流れるままに(第35回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

三成は再起の心を秘めて佐和山に向かいますが、それを護衛したのは家康の次男、結城秀康です。秀康は、大阪城の人質暮らしで、三成とは親しい間柄でした。しかも、その論理明晰な政治理念には、憧れに近いものを持っていました。若者から見れば、三成のタイプは、政治家としての理想像にも見えたのです。

父親の家康からは疎まれて、結城家に養子に出されるなど冷遇されていますが、今回護衛を命令されたのは、始めて父から受けた命令でした。これには感激です。思い切り派手な軍列を従え、三成を護衛します。これは三成にとっても晴れやかな気分になり、左遷されて国に帰る惨めさがありません。そのお礼に、三成は天下の名刀「正宗」を、お礼として秀康に贈ります。秀康は後に、石田正宗と名づけたこの刀を、終生大切にしていましたね。

三成は、表向きは謹慎の姿勢をとりますが、島左近に命じて、来るべき家康との対決に備えます。目立たぬように軍備を増強します。お膝元の国友村では、関が原戦の序盤に威力を発揮した大砲の鋳造も始めています。さらに、仲間である直江兼続、大谷義継、小西行長、安国寺慧恵などとは頻繁に密書のやり取りをしています。中央政界から去ることで、かえって自由度が増したのかもしれません。ただ、この中で失敗だったのは、仲間と考えていた増田長盛、長束正家が二股膏薬で、情報のすべてが家康に漏れていたことでしたね。

さらに、自分の子分と考えていた大野治長が、期待したほど働かなかったことです。

113、大阪城では、女性たちの別れが続いた。
春、松の丸と呼ばれていた京極龍子が城を離れ、兄の高次と初夫妻の待つ近江大津城に移ったのに続き、9月には、北の政所が西の丸を出て、京の三本木に築いた新御殿に転居することになった。

七将クーデター事件が一段落すると、政局は穏やかになりました。家康の対抗馬であった前田利家が亡くなり、石田三成が失脚してしまえば、当面の波乱はありません。騒動のきっかけになった私婚事件にしても、家康から正式に大老会議に再提案して、すんなり認可されてしまいます。

更に家康は、五大老はじめ諸大名に帰国勧奨をします。朝鮮での戦いの後、秀吉没後の政治的緊張で、国許に帰れなかった大名が殆どでしたから、大歓迎です。大阪城が空っぽになるほどに、殆どの大名が国に引き上げます。中央政治は家康に任せ、地方政治に専念し始めたのです。清正は熊本城の築城に没頭します。毛利は朝鮮戦争で打撃を受けた水軍の立て直し、宇喜多はお家騒動の始末、上杉は会津の軍事施設の再配置などに没頭します。

京都には豊国神社が建ち、秀吉は豊国大明神として神様になりました。寧々にとっては、大阪城に居残って政治に煩わされるよりも、京都で秀吉の霊を弔いたかったのでしょう。

西の丸を家康に明け渡して、さっさと京都に隠遁してしまいます。

114、治長は当惑した顔で淀を見た。淀は笑って頷き、それを見た治長も、はにかんだような笑みを浮かべた。親密な気配が両者の間に濃く漂うのを感じ、北政所は理由のない危惧をふと抱いた。二人が男と女の関係になるのでは、と言った生半可なものではなく、もっと切実で予断を許さぬ危うさだった。

大野治長と淀君の関係、果たしてどうだったのでしょうか。ここで北政所、寧々の抱いた危惧感とはなんなのか?実に面白いテーマですねぇ。男と女が目と目で会話をする、これは勘ぐりを生みます。引用した文書を読む限りでは「寧々は秀頼の出生にまで疑いを持ち出した」と読むのが順当でしょうね。

しかし、秀頼を懐妊したころ、秀吉は健在です。唐津の名護屋城に淀を呼び寄せて、無聊を慰めていた時期です。大阪城内、名護屋城内では密通する機会などは皆無と言っていいでしょう。鶴松のときに、噂を立てただけで怒り狂った秀吉の報復の怖さは、町人たちですら身に染みていますから、治長が危険な火遊びなどする気にはならないと思いますよ。

二人の関係は、乳母の大蔵卿を仲立ちにした乳兄弟です。治長が僅かに早く生まれ、その乳を茶々と分け合った仲です。「同じ釜の飯を食った仲間」などと言いますが、「同じ乳を吸いあった仲間」ですよね。大蔵卿を介して双子の兄妹のような関係です。

