流れるままに(第40回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
関ヶ原から大坂落城までの14年間は長い、長い時の経過でした。家康、秀忠にとっては幕府の基礎を固めるべき創業の時であり、創業するだけではなく、永続させるための工夫の時でもありました。信長、秀吉の遺産はぬかりなく手に入れ、それぞれの欠点、弱点は容赦なく捨て去ります。先輩二人の政治を、脇に立ってしっかりと観察してきただけに、その発想は地に足がついています。決して奇抜なこと、実験的なことをしない代わりに、始めたことは着実にやりぬきます。それこそが家康、秀忠らしさです。
信長から引き継いだのは、楽市楽座という商工業による経済発展ですが、その行きすぎも秀吉政権の元で顕在化していました。金融資本による利権商売や贋金づくりが横行していたのです。ここに統一的貨幣制度を導入し、国家による通貨規制を始めました。このために、鉱山開発を積極的に行い、海外からの精錬技術も導入して、金銀の生産量を飛躍的に拡大しています。
秀吉から引き継いだのは、検地による税制の統一です。刀狩りも着実に実行し、兵農分離も完成させていきます。野武士、地侍という中間搾取層を撤廃して、士農工商の身分制度を作り上げていきます。さらに、天皇家の権威の収奪を始めます。朝廷を、政治の第一線から遠ざけてしまいます。さらに、仏教界などの宗教団体の収益源を枯渇させていきます。本願寺、比叡山、奈良の寺々など、宗教本来の活動以外の経済活動を封印してしまいました。勿論僧兵などの武装解除を徹底します。
こういった大行政改革に費やした14年間は、決して長すぎる期間ではありません。むしろ、僅か15年の間によくぞやり遂げたものだと感心します。
その一方で、政権交代の夢を見続けていた人もいました。大阪城から一歩も出ず、足元の大阪の町で起こっていることからも目をそむけて、ひたすら子育てに邁進していたのが茶々、淀君でした。
133、姉上はこのお城で、義父上様が話していた「夢」を見ておられるのだ……。
江は切実に、胸につまされるほどの強さでそれを感じた。秀吉が死してなお、大阪城に姿を変じ、淀と秀頼を守っているかのようでもあった。
秀頼が元服したら、政権は豊臣に戻る。これは淀君にとって信仰に近いものです。他人から見れば夢、たわごとにすぎませんが、鰯の頭も信心からという通り、信じ込んでしまった人にとっては動かし難い事実になってしまいます。茶々は、元々信心深い素養がありましたし、秀吉の死後仏門に入らぬまでも、供養を続けていましたから…のめり込みやすい環境でもありましたね。政治の中心に居る江から見れば、夢幻(ゆめまぼろし)の世界に生きる人に見えたでしょう。傍から見れば、他人の信心,信仰ほど摩訶不思議なものはありません。
現代でもいろいろな神話、信心があります。原子力の安全神話もそうですし、逆に原子力は人類の脅威だ、触ってはならぬ神の火だと考えるのも妄想です。もっと身近なところでは健康神話がコマーシャリズムに乗って大量に流布され、世を挙げてのダイエットブームです。テレビを点ければ病気の話で「これでもか」というほど脅かしてくれますからね。
最近の医学は、原因探求よりも統計手法に頼って、平均の誤謬に陥っている傾向がありますね。平均はあくまでも平均であって、人体の個性にはバラツキがあります。
特に、この種の恐怖心を煽り立てる情報操作に弱いのが理科の苦手な人たちで、まことしやかに理屈を振りかざす煽動家の餌食にさせられます。
茶々の取り巻きは女ばかりです。大蔵卿の局、饗庭の局、皆して、政権禅譲論という夢を見て、その夢を信じて生きています。現実的な意見を言う片桐且元は遠ざけられ、胡麻摺り的な大野治長や、織田常信(信雄)の意見で、豊臣家の将来を楽観していました。
この頃すでに、豊臣家は西国の一大名という位置づけになっていたのに…です。
134、姉上は、秀頼に天下を取らせることを、まだ諦めてはいないのだ。衝撃と共に江は思った。家康が口にした、夢の裂け目、という言葉を江はふいに思い出した。徳川の陰から現実の風が吹き込む、家康はそうも言っていた。
信仰の世界には常識も科学的論理も通用しません。そのことはイスラム原理主義に凝り固まったテロリストたちを観れば明白です。現代の自民党の長老たちも似ていますね。
