秀吉改革(第21回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

歴史の読み方は、それぞれの時代に応じて、いかようにも変化します。また、読者の立場、主義主張によってもさまざまな観方に分かれます。従って、歴史上の人物はあらゆる方角から滅多切りにされて褒められたり、けなされたりと忙しいことになります。

豊臣秀吉、この人ほど評価、意見の分かれる人はいないかもしれませんね。

田渕さんの描く、今回の大河ドラマの秀吉像は、その極論の部類に入るのではないでしょうか。色キチガイの助平爺、我利・我利亡者、痴漢、女性の敵…そんな感じです(笑)

大河ドラマのオッカケ作者としては、ドラマそのものの批判をしては作品が成り立ちませんから、批判はしたくないのですが…ここ数回の恋物語??は少々偏向しすぎのようで、秀吉がかわいそうになります。それというのも、鳩が「友愛の海」と鳴いてみたり、小沢ガマが中国、韓国に朝貢外交をして以来の雰囲気でしょうか。自虐的史観が政権を覆っていますから、国営放送局も「右へ倣え」というところかもしれません。

しかし…やりすぎ観は否めませんねぇ。

この物語の期間に、秀吉は歴史的大政治改革をやっています。行政改革といってもよいかもしれません。そのことに全く触れられていませんので、今回は「田渕江」からの引用を最小限にして、秀吉改革について触れてみたいと思っています。恋物語はテレビで、歴史認識は「流れる…」で、役割分担してみます。

59、「あやつめは九州攻めのあと、恩賞が少ないとわしに文句をつけおった。許せん」

九州平定は関東から東を残して、日本の中心部を軍事的に統一したことになります。秀吉が狙っている国体は、天皇家の権威を利用した中央集権国家で、この構造は奈良朝をモデルにした公地公民体制への復帰でもあります。つまり、鎌倉幕府以来の地方分権ではなく、藤原鎌足以来の体制に戻そうという動きです。この智恵は、いったい誰が秀吉に吹き込んだのでしょうか。多分、利休などの堺衆や、京都の公卿衆でしょうね。公家とすれば、秀吉が猶子として潜り込んだ近衛家、近衛前久あたりではなかったかと思われます。

将軍にはなれない、ならば関白に…というような単純なものではないでしょう。

将軍による幕府体制、封建体制というのは、字の如く地方領主への権限委譲が基本です。

将軍職は領主連合の議長的役割で、地方行政権は持ちません。立法と司法の権限だけです。

「これでは戦乱は収まらぬ」というのが秀吉の判断で、信長が西洋から仕入れた帝国主義の政治形態を持ち込もうと工夫したのが朝廷の権威を利用する豊臣体制だったと思います。

秀勝が「恩賞が少ない」と文句を言ったのは、彼の頭の中に封建体制があったからでしょう。自分の自由になる土地の広さ、人民の数が権力のものさしになりますからね。

「身内のくせに、分かっておらぬ」と、豊臣体制と足利幕府の違いを、内外に示すための、ひとつのデモンストレーションではなかったかと思います。

政治構造を中央集権にしようと思えば、公地公田の制を敷こうとすれば、地面の広さと、耕作地の広さを正確に中央政府が把握しなくてはなりません。土地は領主の私有地ではなく、朝廷(=豊臣)の資産であり、為政者にはそれを管理させるだけですからね。

検地…これこそが秀吉の行政改革の目玉であり、中央集権への革命手段です。

更に、刀狩…これは兵農分離策です。庶民から武器を取り上げ、専門軍人による国軍の編成です。もう一つが金本位制による通貨の統一です。

テレビでは色気爺ばかりの秀吉を描きますが、表舞台では大改革の指揮をとっていたのです。マニフェストなどという子供だましではなく、軍事力と天皇の権威をフル活用した構造改革を進めていました。このことを忘れてはいけません。

とりわけ検地に関しては猛烈な抵抗が出ます。これは税制に直結しますからね。現代の消費税騒ぎの比ではなかったのではないでしょうか。

まずは、ものさしの標準化、統一が必要です。長さを測る単位が違っていては、土地の面積の誤差は2乗倍で差が出ます。一間(182cm)四方が一坪ですが、仮にこれを2mを一間とすれば3,3uと4uの差になります。約12%の差ですね。

さらに、隠し田という存在があります。役所に届け出ていない私有地のことで、この土地での生産品は無税でした。これが、実は国土の2―3割もあったのです。ですから検地が行われるということは農民にとっては大増税で、百姓一揆の火種でもあります。逆に言えば、領主にとっては大増収につながります。

