不肖の息子(第24回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

秀吉に比べて、家康は子福者です。男の子だけでも12人、作りも作ったり…という感じですね。十代から始めて、六十代になっても子作り続けましたから、かなりそちらの能力が高かったのでしょう。狸親父と呼ばれたのは、その政治手法だけでなく、精力絶倫をからかったネーミングでもあったのでしょう。「たんたん狸のXXは…」などという俗謡も、家康に対する皮肉がこめられていますね。

その中で秀忠は3人目の男子です。家康が最初の妻であった築山御前と別居し、浜松に移ってからの子供ですから、再婚(?)後の長男ということになるかもしれません。家康にとって最初の妻は、今川義元に押し付けられた不本意な妻…だったのでしょう。義元の姪ですから、丁度テレビの主役である江のように、頭ごなしに主張を押し付けてくる支配者で、暴君に仕えるような気分だったかもしれません。浜松で、やっと、自分が気に入った女性に出会い、夫婦生活らしい雰囲気を味わったのでしょう。ですから、家康にとっての長男は秀忠だったのかもしれません。

最初の子、信康は駿河の人質時代に生まれています。この頃、妻の元には、妻の元恋人であった今川氏真が、しきりにちょっかいをかけていました。<果たして自分の子か>という疑いが晴れなかったと思います。しかし、信康は父の愛情に餓えていました。

<ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞおもう、母かとぞおもう>という辞世の句は、愛情に餓えた子の心情がほとばしりでて……悲しい歌ですね。

次男の秀康にしても、築山御前の侍女に産ませていますが、たった一回の性交で妊娠したことが、家康の疑惑を生みます。次男、後の結城秀康が可愛がられなかった原因です。

一方、秀忠は家康の思いとは別に、兄二人に対する家康の扱いに、子供のころから疑いと恐怖を持って育ちました。「殺されるのは、次は自分だ」と思えば、慎重に、且つ、無欲に…寺に入れられて修行僧になった気分で、幼少時代から青春を過ごしたのでしょう。

69、「腹が立ったのなら殴っても斬ってもいいですよ。人質ですから文句は言いません」
「あの人に逆らう気はありません」
「自分の妻と、息子まで殺した男です。文句を言って、痛い目にあってもつまらない」

人質として大阪城に送られた後の、江との会話から、秀忠の発言部分だけを抜き取ってみました。ニヒルさが強調されていますが、まぁ、当たらずとも遠からず、これがホンネでしょう。家康には絶対服従ですから、自分の意思は徹底的に隠します。家康が疑い深いというより、秀忠が用心深いのです。父親を信じていません。

長男の信康もそういう傾向があって、信康は父の歓心を引くために、さまざまな暴挙をしました。そう、現代の暴走族、チンピラ的悪事を働いて、家康に叱って欲しかったのです。

が…、当時の家康は、それどころではありませんでした。北からは信玄・勝頼の脅威が、東からは今川の圧力が、そして西からは信長の過酷な要求が次々と飛び込んできます。

営業所長か、支店長を任されて、単身赴任で駆け回る、成績の上がらない中間管理職。それが家康の30〜40歳代でした。部下たちにも世話が焼けます。家康の言うことを聞かない酒井忠次、批判的な石川数正、喧嘩早い本多作左、本多忠勝、榊原康正、井伊直政…、

どいつもこいつも言うことを聞きません。子供のことなどにかまけていられませんでした。

高度成長期に、山岡荘八の「徳川家康」がベストセラーになり、「経営の教科書」とまで言われた、家康人気の秘密はここにあります。読者が身につまされるのです。

70、三月、秀吉は守りを京に集中させるため、淀城で暮らす淀と鶴松、大阪城の江や、松の丸たちを聚楽第に呼び寄せると、三万数千の軍勢を率いて北条討伐へ出陣した。
全国統一を視野に置く秀吉である。古くから関東に威勢を張る北条家を屈服させ、余勢を駆って奥州を経略しようというのが、この出陣に潜む真意であった。

前にも書きましたが、秀吉の政権構想は天皇の名を借りた中央集権国家です。権力は朝廷、すなわち秀吉政府に一元化し、武力も、いずれは召し上げて(刀狩)、大名たちは地方行政官にしてしまおうと目論んでいます。税制も全国統一基準として、地方行政権の及ぶ範囲を最小限にしてしまおうと思っています(検地)。この意図を読み取り、これに逆らったのが北条氏政の抵抗なのです。小田原北条は「時勢の読めぬバカ」として歴史に残りますが、秀吉の真意が読めればこその抵抗であって、単に愚人と扱っては酷です。氏政の腹には、奥州の伊達政宗が味方につくであろうという期待があったと思いますね。そうでなければ籠城という戦略はとりません。籠城というのは、救援があることを前提にした戦略なのです。救援がなければ、いかなる堅城であっても、立ち枯れるしかありません。