秀吉が亡くなった今、淀、茶々にしてみれば、大阪城は秀頼の物です。と言うことは、茶々の物でもあります。更に言えば浅井家の物です。日頃身の回りの世話をする大蔵卿の局は、浅井の小谷城から従っている浅井の家臣の妻でした。その息子の大野治長も浅井の家臣の息子です。さらに、豊臣家の家老として時折、顔を出す片桐且元も浅井長政の小姓でした。

つまり、茶々にとって大阪城は豊臣の物でもあり、浅井の物でもあったのです。むしろ、 秀吉亡き後は「浅井」のほうが意識として濃くなっていたのではないでしょうか。

寧々が危惧したのもそのことで、秀吉が精魂こめて作り上げてきたものが、浅井に乗っ取られるという危惧感だったと思います。浅井となれば…三成も浅井家の出身です。大阪城守備隊の、七手組筆頭の速水甲斐も浅井家家臣でした。

そうなると、寧々の愛し、育ててきた虎之助(清正)、市松(正則)、松寿丸(黒田長政)、そして小早川秀秋はどうなるのか。これには切実な危機感を覚えます。

115、その三成が、家康打倒を胸に秘め、その機会を虎視眈々と窺っていることを治長は極秘に知らされている。
もとより淀に打ち明けられる事柄ではなかったが、治長はこう告げたい誘惑を懸命にこらえなくてはならなかった。「後しばらくのご辛抱でございます。間もなく、家康は討たれ、秀頼様がお治めになる太平の世が必ずや訪れましょう」と。

大野治長、多くの歴史家、小説家は良く書きません。淀君に牛耳られたYes man、太鼓持ち、男妾というイメージですが、そればかりではなかったような気もします。

女王茶々に忠実な働き蜂、働き蟻ではなかったかと思います。滅私奉公の典型的なタイプで、茶々の意を汲んで、それを実行することに徹していた、超マジメ人間だったようにも思います。「女王陛下のおっしゃる通りに…」 これが大野治長の行動ポリシーではなかったでしょうか。その後の治長の政治判断を見ても、政治的才能があるとは思えません。

後藤又兵衛、真田幸村という一流の軍師と、大阪城と言う大要塞を抱えながら、家康の、思うがままに動かされてしまう判断力は、政治家、経営者というよりは、村の好々爺でしかありません。要するに「いい人」です。

そういういい人に、機密を伝えた三成は、明らかに淀君を取り込もうと画策していたのです。秀頼という「玉(ぎょく)」を手に入れて、家康を賊軍、悪党に仕立て上げる工作をしていたはずです。大野治長から計画を茶々に伝え、家康と敵対する一方の旗頭に据えようと仕組んだに違いありません。

が、いい人、度胸のない治長は、母親や片桐且元に相談して三成の依頼に応えなかったのではないでしょうか。且元の判断は、事件が起きたら「家臣同士の争い」として、豊臣家を一段高いところに置いておきたかったものと思います。

116、家康が、上杉の態度を、豊臣家と秀頼への重大な反逆行為と断じ、諸大名を大阪城二の丸に招じ集めたのは六月初旬。その場で、上杉討伐の攻め口から各部署の担当までもが発表された。

家康が上杉家に詰問状を投げたのは、全くの言いがかりです。「面をきった」「肩が触れた」という、ヤクザの言いがかりと同類で、上杉に対する挑発です。

一方の上杉景勝、直江兼続にしても、家康が天下を簒奪しようとしていることは承知の上です。汚い手口で政権を奪おうとする家康に、安易に妥協したのでは謙信以来の哲学の家に汚点を残します。謙信的筋論に徹する、それが上杉家の存在価値でもありました。

直江状…後世に残る、理路整然とした家康弾劾文です。宣戦布告ともいえる、非の打ち所のない名文を投げ返します。この伝統は、日米開戦のときの海軍、山本五十六にまで伝わる越後人の誇りでしょうね。

家康にとっても読み筋通りです。三成の動きは、大阪の増田長盛を経由して逐一伝わってきています。三成は増田という変節漢、日和見の風見鶏を味方として信用してしまっていましたから、その後の作戦はすべて家康に筒抜けでした。

増田長盛的器用人間、どんな組織にも一人や二人は存在します。自分さえ良ければ、周りがどうなっても構わないという、利己主義に徹した男、イソップ物語の蝙蝠男がいます。

この種の人間の末路は、実に寂しいものです。高い地位に上ろうが、巨万の富を築こうが、友達は一人も残りません。待っているのは孤独死です。

が…、そういう男を使って政権を奪取した家康も「狸親父」と呼ばれて、評判はよくありませんね。さて、歴史に名を残したいと言う現総理には、何と名が残るのでしょうか。