流れるままに(第25回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

人の一生を一日の時刻に重ねるとしたら、豊臣秀吉という稀代の傑物にとって天正十九年は、その名のとおり猿(申)の刻…午後4時…であったのでしょうか。光り輝く太陽が西空に傾き、海からの風が涼を送りこんでくる時間になっていました。

しかし、人にとって、自分の最盛期がいつであったか、それは死ぬ時まで分かりません。

尊崇する信長ですら成し遂げられなかった天下統一を果たし、愛する女とわが子に恵まれ、位は頂点に達したそのとき、相次ぐ不幸が襲ってきたのです。が、個々の不幸は、よくよく考えてみると、それほど大きなものではなかったようにも思います。幸福の絶頂にあればこそ、落差が大きく感じられたのではないでしょうか。幸せになりすぎるということは、その要素の一つが欠けても、心に感じる痛みが大きくなります。他人から見たら「あの程度のことで」と思うことでも、当人にとっては癒しがたい傷になることがあります。他人の気持ちの内は、当人しか理解できないものなのでしょう。

この頃から、秀吉の発想、判断に狂いが生じます。各種の事案に対する緊張感が薄れ、思考が雑になってきます。我慢がなくなり、思いつきの行動が増えてきます。

老化…と斬って捨てることは簡単ですが、「慢心」「傷心」という心のありようが、目を曇らせていったと見るべきではないでしょうか。一種の躁鬱状態で、躁のときの判断と、鬱のときの判断は、同一人と思えぬほど、かけ離れていきます。

現代人とて同じ事で、定年前後というのは、秀吉に似た精神状態に陥ります。

78、服属使節と信じ込んだ秀吉の尊大な要求に対して、朝鮮使節は猛然と抗議した。
しかしこれが秀吉に届くことはなく、誤解と遺恨だけが、両国の間に残った。
やがて、避けようがなく訪れる、朝鮮出兵の火種である。

秀吉が、なぜ、大陸侵攻を思いついたかですが、過去の歴史家、現代の文筆家も非戦論、植民地主義などの観点からのみ推論します。有り余った武力のはけ口を朝鮮半島に求めたとする考え方が主流です。

しかし、秀吉の戦ふりをたどれば、彼が信長とは違って人殺しを嫌い、城攻めでも戦闘を嫌った外交交渉や、包囲作戦で敵を屈服させてきていたのです。それが、突如、この頃から人を殺しだします。なぜでしょうか。情報源の差ではなかったかと思います。

一口に豊臣家といっても、秀吉と寧々の連立内閣というか、秀吉がエンジンならば寧々がブレーキという絶妙のコンビで運転してきました。茶々の登場でブレーキの効きが悪くなってきたところへ、利休、官兵衛、秀長と言ったところが存在感を失ってきます。三成を筆頭とする若手官僚からの情報量が圧倒的に増えてきたのです。

利休とは政策面で衝突し、官兵衛が煙たくなり、秀長が病に倒れます。アクセルを踏むのは石田三成、小西行長などの取り巻きと、博多商人だったでしょうね。

従来からの商業利権を守ろうとする堺の代表が利休です。一方、新興の博多商人の代表が島井宗湛です。これに、大阪の米問屋、淀屋が絡みます。財界の主導権争い、これに財務官僚たちの思惑が乗ります。貿易の利益を誰が取るか、ある意味での政策提案合戦です。

堺派は西洋人を介した仲介貿易が中心です。西洋の大型船による東シナ海の海運になります。一方、博多派は中国との直接貿易です。こちらは朝鮮、大連を経由した沿岸航路です。どちらも主たる貿易品目は中国からの綿糸、絹糸などの繊維でした。

博多派(島井、宗、小西)は、和船による航海ですから、朝鮮半島と中国東北部に拠点を必要とします。博多―釜山―ソウル―大連―青島―上海への海の道ですから、そこに日本の道の駅、租借地か占領地が欲しくなります。軍事的圧力をかけて朝鮮と中国沿海部に租借地を持ちたかったのでしょう。

79、利休切腹のその日、天正十九年2月28日、閏1月がはさまれたため、桜は散り果て、葉桜の時候となっていた。朝から激しい雨が屋根瓦に叩きつけ、春雷の轟きに季節はずれの霰が降り混じった。