「マニフェストという偽物政権の民主党は、早晩潰れるに違いない」と信じて、内輪揉めをやっています。常識的に見れば、そういう反省しない自民党にも国民は愛想を尽かしているのですが、分かっていませんね。執行部の足を引っ張っています。
家康が臨終の秀吉に約束したことは「豊臣家を潰さない」ということであって、政権を秀頼に任せるということではありません。秀頼は公卿のトップとして関白につけましょう、というのが一番楽観的に見た約束(?)だったと思います。勿論、その後の家康がやった通り「公家諸法度」でがんじがらめにして、身動きできなくなった名誉職としての関白です。現代の宮内庁長官、侍従長といった役職です。
天下を取るのは、いつの世でも実力です。この時代であれば軍事力、現代であれば集票力です。したがって、加藤清正、福島正則、黒田長政といった実力派大名が家康に反旗を翻さない限り、秀頼が天下人になる可能性はありません。
135、慶長9年(1604)六月。淀が妹たちに話していた通り、養女の完子は九条忠栄に嫁いだ。織田と浅井の血は、その継承をひたむきに望んだお市の方の願望を超越し、公家の名門中の名門である摂関家に支流を得たことになる。完子の夫になる忠栄、後に幸家は、これより数年後、関白に昇りつめる逸材でもあった。
豊臣家を公家として存続させる。この方針の一つの表れが完子の関白家への嫁入りだったのでしょう。家康から淀君への一つの示唆です。家康は、自らの政権を固めるために、恩義ある織田家、豊臣家を決して粗末には扱わないというメッセージを投げたのですが、淀君にはその真意が伝わりません。「家康は豊臣家の大老である。臣下である」という枠組みから離れられないのです。浅井家の血、織田家の血などという物に対する思い入れは、三姉妹だけに存在する郷愁であって、国政改革に邁進する家康にとっては考慮の外にある「たわごと」にすぎません。
現代にも淀君に似た人がいますね。国政の混乱、震災復興よりも「党が大切だ。党を割るな」と叫んでいる人がいます。あの人が現代の淀君でしょうか。
136、大身の武家に生まれた子を、実の母が育てることは、まずない。でも、と 江が反発を覚えるのは、秀頼に自分の乳を飲ませ、手ずから育て上げた姉の淀を見ているせいだった。せっかく生まれた男の子を、どこからともなく現れた女に、横から取られてしまった……。そんな不満と欠落感が、江の心を激しく乱した。
江に、5人目、いや完子を加えれば6人目にしてやっと男の子が授かります。後の三代将軍・家光ですが、この子に付いた乳母が後の春日の局です。この人に対する評価は歴史家によってまちまちに別れます。が、仕事熱心な女性政治家という点では、誰が物語を書いても共通します。以前にNHK大河ドラマの主役として登場した時は、大原麗子が演じていましたね。本物は、あれほど美人ではなかったようですが…(笑)
江が、家光(竹千代)に限って乳母としっくりいかなかったのは、待ち望んでいた男の子だったからでしょう。それまでに生まれた女の子4人は、いずれも乳母に任せて自ら育てるというようなことをしていません。次女の珠姫は3歳で前田家に出していますし、4女の初姫などは生まれるやいなや、京極家に引き取られています。
不満だったのは、多分、子育てに関して、父親の秀忠からではなく、家康から細々とした指令が飛んできたことだったでしょうね。春日の局も、事あるごとに「大御所様の言いつけ」と口答えをしていたのでしょう。自分の部下のつもりが、もう一つ上からの指示で動くとなれば、誰しも良い気分はしません。皆さんもそうでしょうが、自分の部下の中に「社長のお気に入り」などという部下がいたら、やりにくくて仕方ありませんものね。
女同士の確執とは別に、家康はこの頃すでに豊臣家の行く末に一つの方向性を出していたと思われます。中央政府からは除外して、公卿への道を進むか、それとも一地方大名として家康の臣下になるか、いずれも嫌なら潰してしまうという3択だったと思います。家康が最も望んだのは公卿への道で、これが受け入れられれば、すべてが丸く収まります。
企業でいえば代表権のない名誉会長の様な位置づけでしょうか。儀礼だけを司る高家筆頭、後に吉良上野介がやった役回りです。業界団体のトップとして、企業とは別次元の場所で活躍してもらうことでしょうね。
いずれにせよ、大阪城と摂津、河内、和泉の67万石は要りません。家臣も要りません。