淀の君(第23回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
種無し……と思われていた秀吉が茶々を懐妊させたことで、巷では噂が沸き立ちます。
その殆どは「間夫がいたに違いない」「秀吉の子ではない」という無責任な芸能ゴシップ記事と同様な推測に過ぎません。いつの時代でも有名人のゴシップ記事は瞬く間に広がり、状況証拠を並べ立てて、それらしく装うものですが、相手が今をときめく関白太政大臣となれば尚更です。妻妾を数え切れないほど持ちながら、いまだかつて子宝に恵まれなかった男ですから、常識的には…、統計的には…、不妊の原因は秀吉にあります。
それが…茶々に限って、しかも、50歳を越えてから孕ませたのですから、不審に思うのは当然です。噂が立つのは至極当たり前と思うべきでしょう。
真実はどうだったのか。真実は茶々にしか分かりません。が、もう一人判るものがいるとすれば側女のサキ、つまり大蔵卿の局です。茶々とサキは常につかず離れずで、トイレまで一緒にいる仲ですから、間男がいたとすればサキが知らぬはずはありません。知っていれば、それはいずれ明るみに出ますが、その後の20数年間全く出ていませんね。
あるとすれば、疑われるのは石田三成か大野治長ですが、クソがつくほどまじめだった茶々が、この時期に浮気をするなどということは、まずなかったでしょう。
……とすれば、秀吉は茶々と出会って初めてセックスの喜びを知ったのかもしれません。
「接すれどナントカ」と言いますが、発射以前にやめてしまえば受精しませんからね。
このやり方なら、女が何人いても精力絶倫を保てます。毎晩したって腎虚になりません。
大蔵卿の懇切丁寧な手ほどきを、超マジメに実行した茶々のおかげで、やっと悦びを知った秀吉と考えれば、その後の溺愛ぶりと衰弱ぶりは理解できます。
65、淀の地は聚楽第と大阪城の中閑に位置し、港町としても発展していた。そこに目をつけた秀吉だったが、最大の目的は、ここを茶々の産所にすることであった。
城は早くも二ヵ月後に完成し、茶々は城主として迎えられた。
淀は京の都への物資の入口です。淀川の水運を利用した物資の集積基地として、平安の昔から栄えてきました。大阪からの便の殆どはこの地で取引されます。特に、広大な巨椋池を利用した水利は、物資の輸送にとっての利便に欠かせません。現代で言えば高速道路、首都高的な役割を果たしていたでしょう。通商を重視する秀吉がこの地を掌握していたことは当然です。また、自らの行動の自由を確保するために、拠点となる城を作りたかったのも当然です。田渕さんは最大の目的を「茶々の産所」と言いますが、秀吉の最大の目的は、自らの安息場所、自宅作りだったと思います。
秀吉の自宅は大阪城のはずですが、大阪城は軍事拠点です。軍事・経済用事務所です。豊臣株式会社の本社です。一方、京の聚楽第は政治拠点です。首相官邸です。いずれも自宅ではありません。秀吉は豊臣会社の社長と、総理大臣を兼務しているのです。
秀吉にとって最初に建てた自宅は、近江の今浜(長浜)城でした。湖を見下ろす風雅な景色こそ、秀吉の理想の自宅のイメージだったのではないでしょうか。
巨椋池のほとりの、この自宅に最愛の妻である茶々を置き、心の安らぎを求めます。
大阪本社には相棒で副社長、兼人事担当の寧々を置き、会社の経営に睨みを利かせます。
首相官邸には政務補佐官の秘書・松の丸殿を置いて、身の回りの世話をさせます。
大阪や京に置いた女たちは、みな女子社員であって性事とは無縁になりつつありましたね。
一方の茶々は、琵琶湖を思い出す郷愁を慰められ、しかも、浅井の城を与えられて、ようやく一息ついた心持だったと思います。母から遺言された「浅井の血」をつなぎ、浅井家復興を成し遂げた気分ではなかったかと思います。
66、淀はお市と長政の肖像画を描かせ、江を伴って高野山持明院に奉納した。母の召し物は、かつて安土城で信長や伯父たち、織田家臣らと対面したときの装いであった。
懐かしさに息が止まるような思いで、江は母の肖像を見た。そして、絵筆で描かれた浅井長政と向き合った。
これが父上のお顔なのか……食い入るように江は見つめた。