博多派にとって、政敵は堺の代表、利休にほかなりません。利休が秀吉政権の経産大臣である限り、政治目標は達せられません。反対派の追い落としに掛かります。

これに一役買ったのが石田三成でした。盟友小西行長の肩を持ち、利休のスキャンダルをでっち上げます。

茶道に関する趣味の差、そんなものは些細なことです。戦争の根っこは、いつの場合でも経済に起因します。西洋商人を追い出すために、キリスト教の布教禁止をしました。

堺が法律違反をしていると、ルソン助左衛門の国外追放など、堺商人への弾圧をします。

真綿で首を絞めるように、陰湿な堺いじめの手を打っていきます。これには秀吉は関知していませんが、情報は小西、石田ルートからしか上がってきませんから、「よきに計らえ」と「けしからん」という判断しか出てきません。

利休は、こういった大阪城内の陰湿さに嫌気がさしていましたね。引退をしたかったのでしょうが、それも許されずの自殺となりました。

80、凶年という年があるとすれば、この天正19年こそ、秀吉にとってはその凶年であった。弟の秀長、利休の死についで、7月には幼い養女をなくした秀吉を、八月、最大の不幸が襲う。聚楽第から大阪城へ戻る途中、立ち寄った淀城で、鶴松がにわかに発病、快癒することなく、僅か三歳の命を散らせたのである。

子供の死、これほど辛いものはないでしょうね。親より先に死ぬほどの親不孝はありません。嘆き悲しむレベルを通り越して、発狂してしまいます。

鶴松が、特に虚弱体質であったとは思われませんが、深窓で大事にされすぎて、病菌などへの抵抗力が少なかったであろう事は想像できます。死因は細菌性の病気だったのではないでしょうか。発病してから数日で亡くなってしまいました。当時の医学の最高水準の手当をしたのでしょうが、細菌性の病気では手の施しようがなかったでしょうね。

これが…秀吉の心に、自暴自棄の火をつけてしまいました。悲しさを紛らわせるために、実行を決断できずにいた対外戦争に踏み切らせてしまったのです。その意味では僅か三歳の幼児が、戦争への引き金を引いてしまったという皮肉な結果になりました。

ですから、この戦争には大義どころか、シナリオが全くありません。小西行長、石田三成には「明国への海の道確保」という戦略目標がありましたが、総司令官の秀吉の目標は「朝鮮征伐」です。朝鮮半島の領有化です。それを信じて渡海して行ったのが加藤清正です。小西一派と加藤一派、出陣した兵士たちが、現地で違った目的を掲げて戦うのですから、支離滅裂な作戦行動になります。戦略の統一が出来ていません。

西海岸を進む小西司令官は、海の道確保のために、主要な港湾を占領し、朝鮮王朝と租借交渉を仕掛けるつもりです。一方、東を進む加藤清正司令官は朝鮮王朝を降伏させるのが狙いですから、交渉の余地などありません。「抵抗か降参か」の二者択一です。

朝鮮側も混乱したでしょうね。それまでの外交窓口の宗対馬守は小西派ですから、外交交渉もありえました。のらりくらりとはぐらかしていたのです。が、別働隊の加藤は、委細かまわず皆殺し的戦いをしてきます。二つの日本政府軍の、どちらが本物か分かりません。

ともかく、わけのわからないまま、戦争が拡大していってしまいました。

81、天正20年2月、江は、豊臣秀勝との婚礼の儀を挙げた。秀勝は24歳。江はちょうど20歳になっていた。花嫁衣裳に身をつつんだ江は、相手の顔を見ようとして叱られてばかりいた八年前の婚礼とは、余裕も、気持ちのありようも全く異なっていた。

戦争に専念するために、秀吉は関白職を甥の秀次に譲ります。後継者として豊臣本家を秀次に委ねたことになります。そうなると、分家の当主の席が空きます。そこに、秀次の弟の小吉・秀勝を据えることにしましたが、秀勝に妻がいません。そこに浮上したのが江でした。息子をなくして落ち込んでいる茶々を励ますためにも、祝い事を企画して、一石二鳥を狙います。

この当時、三姉妹は大阪に江、淀に茶々、大津に初と別れ別れに暮らしていました。気軽に行き来できる距離ではありません。

大阪にいる江を京都の聚楽第に住まわせれば、三姉妹の距離は半分に縮まります。茶々の無聊を慰めるためにも、江を聚楽第に送り込みたかったのです。

ところでこの頃、江の最初の夫であった佐治一成も、織田信包の家臣として聚楽第に屋敷を持っていました。江は、そのことを知りませんが、一成は江の再婚のことを分かっていたでしょうね。江のほうは有名人ですから評判になります。

佐治一成がどういう気持ちだったか、当人にしか分からないところでしょうね。