流れるままに(第25回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

秀吉の小田原攻めは、一種の政治ショーです。小田原の北条が、どのように策を弄しても勝負の先は見えていました。唯一、期待があるとすれば、奥羽の伊達が味方について秀吉の中山道軍を後から襲うか、秀吉軍団の中から裏切り者が出るかですが、裏切るためには北条方に少なくても3割の可能性がなくてはなりません。1割の確率、可能性もないのですから、誰も動きません。特に、隣接する徳川と上杉が寝返らない限り、勝ち目は皆無でした。

73、六月、奥羽にあって情勢を窺(うかが)っていた伊達政宗が小田原を訪れ、秀吉の謁見(えっけん)を願い出た。遅参に怒る秀吉は合おうとせず、箱根の地に政宗を留めおいた。ここで動いたのが利休である。

伊達政宗は「生まれてきたのが遅すぎた」と本人が悔む通り、5年遅かったですね。

政宗は米沢から始めて、今の宮城県、福島県を押さえ、岩手県の一部から茨城県にも進出しようという勢いだったのですが、秀吉の東進するスピードに敵いませんでした。家康と上杉の豊臣帰順が想定外だったのです。あと5年、いや、3年あれば…、南部(岩手、青森)最上(山形)、佐竹(茨城)を倒して、東北の王者として秀吉に対抗できる実力が備わったかもしれません。その上で、北条と攻守同盟を結べば、日本を二分する独立も視野に入ります。現在の50Hz圏が日本から離れ、新たな国家を創出したかったのでしょう。

この頃から既に、イスパニアとの交渉が始まっていたと見てもよいかもしれません。東京湾、仙台湾にイスパニア海軍を常駐させ、秀吉に対抗しようという世界規模の戦略です。

この壮大なる夢は、政権が秀吉から家康に移った後も諦めきれず、支倉常長の欧州派遣、家康の五男、輝忠をそそのかしての大久保長安事件へとつながっていきます。

一方の利休ですが、政宗の夢を見抜いています。というのも、茶人と言う資格で、弟子たちが殆どの大名家に出入りして諜報活動をしています。伊達政宗が何を考えているのかはお見通しで、海外交易を志向しているのは堺の商人の利権とマッチしていて大歓迎です。

東北一の暴れん坊、国際派を…潰したくはありません。

74、「徳川家康は働き誠に目覚しく、勝利に貢献すること大であった。戦功を讃えるとともに、北条の旧領、関八州二百五十万石に転封とする」

すでにツレション人事で内示済みのことですが、家康を地元から切り離します。これは、結束の固い三河出身の家康の部下たちを、家康から切り離そうと言う魂胆でした。「家康にやる」と言っておきながら、大久保忠世、井伊直正、榊原康正などに「○万石与える」などと、内政干渉をやっています。一部の家臣だけを表彰することで、徳川家の内部崩壊を狙っていましたね。疑心暗鬼の種を蒔いたことになります。

余談になりますが、戦後、小田原10万石に封じられた大久保家は、大久保長安事件に連座させられて、石川数正の家ともども改易されてしまいます。家康の執念深さ、疑い深さのなせる業でもありますが、秀吉の蒔いた種が芽を出すのに10年掛かりました。しかし、確実に芽を出したのです。猿と狸の化かしあいですが…、この処分に腹を立てたのが忠世の弟、大久保彦左衛門です。一級品の歴史書と言われる彦左衛門の「三河物語」は、権力者への批判に満ちた武士道精神で貫かれています。彦左衛門は芝居に出てくる頑固親父だけではありません。哲学者です。宮城谷昌光の「新三河物語」、お勧めです。

また、このとき、秀吉の母を脅迫した本多作左衛門も謹慎蟄居を要求されています。

作左の息子が、越前丸岡に4万石で返り咲くのは、徳川政権になってからのことでした。

他人の家の人事に口出ししてかき回す、この時代の権力者の常套手段ですが、現代でも組閣人事に口出しする長老という名の派閥の親分、困ったものです。

75、秀吉は心の中でにんまり笑ったが、表面は激怒して見せた。
「この秀吉の命令は、帝(みかど)のご意思、すなわち勅(ちょく)命(めい)である。それと心得た上の発言か」結果、信雄は領地を召し上げられた。