浅井家復興を確認するためには、浅井長政の名誉回復が必要です。このことを秀吉に認めさせるためには、法事をさせてもらう必要があります。このことを「おねだり」したでしょう。秀吉に否やはありません。「浅井長政を討ったのは自分ではない。信長公だ」と茶々に証明するためにも、法事を執り行わなくてはなりませんが、自分が前面に出るには差しさわりがあります。これはあくまでも私事で、会社や、国家の予算でやるわけには行かなかったのでしょう。
この法事の願主はあくまでも茶々で、僧侶は比叡山に出家していた浅井一族の僧が呼ばれています。長政の従兄弟に当たる高僧が執り行ったようですね。勿論、異母兄弟の浅井喜八郎もこの場に呼ばれています。
「妻の実家の法事を私費で執り行った」というのが秀吉の立場でしょう。本人は参加していません。肖像画のモデルになったのは誰か?お市のモデルは茶々でしょうが、長政のモデルは茶々の兄・喜八郎ではなかったかと思います。
余談になりますが、肖像というのもモデルがないと描きにくいものらしく、鳥取城に立つ吉川経家の銅像のモデルは、先代の三遊亭円楽なんですねぇ。そうです、大喜利の司会をしていた円楽です。本名が吉川で、経家の子孫だそうです。
織田信長の銅像でも作るときにはスケートの織田選手が狩り出されるかもしれません(笑)
いずれにせよ、江にとっては初めて目にする父の顔です。兄と会ったのも初めてでしょう。
江が生まれた頃、喜八郎は既に小谷を抜け出して寺に隠れ住んでいました。そのあたりの事情は追い追い拙書「篤実一路」で紹介していきます。
浅井喜八郎…長政次男、幼名虎千代
67、竹千代が大阪入りした理由は一つ。豊臣の人質となるためであった。
秀吉の臣下にあった徳川家だが、その前は北条家と同盟を結んでおり、同家に家康の娘が嫁ぐという親密な仲でもあった。しかし、戦が避けられぬ事態に立ち至ったとき、家康は北条家とのつながりを断ち、豊臣家への徹底的忠誠心を示すことに決めた。
政治のほうは、いよいよ関東平定に進んでいます。関東の北条は関東平野に蟠居して、秀吉の命令を聞きません。それ以上に、秀吉が気にしたのは陸奥方面での伊達政宗の動きです。米沢を根城に東北全域を併合する勢いで領土を拡大しています。今のうちに叩いておかないと、北条以上の難敵になる可能性があります。関東の兵は強い、それ以上に東北の兵は強い。これは源平の昔から言われていたことです。「大きく育つ前に」と小田原攻め、その後の東北平定に手をつけます。竹千代(秀忠)を人質に送り込んだ家康。したたかです。これから攻めようとする小田原には長女の督姫がいます。息子と娘をそれぞれ敵同士に人質に出す、政治家の非情さですが、生き残りのためにはやむをえなかったでしょうね。
この償いとして家康は後に督姫の再婚先である池田家に百万石を贈ります。このことは既に触れました。督姫は家康の最初の妻であった築山御前の長女です。
68、平凡な農婦に生まれながら、城に呼ばれて身分を上げられ、姫様にされ、武士と結婚させられ……。受身ばかりを強いられた旭様の生涯の、最後の仕上げに手を貸したのは私だ。私が何も言わずにいれば、旭様の離縁も、徳川への輿入れもなかったかもしれない…。
生活環境の変化、交際する人の違い、これは想像以上のものがあります。新入社員などで、5月病、「3日・3月・3年」などと言われますが、人の絆を切られて新たに開拓していくのは実に大変なことです。頭の柔らかい若者ですら、耐え切れない者が出るほどですから、高齢者では旭姫と同じく気鬱の病で命を縮めます。被災地ばかりではなく、全国の過疎地の高齢者が故郷を動かないのは当然でしょう。
旭は尾張の零細な百姓の家に生まれ、そして長浜、姫路、大阪と転勤を繰り返します。
秀吉は旭の夫を出世させようとしましたが、武術はダメ、事務的才能もない男に与える役職がありませんでした。「能力主義」を打ち出した看板には反する男なのです。子がいれば、姉の夫のように早々に隠居させて、息子を養子にしてしまう手があったのですが、それもない。豊臣一門に無能者がいては困るのです。看板に傷がつきます。
その結果が離縁、家康の妻という使い方だったのですが、浜松での徳川家中の扱いは氷のように冷たかったようです。家臣たちは口も利いてくれません。針の筵…まぁ、現代の窓際族でしょうね。よほどの敵愾心か忍耐力がなければ耐えられるものではありません。
人事手法としては使うべきではないでしょうね。人権問題になりかねません。