流れるままに(第37回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

小山にあった徳川軍は、三成の西軍と戦うべく西に向かいます。が、ここで東軍は3つに分かれます。

北の宇都宮に向かい、上杉を牽制し、日和見の佐竹を睨むのが家康の次男、結城秀康を大将にした北部方面軍で、この部隊は伊達、最上と連携して、上杉を南北から挟むように陣取ります。上杉の動きを封じるのが任務です。

主力は東海道軍で、これは福島、黒田、池田、細川など、豊臣恩顧といわれる大名たちが中心になります。

そして、秀忠が率いる徳川主力部隊は中山道を取ります。

この配置、布陣、微妙ですねぇ。関が原での決戦そのものよりも、なぜ???このような配置にしたのか、実に興味深いところです。

一つの疑問は、家康が決戦場をどこに想定したかです。三成は木曽川、長良川の両岸、墨俣一夜城周辺を、想定戦場に選んでいました。ですから岐阜の織田信秀を味方に引き入れ、大垣城に進出して、いち早く木曽川の西岸の守りを固めたのです。

家康も、当初はこの辺り(濃尾)を想定していたのではないでしょうか。そうだとすれば、川を挟んで両軍が向かい合うことになります。そこへ、木曽川の上流を渡った秀忠の軍が、西軍の後から回りこんで、挟み撃ちにすることができます。家康の誇る徳川四天王のうち井伊直政、本田平八郎は東海道軍にいますが、酒井忠次、榊原康正は中山道軍に居ます。さらに、徳川最強といわれた大久保勢も、秀忠の配下です。ですから、中山道軍のほうが平地での戦いを得意とする徳川の主力部隊なのです。

川を挟んでの消耗戦は外様にやらせ、手柄は秀忠が独り占め…という構図ですね。

万一、秀忠が決戦に遅れても、徳川主力は温存できます。

秀忠遅刻の原因とされる上田の真田攻めですが、嗾(けしか)けたのは本多正信です。家康の参謀です。わざと遅刻させた節がありますね。大久保彦左の三河物語によれば、大久保、榊原などは、上田城で道草を食うことに猛反対していました。テレビとは役者が逆です。

121、15日未明、京極高次は西軍に降伏した。
天下分け目の戦いの当日のことである。今しも関が原では、東西の両軍が着陣を終えようとしていた。このとき高次はそれを全く知らず、既に関心も失っていた。

運が悪い、我慢が足りない、馬鹿殿だ…と、京極高次の後世の評判は芳しくありませんが、家康の評価は必ずしもそうではありません。戦後の論功行賞では20万石が提示されています。が、「私はその器でない」と断って、若狭8万石6千石を貰いました。自分の力をわきまえている、という点では立派ではないでしょうか。その後、息子の忠高の代になって、秀忠から11万3千石に加増されています。

この大津城攻めに掛かった西軍の武将たちは、長束、増田といった、どちらかといえば戦意がない、お付き合い型の者が多かったですね。本気で攻め落とす気であれば、もっと早くに落ちたでしょうが、寧々や淀君などの仲裁もあり、時間つぶしに付き合っていました。

片桐且元の弟、貞隆も西軍で大津城包囲戦に加わっていますが、なぜか、奈良の小泉に1万石を貰って大名になっています。密約があったんでしょうね。

122、前夜から降り続いた秋雨は上がったものの、関が原はまだ濃い霧に包まれていた。
東軍の本隊三万を率いる家康は床机に腰を下ろし、なだらかな地形に無言で見入っていた。

西軍10万、東軍8万といわれ、陣取りから見れば、圧倒的に西軍の勝ちと予想するのが机上論ですが、「戦意」「勢い」という要素が作用するのが現場です。

ことをなすは人にあり、人を動かすは勢いにあり、勢いを作るは、また人にあり

と言ったのは後の世の勝海舟ですが、まさに、勢い、やる気に大きな差がありました。

三成の最大の誤算は、この「気」を掌握し、「勢い」を生み出すことが出来なかったことにあります。大津城(京極)攻防戦、丹後宮津城(細川)攻防戦もそうですが、西軍兵士に戦意が感じられないのは、三成の嘘が次々とばれていたからです。

総大将は毛利輝元だ…と言っていましたが、輝元は大阪城に居座って、どこの戦場にも顔を出しません。毛利の軍司令官である吉川元春も高い山の上に陣取っていて、戦意が見えません。総大将にやる気が感じられないのです。日和見にしか見えません。

