恋の駆け引き(第20回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

ここのところ、NHKドラマは戦国恋物語が続きます。秀吉の茶々に対する求愛、初の恋、その邪魔をしながら自身も秀吉一家の養子たちに興味をそそられる江、と三姉妹の恋物語が中心です。

が、秀吉が恋していたものは、「絶対権力」でした。四国の長宗我部を制圧しても、秀吉の版図は西日本に限定されています。経済力で言えば全国の7割近くを抑えましたが、東の徳川、北条、上杉、伊達などは秀吉の思うとおりになりませんでした。

やっとの思いで上杉と徳川を切り崩しましたが、全国統一、信長の言う天下布武の目的は達成できていません。

さらに、秀吉にとって、最も重い命題は「信長を越える」事でした。

豊臣政権は、創業者信長の遺志を継いで、天下布武を完成させることで世間の信頼を勝ち得ることができます。関白太政大臣の官位では、人はついてきません。そのことは秀吉が一番良く知っています。統一国家を成し遂げてこそ、秀吉を信長の後継者として認知する…というのが、当時の雰囲気だったのです。その意味では上杉、徳川の臣従は大きな意味を持ちます。旧織田勢力は「日和見的臣従」から、本気で秀吉を「社長」として認めるようになりました。徳川の臣従で信長時代の旧に戻り、上杉の臣従で信長を越えたのです。九州、四国の制圧が、ようやく光を放ちます。

が、秀吉の気持ちとしては、信長を真に越えるには「茶々を靡かせる」という宿題が残っています。政治的には信長を越えましたが、世間・世情、すなわち現代で言うところのマスコミは「百姓猿の成り上がり」と醒めた目で見ています。これを払拭するには、なんとしてでも信長の姪である茶々を自分の物にしなくてはなりません。恋とか、愛とか言うものではありませんね。世論操作の道具です。この時代、秀吉ほど大衆の意向を気にしていた政治家はありません。大衆の支持こそが、豊臣政権の命綱と考えていました。

菅政権、似た傾向がありますが…、原発は茶々のように行きそうもありません。家康に似たガマおじさんも、なかなか味方になりそうもありませんしねぇ。

55、夜着姿の夫婦と、肩衣もはずしていない三成、そして茶々。奇妙な組み合わせの四人は、部屋の真ん中で顔を合わせた。
「関白殿下にお願いの儀がございます」

妹・初の恋を実らせてやりたいと秀吉の寝室にまで押し掛ける茶々と三成ですが、この二人は小谷城の姫と、その臣下という関係ではなかったか?というのが私の推測です。その仮説は「篤実一路」に譲るとして、この時期、茶々の次兄である浅井喜八郎は、逃亡者の立場から許されて、自由の身になっています。茶々の願いが、母から託された浅井の血をつなげることであったとすれば、兄、喜八郎を秀吉の家臣として採用してもらうことが、より速く、確実に浅井家再興につながります。京極龍子が秀吉の側室になることによって、弟・高次を秀吉に売り込み、大名にしてもらったように、喜八郎を同様に取り立ててもらい、浅井家再興を目指したとしても不思議ではありません。このことは、茶々の意地と、三成の智恵と、双方が相まって、秀吉への直訴になったものと思われます。

田渕「江」は初の恋をテーマに描きますが、この寝室での密談は浅井喜八郎を登用してもらうための直訴ではなかったかと考えます。

茶々が秀吉の側室になった同時期に、浅井喜八郎は豊臣秀長の旗本として召し抱えられています。秀吉の弟、小一郎秀長の家臣団というのは、そのほとんどが近江人で、浅井家臣団をそのまま引き継いだような構成でしたね。藤堂高虎、宮部継順などが、その主たる家臣として小一郎を支えていました。浅井喜八郎が加わるには、最も居心地の良い場所だったと思います。

56、残されるものの寂しさを江は噛みしめていた。出て行くほうはいい。不安とない交ぜに希望がある。新しい生活に夢中になれもするだろう。でも残された側は、同じ暮らしを続けるしかないのだ。四年前の姉たちの気持ちを、江は初めて知った気持ちがした。

