたが、相続という問題はいつの世でも正解はありません。ただ、母親がこの問題に深入りする場合は、結果は良くないのが歴史の教えです。相続問題に母親が絡んだケースは、そのほとんどが悲劇として歴史に残ります。

152、今は利発さが目立つ国松だが、心の底に、烈しいものを秘めているように思えていた。それがある日、爆発すればどうなるか。太平の世が飽き足らなくなっても不思議ではない。

総領の甚六、二番子の鬼、三番子の半キチガイ…とも言われます。

長子は初めての子ですから、周りのみんなから可愛がられます。特に残りの人生が少ない爺婆からは、夢を託す対象として猫可愛がりされます。爺婆は自分の経験を、世代を越えて伝えようと懸命になりますから、知育・徳育が中心になります。

次子は、スペアとして見られます。長子にもしもの事があった場合の補欠ですね。従って、関心が薄らぎます。その分、体育中心にのびのびと育ちますが、長子との愛情の差に飢えます。目立ちたがります。長子とは反対のことをして、周囲の関心を引こうとします。

イタズラっ子が多いのは二男坊の特徴ですね。

三子以下になると、ほったらかしです。三過どころか、三欠です。保護もしてくれないし、管理も、干渉もしてくれません。自由気まま、好き勝手ができます。時にとんでもない独創的なことを始めます。芸術家がこの三子以下に多いのも頷けますね。

国松(忠長)…兄の欠点を観察して、その部分で目立とうとします。兄に対抗意識を燃やします。これが……結果的に悲劇を生むことになりました。

普通の家庭だったら、兄が弟に切腹を命ずるなどということはあり得ませんが、権力の中枢にいては、周りが黙っていません。竹千代派、国松派と別れて先物買いをし、派閥を作って抗争を始めてしまいます。

「次期社長は誰か。今のうちに近付いておこう」という場面では、現代のサラリーマンも同じ行動をとります。江戸城が真っ二つに分かれるのを、未然に防いだ家康の采配は流石でした。