更に、毛利一族の小早川秀秋も、動く気がないのですから、西軍の中小規模の大名たちの多くは日和見になります。島津ですら、傍観していましたからね。

ですから、西軍10万といっても、実質戦力は5万程度でした。

対する東軍も8万といいながら、池田、山内、浅野などは後方に控えて、万一、毛利が攻めかかってきたときに備えていますから、こちらも5万程度です。

5:5の戦いですから優劣がつかないところに、小早川の1万8千が乱入してきますから、一気に勝負がついてしまいました。

123、大谷吉継の主力部隊わずか6百は、殺到した秀秋軍に側面を突かれ、乱れかけはしたものの、一万五千もの兵をいったんは撥ねかえしてみせた。しかし息を吹き返した東軍に襲われ、さらに友軍から、家康有利と見て裏切るものが続出しては、もはや勝ち目はなかった。

小早川の裏切りが戦局を変えます。この間の民主党の党首選挙のようなもので、決選投票に残れなかった者が、どちらに付くかで勝負が分かれます。脇坂、朽木、赤座、小川といったところが、小早川に誘発されて東軍に廻りましたから、裏切り軍の総数は2万を超えます。これで一気に勝負がつきました。

後のことになりますが…日和見から寝返った4人の人生は大きく分かれます。

脇坂、朽木、赤座、小川の寝返り4人組の中で、脇坂淡路は、「頃合を見計らって寝返る」と、事前に連絡を入れてありましたからお咎めなしでしたが、ほかの3人は「現場判断」で寝返りましたから、卑怯者のレッテルを貼られて追放処分です。臨機応変、勝ち馬に乗る…という戦術も、なかなかに難しいものです。

124、宇都宮では散々待たされ、真田親子には手もなくひねられ、今はこの風雨と寒さだ。これも親父に言わせれば、息子の教育ということになるのだろうか。
秀忠は、自分にない知力と強さを持つ家康に、いたぶられているとしか思えなかった。

NHK大河ドラマが、上田における秀忠の戦争を、どの程度詳しく物語りに組み入れるか分かりませんが、ここでの戦いは面白いですよ。本多正信と真田昌幸の騙し合いです。

以下、大久保彦左衛門の「三河物語」を要約してみましょう。

まずは、本多正信が敵将の長男、真田信幸を使って降伏勧告を仕掛けます。

すると、真田昌幸が頭を丸めて出家する。降伏すると信幸を経由して伝えてきます。

ならば…と、使者を送ると、「息子は徳川に味方して耳がおかしくなった」と拒否します。

これに頭にきてしまったのが、秀忠ではなく本多正信でした。軍事専門家、大久保、榊原の反対を押し切って、上田への進軍を始めます。秀忠軍は、実質は本多正信が指揮官でしたが、正信も三成同様の官僚ですから、軍事の駆け引きは分かっていません。

徳川軍は、正信の指示で、上田城の周りで「青田刈り」をはじめます。これは、籠城している兵を誘い出すための罠です。これに乗って真田兵が出てきます。「それ」と勢い込んで徳川兵が追いかけると、待ち伏せしていた真田幸村率いる遊撃隊の兵たちが反撃してきて、あしらわれてしまう。こんなことの繰り返しでした。損害ばかり出て、城はびくともしません、3万の兵が3千の兵に、面白いようにあしらわれてしまったのです。

ここで反省しないのが、正信の嫌われるところで「青田刈りを指示したのに、戦をした。軍律違反だ。責任者を処分しろ」と強弁しますから、軍人たちは怒ります。ますます意地になって、上田城に攻めかかり、戦いを長引かせてしまいました。

これが、わざとやった芝居なのか、それとも本気か? 意見の分かれるところです。

遅刻した秀忠は家康からこっぴどく叱られますが、これが家康の猿芝居、いや狸芝居なのか、それとも本気で怒ったか、意見の分かれるところです。

今週は関が原特集になりましたが、関が原戦の最大の謎は、「なぜ、毛利輝元は難攻不落の大阪城に籠城しなかったか」です。14年後に、家康は20万の大軍で包囲しますが、冬の陣では落ちず、淀君と大野治長を騙して堀を埋め、やっとのことで落としています。

兵力も、無傷の毛利、長宗我部、鍋島などが残っていましたし、秀頼の親衛隊2万がいます。集めれば7、8万はいたはずです。秀頼という「玉」も握っていたのに…不思議です。