秀吉の軍勢は四方から小田原に迫ります。家康を先頭に立てた東海道軍、前田、上杉を中核とした中山道軍、数の力で関東の拠点を潰していきます。

このとき、石田三成が初めて戦場に立っています。しかも、忍城攻撃の総司令官としての大抜擢です。三成は秀吉の備中高松城水攻めを真似て、水攻めを指揮しますが、堤防決壊など、現代の原発事故に似た大失敗をして、諸将から「やっぱりアイツは算盤が似合う」などとバカにされています。これが…関が原での敗因の一つになりましたね。戦下手が定着してしまいました。やはり、<知っていることと、できることは違う>のです。生半可な知識を振り回して「俺は専門家だ、任せろ」などと言ってはいけません。

71、始めてまとった鎧兜は身と心にずっしり重かった。

こんなものをつけて戦場を走り、馬に乗り命のやり取りをする武士という生き物が、秀忠には到底信じられなかった。

その先頭を駆けてきたのが、ここにいる秀吉であり、満足げにわが子の勇姿を見つめている父の家康だ。俺は、その後からついていくのか……。

鎧、重たいですよ。映画撮影用の軽量化したものでも、かなり重たくて動きにくいものです。この当時はアルミなどという軽量金属はありませんから、相当に重かったでしょう。

冑(かぶと)、こんなものを頭に載せたら首が動きません。現代人のやわな骨格では、頚椎捻挫でしょうねぇ。この姿で100m駆けたら足腰立たなくなります。映画の合戦場面では苦もなく槍を扱い、刀を振り回しますが…実態はもっとスローな動きではなかったでしょうか。

この場面での秀忠の心情…田淵さんの言うとおりだったと思います。歴史資料というものは、その多くが勝者の残した記録で、しかも為政者に都合のよいように書かれます。ですから、このときの秀忠の心情などはどこにも記録はありませんし、あったとすれば「勇気が凛々と湧いてきた」としか書けません。読者は絶対権力者・2代将軍様ですからね。

歴史小説も、時代小説も、歴史に時間軸だけを借りた「推理小説」です。事実を調味料として使った創作です。中国や韓国の主張する「歴史問題」とは、その意味で実にくだらない、いい加減な主張に過ぎません。彼らの「推理」を正しいと主張しているだけです。

毛沢東や金日成などを主役にした推理小説などを書けば暗殺されるかもしれませんねぇ。

書くのは辞めておきましょう。他国への余計なお節介です。

72、秀吉は小田原城の外郭全体を見下ろせる山に城を築かせ、ここを本陣とすると、五月の末には、聚楽第に残してきた淀を、本陣に送るよう書状で北政所に依頼した。長期戦となる戦陣で、夫を支える妻としての働きを淀に期待してのことである。秀吉には、鶴松に次ぐ後継者を一刻も早く得ておきたいという念願もあった。

石垣山…良くぞこんなところに城を建てたものだと思います。が、戦国期の山城としては普通の立地だったのでしょう。松本城、姫路城、熊本城などをイメージすると「良くぞ・・・」となりますが、戦国期は山城が多く、観光名所になっているお馴染みの城は、戦争用でなく、江戸期の行政用の城が大半です。

石垣山の城跡から小田原市街はよく見渡せます。小田原港に出入りする船も見えますし、実に風光明媚な場所です。正月の駅伝での小田原中継所が一番近い上り口でしょうか。

山のてっぺんを削った本丸跡はかなりの面積ですが、秀吉と茶々はここで過ごしたのでしょう。本丸跡は余り景色が良くありません。駐車場の辺りの方が監視には適当です。この駐車場辺りでしょうか、秀吉と家康の「ツレション人事」があったのは・・・。

観光案内になってしまいました。話題を変えます。(笑)

鶴松は、まだ生まれたばかりの赤ん坊です。それに引き換え家康の世継、秀忠は実に凛々しい。家康の家臣たちは実にまとまりがよく、軍律も正しく、きびきびと指揮に従います。

「それにひきかえ…」秀吉には猛烈に嫉妬心が涌いたでしょう。秀吉の軍団は勝手気まま、自由奔放な者たちが多く、粗野です。正則、清正、光泰、長政…どいつもこいつも腕白坊主がそのまま大人になったようなもので、家康の部下に比べて見劣りします。

「何とかせねば…」焦りと妬心とを癒すには、やっぱり、茶々の柔肌だったのでしょう。