好き勝手にされても我慢していた家康に反して、自己主張したのが織田信雄でした。

たいした働きもないのに、伊勢、尾張の二カ国から、家康の旧領5カ国への転勤命令ですから良い話です。家康と組めば関東中部で13カ国になりますから、十分秀吉に対抗できます。が、断ります。京から遠ざけたい秀吉に「京の近くをくれ」というのですから、話になりません。結果は一文無しの逆賊にされてしまいました。

現代のサラリーマンにとっても転勤命令は悩ましいことです。なぜか、家を建てる頃に転勤命令が来ますから困りますね。土地に慣れ、気に入り、よしここで…などと思った頃に「あっちへいけ」と命令されます。従うか辞めるか…、現在は単身赴任という便利な制度ができましたが、一昔前は家族帯同が当たり前でしたから人生の決断でした。

しかし、その決断がまた、その人の力量を伸ばすのに役立ったことも事実です。

最近、決断力のない、口先ばかりの宰相が続きます。日本と言う国家の信用崩壊の危機ですが、そのことを「危機だ」と認識している政治家がどれだけいるのでしょうか。ガラガラポンと牌をかき混ぜて、メンタンピン三色狙いの堅実な手を打って欲しいものです。

勝手バラバラ、チャンタや国士無双狙いでは信用回復には程遠いと思いますよ。 (スミマセン…麻雀用語の使いすぎでした)

76、関東の新たな主として、家康は小田原城の受け取りを命じられていた。無傷の小田原城は今後、徳川の居城になる。誰もがそう考えていた。しかし家康の答えは意外なものだった。
「小田原には住まぬ。居住地は江戸と定めた」

小田原は関東平野の南西の端に当たります。それに代わる候補地として家康が想定したのは、まずは鎌倉でしたが、市街地にすべき平坦な土地が狭すぎます。次に、川越も候補に浮上しましたが、海路を使えない内陸です。

江戸、ここに目をつけました。大田道灌が建てたというオンボロの城があるだけの湿地帯ですが、その中に家康は無限の可能性を夢みました。こういうところが創業者の感覚ですね。戦の城は部下たちに守らせ、自らは政治の拠点を作る…、というのが信長、秀吉から学んだ城作りなのです。安土城、大阪城、聚楽第、淀城…これらから、家康は「行政機能としての城」をイメージしました。

拠点をどう配置し、誰をそこに据えるか…家康の領国経営にとっての難問はそこからです。

小田原には家康軍団では最も戦巧者の大久保一門を置き、東海道に備えます。北には武田の遺臣を多く抱えた井伊直政を置き、碓井峠、清水峠を越えてくる敵に備えます。そして、最も警戒すべき水戸の佐竹に対して下総、結城、宇都宮と帯状に軍事能力の高い武将を並べます。この配置を見れば、家康の仮想敵国は、明らかに佐竹でしたね。上杉は会津に移されて弱っています。甲斐に封じられた浅野長政、越後の堀も、新任地ですから侵略の余力はありません。信濃方面も、10万石程度の石川、真田、仙石などで、単独では動けません。この配置が、秀吉後の政局に大きく絡んできます。関が原決戦への伏線が敷かれていました。

秀吉は、関八州には家康を慮って口出しせず、奥州の仕置きに掛かります。仕置きとは、早い話が検地の徹底で、伊達政宗を仙台に封じ込める経済制裁にほかなりません。石田三成、片桐且元などのプロ集団は勿論、子飼いの連中を総動員して徹底的に伊達家の内情を調査しました。政宗を身動き取れなくしてしまったのです。

77、人質として大阪と京にやられ、元服の犠、甲冑始めの儀があり、初陣がそれに続いた。あわただしい日々を、秀忠は川の流れに漂う葉のような心境で過ごしてきた。
これからもそうだろう。駿府に戻り、継嗣として城を守る。その先はどうなるか分からず、分かったところで同じだった。水底に沈まないでいることくらいしか、葉っぱにはできないのだ。

今回のシリーズのタイトルを「流れるままに」としたのは秀忠と江の夫婦が揃って、時代に流された漂流者であったからです。川の流れに翻弄されて、流れるままに行きついた先で、気がついてみたら将軍とその妻になっていた、そういう夫婦の物語なのです。

信長、秀吉、家康という巨大な政治家の道具として、自分の意思を発揮する暇もなく、右往左往していたら、そういう立場になってしまっていた人です。なんとなく…前の総理大臣の様でもありますが、親が長生きしてくれたおかげで大過なく過ごせたと言えます。

田渕江では、秀忠をニヒルな男に描きますが、ニヒルと言うより、必死で父の後を追いかける優等生…それが秀忠だったように思います。