度量衡の統一とは、その意味で凄い改革だったと思いますが、その指揮をとったのが石田三成や片桐助作などの近江出身者で、その分だけ領主や農民たちの反感を買いました。

初期の検地では測量技術と幾何学計算のできる人材などは殆どいませんでしたからね。

とても…茶々と秀吉の恋のとりもちなどをしている暇はなかったと思いますよ。

この時期、日本全国で百姓一揆が多発しています。大騒動になったのは肥後・熊本でした。九州征伐の後に、この地に入った佐々成政がマジメに、教科書どおりに正しい検地をしたために、半農の武士たちが反乱を起こし、鎮圧できないほどに広がってしまいました。

さらに、キリシタン勢力が絡んで、宗教戦争的様相も呈しました。第2次九州戦争の再現です。秀吉も頭が痛かったと思います。肥後を2分割し、北には武力派の加藤清正を送り込みます。南にはキリシタンの小西幸長を送り込みます。清正は「目こぼし」で半農武士を懐柔し、行長はキリシタン黙認で懐柔します。この手法の差が、後々まで響き、朝鮮での先陣争い、関が原へと展開していきます。

こんな事件は全国至る所で起きていました。が、島津、毛利、徳川などはあまりマジメに検地をやっていません。面積のごまかしを黙認したり、田の品質を低目に評価しています。

そう、言い忘れましたが、上田、中田、下田に品質評価もしています。それによって標準収穫量の計算が異なるのです。

秀勝は恩賞に不満を言って改易されましたが、この検地のカラクリを知らなかったのでしょう。頭を回せば、表の石高より、裏の石高まで計算して判断すべきでしたね。

60、はっとおのれの行為に気付き、秀吉は茶々から離れようとした。離れられるはずがなかった。 茶々は抗(あらが)おうとしなかった。
厚い雲が天に懸かった月を覆い、二人の姿を闇に鎮めた。

女心と秋の空といいますが、男には女心は読めません。秀吉のような人(ひと)誑し(たらし)の名人でも茶々に手こずるのですから、女性遍歴の薄い文聞亭などが立ち入る術はありませんね。

しかし、人の心は付き合う相手によって僅かずつながら変化していきます。「朱に交われば赤くなる」というのも、そのことを示した格言なのでしょう。その意味で、この頃に茶々が付き合っていた人物が誰だったかを調べてみるのは謎を解く鍵でしょう。

江や初との会話が多かったのでしょうが、最も親しいのは侍女頭のサキだったはずです。

この当時の姫君は、トイレのことまで侍女に任せていましたから、一心同体です。隠し立てすることなどありませんし、四六時中一緒にいれば、その影響は家族以上だったと思います。テレビでは茶々の侍女は「サキ」つまり、乳母の大蔵卿の局という設定ですが、そうではなかったことが明らかです。乳母のサキが、小谷から伊勢上野、北の庄、安土、大阪と、ずっと付いてきていますが、そんなことはありえません。

乳母の大蔵卿の局は、後に大阪夏の陣まで生死を共にする大野治長の母です。治長が生まれたのと、茶々の生まれたのが同時期であったからこそ、乳母になったのです。

ところが、治長には弟が二人います。冶房、冶胤(道犬)です。この二人は大蔵卿の子供ですから、伊勢や越前ではなく近江で生まれています。つまり、サキは小谷落城後に夫の元に戻り、茶々から離れて暮らしていたと見るべきでしょう。そうなると…サキとは饗庭の局と呼ばれた女性ではなかったかと想定されます。この人は浅井家の先代久政の姉の子です。つまり、茶々の大叔母にあたります。

大阪城での初期、茶々の周りにいたのは、松の丸を含めて浅井一族の女たちばかりだったのです。「仇」「浅井の誇り」が強く影響して当然です。

そのことに気付いたのが秀吉自身か、三成か、それとも片桐助作かは分かりませんが、異分子を投入することを思いついてもおかしくありません。大蔵卿を呼び寄せ、因果を含めて茶々の側に置けば、状況は大きく変化します。「秀吉はいい人だ」という話をチラリ、ホラリと囁けば、仇という意識も薄らいでいきます。その上に、兄の浅井喜八郎を許し、召抱えるという段取りになれば、「浅井家復興」が茶々の視界に入ってきます。

ことによれば「秀吉の子を産んで豊臣を乗っ取る」くらいの夢を語ったかもしれません。

ですから、茶々を大阪に呼んでしばらく後に、大蔵卿を呼び戻したものと推察します。

勿論、乳兄弟の大野治長も小姓として採用し、三成の配下として奥とのつなぎ役に使ったであろう事は当然です。テレビに出てくる三成は、三成と治長の合成された姿でしょう。

何せ三成は、秀吉の大事業である「検地」の責任者なのです。茶々の面倒を見ている暇などありません。税制改革の真っ盛りにありました。

大蔵卿という「朱」に、じわじわと染められて、茶々は浅井家復興の夢に舵を切ります。