初の嫁入りが決定し、京極家へと去っていきます。江にとっては喧嘩相手というか、じゃれあう仲間がいなくなりますから寂しさも一入だったでしょうね。江の結婚相手も従兄妹でしたが、初の結婚相手も従兄妹同士です。高次の母である京極マリアが浅井長政の姉ですから、浅井系、父方の従姉になりますね。京極マリア…その名が示す通りキリシタンです。秀吉は布教を禁じていますが、信教は禁じていませんでしたから、それを理由に罰を加えるようなことをしていません。マリアの影響でしょう。初はキリストの教えに傾いていきます。

56、天承16年(1588)が明け、秀吉は新年恒例の顔合わせ会を開いた。
集まったのは、秀吉と北政所、21歳となった秀次、15歳の秀康、7歳の秀秋。
丁度20歳になる茶々、16歳の江、そして豊臣家の養女と控えの三成たちである。

秀吉は人の集まる機会が大好きなタイプの人間でした。何かあれば、人を集めて宴会をするというのが秀吉の楽しみの一つで、そこで、自慢話、手柄話を始め、秀吉流のパフォーマンスを披露し、悦に入る…と、その話を書き留める秘書官たちがいて、それを編集したのが「太閤記」になりました。引用した部分の「控えの三成たち」には、太閤記の作者である大村幽古が紙と筆を持って控えていたはずです。

秀吉には実子がいませんから、子供たちを全員集めると言っても養子ばかりです。

ここに挙げられている養子のうち、秀次は姉の子です。秀次、秀勝、秀保と3人兄弟ですが、秀勝は九州陣で恩賞にクレームを付けて放逐されて、この場に呼ばれていません。

一番下の秀保は、小一郎秀長の養子になっていますから、秀吉の会には参加していません。

さらに、秀家は岡山の宇喜多家に里帰りしていますから、抜けています。ここの記述では「豊臣家の養女」と十把一絡げにしていますが、前田利家の長女である豪姫もいたはずですね。豪姫は後に宇喜多秀家の元に嫁ぎますから、養子同士の縁組です。

秀康は…後の越前宰相・結城秀康。秀秋は…小早川秀秋、これに宇喜多秀家を含めた者たちが、後に東軍、西軍、日和見に別れてしのぎを削ります。その時は、茶々と江も敵味方に分かれますね。

関ヶ原の合戦は、このときから僅か12年後(1600年)のことでした。

57、行列を警護する武士はおよそ6千、雅楽の調べが響き渡る中、天皇は摂家衆、公家衆らを引き連れこの上ない優雅さで聚楽第へ向かった。
武家のみならず、天皇を頂点とする公家をも秀吉が支配下においていることを、あからさまに天下に示す行列であった。

豊臣家は武家ではなく、公卿の家、それも摂関家になったわけですから、京の町に居館を構えなければなりません。それが、聚楽第です。京の町の一角を削り取ったようにして、広大な敷地に、数々の大邸宅を建てます。金銀をふんだんに使い、贅沢の限りを尽くしたバブル建築物です。つまり、この時期の万国博覧会の会場の様なものです。

ですから、天皇にもぜひ参加いただいて、盛り上げが必要になります。

バブル…というと、金権主義の愚物のように思いがちですが、そうではありません。

芸術というのは、常にバブル景気と共に花開きます。言いかえれば、バブルを巻き起こすほどの金がなければ、芸術は育たないのです。安土桃山文化の粋が、京都聚楽第に集結し、ひとつひとつの屋敷、つまりパビリオンに飾られていたような情景でしょう。

この大イベントの実行と大成功が、実は、秀吉を狂わせてしまいました。天皇をまで意のままに使ったという自信が、朝鮮出兵、大明国征服という、秀吉独特の大風呂敷、大法螺を実現できるかもしれないというところにまで、自信をつけさせてしまいました。聚楽第への天皇行幸が、成功しすぎたのです。

それから400年、戦後日本においても、大阪万博を契機に「Japan as No1」という壮大な世界制覇の夢に浮かれた時期がやってきました。バブル景気です。

さらに、それから30年、政権を奪取した民主党は「わが世の春」とばかりに勇み、中国、韓国に小沢大議員団を送り込み、「友愛の海」なる旗印を掲げて空手形を乱発しました。

中国要人の来日に、天皇陛下まで顎の先でこき使うようなことを平気でやってのけました。

マニフェスト空手形が旋風となって国民を酔わせ、衆議院の選挙で勝ちすぎたのです。

どれもこれも、成功しすぎ、巧くいきすぎの弊害です。過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし…といいますが、まさに、言葉通りのことを繰り返します。

それから2年………が、今ですねぇ。果たして…どうなりますことやら。