流れるままに(第36回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

家康が「狸親父」…という、本人にとってはありがたくない名前を貰うのはここからです。

この人は人生の中で、何度か脱皮を繰り返して、七十数年の人生を全うしました。脱皮するごとに、性格、人格が変っていくのです。その意味では歴史上の傑物、稀有な存在と言っていいでしょう。

少年時代から、今川家の束縛を逃れるまでの間は「愚鈍なヤンチャ坊主」と表現されます。力のあるものには逆らわず、流れるままに身を任せて生き延びるという態度です。田渕さんが「江」の中で描いている秀忠像、あれが家康の少年期、青年期の姿に重なり合います。

独立して三河を取り返してからは、颯爽たる青年武将です。信玄に憧れ、信長を理想として戦いに明け暮れ、「東海一の弓取り」と評判を取るほどの優秀な軍人になります。三方が原で信玄に叩きのめされましたが、それ以外では負けを知りません。小牧長久手でも、秀吉軍を翻弄し、勝ちを収めています。

秀吉の軍門に下るところで第二の脱皮をします。「鳴くまで待とうホトトギス」といわれるように、徹底して待ちの姿勢をとります。秀吉には一切逆らわず、むしろ、秀吉の狂騒を煽り立てて政権の矛盾、破綻を待ちます。その結果、関白秀次事件で豊臣家の身内が崩壊し、朝鮮では豊臣家中が仲間割れして政権が不安定になりました。

いよいよ…です。待った甲斐があったと、第三の脱皮をします。狸になりました。

信長、秀吉、家康と並べますが、この三人が大きく違うのは「情報の扱い」でした。忍者、乱破と言われる当時の情報網に対する姿勢が、三者三様です。文聞亭のように、情報という世界で飯を食ってきた者からすると、実に興味のあるところです。

信長は忍者、乱破と言う現代のジャーナリストを徹底的に嫌いました。甲賀、伊賀などの忍者は敵として、徹底的に弾圧しています。一方、秀吉は情報網として自前の乱破集団を組織します。蜂須賀小六、前野将右衛門など、日吉丸時代からの仲間を使い、主として情報発信に多用しました。彼らのことを乱破(らっぱ)というのは噂のばら撒きを得意としたからです。

一方家康は、本能寺の後の伊賀越えで、多くの伊賀忍者を召抱えました。信長が嫌った情報要員を服部半蔵の下に組織して、情報収集網を拡充したのです。秀吉が情報のアウトプットを重視したのに対し、インプット重視の立場です。山中伊賀、柳生但馬などが元締めです。特に柳生は、秀吉没後から重用されだします。柳生新陰流指南というのは表向きの看板で「公儀隠密」というのが柳生の本職でした。為政者とマスコミ、この関係は現代の政治スタイルにもでてきますね。信長的だった吉田茂、佐藤栄作。秀吉的だった小泉純一郎。さて、野田の泥鰌総理ははどのタイプでしょうか?

117、家康が上杉討伐のため、大阪を空けた隙を突く形で、石田三成が兵を挙げた。
大阪城の秀頼に拝謁を申し出た三成は、家康の行動のいちいちを非難し、それが豊臣にとっていかに危険であるかを縷々申し立てた。(略)
奉行職を罷免されていた三成は背後で糸を引き、家康弾劾書を諸大名に送るとともに、二人の大老が連署した檄文を発するという形で宣戦布告した。

三成にとって、政界復帰のチャンスはこのときしかありません。戦略的にとか、謀略を構えるとか言う余裕はなく、上杉と徳川が諍いを起こし、家康が軍を率いて江戸に向かう時しか、佐和山の檻から抜け出るチャンスはありませんでした。

勿論、盟友直江山城、自らの参謀、島左近と綿密に打ち合わせをしたうえでの決起です。

三成にとって残念だったのは、決起の時期が早すぎたことです。直江山城との約束では、「徳川と上杉が戦闘に入ったとき」というのが決起のタイミングでしたが、その前のフライングでした。このことを「三成の焦り、戦術知らず」という人が多いのですが、そうではなかったでしょう。西国からの兵士が続々と東へ向かうのを見て、計算が狂ってきたのです。

家康に従って江戸に向かったのは、主に、近畿東海の武士たちです。その数5万。家康軍と合わせても8万程度ですが、四国、中国、九州の兵まで家康に従うと、西軍の優位が揺らいでしまいます。目の前を越前敦賀の大谷刑部の兵が通ります。大阪からは長宗我部、島津、鍋島の軍が東に向かうという報告が入ります。盟友である刑部、軍事力に優れた、精強な四国九州勢を敵に回したくありません。「止むに止まれず…」の決起でしょう。

四国九州勢を大阪に戻し、刑部とともに大阪に入り、毛利輝元を総大将にすえ、宇喜多秀家を副将として、西軍を結成します。時間的にはギリギリのタイミングでした。

118、ガラシャの死の知らせは、三成を打ちのめした。一人の女性がそこまでの決意と勇気を示したことが、三成には衝撃だった。  (略)
このときのガラシャの死と、おのれの翻意がなければと、後に三成は幾度も振り返ることになる。細川がラシャは紛れもなく、三成に挑んだ戦士の一人だったのだ。

戦略上は当然の処置ですが、東軍兵士の家族を人質として確保しようとします。中でも、東軍で主力となりそうな細川、黒田、福島などの家族が狙われます。が、この捕虜確保作戦に増田長盛を当てたのが大失敗でした。増田は二股膏薬、日和見でしたから、負けたときのことも考えて無理をしません。西軍の情報も、毎日のように報告しますし、徳川忍者にリークしています。それは、程度の差こそあれ、長束正家も同様でした。彼らを「部下」と誤認していたことが、三成の最大の失敗ではなかったかと思います。

ガラシャ夫人、夫の細川忠興とは同居離婚のような間柄でした。夫のために逃げる気もありませんし、かといって人質になる気も有りません。「捕縛に来たら死ぬ」と決めていました。それが分かるから…増田右衛門は手出しできずにいたのですが、功を焦った三成の部下が踏み込んで、「花は花なり 人は人なり」の結果を招いたのです。

ただ、この事件は象徴的に東軍兵士に伝わりました。「西軍は我々の家族を虐待する血も涙もない連中だ。我々が寝返る余地はない」と、対決姿勢に追い込んでしまいました。

119、そのとき、さっと立ち上がり、顔を朱に染めて叫んだ男がいる。
「こたびの挙兵は、おのれの天下取りを企む三成の謀略にて、内府殿は断じて秀頼様に弓を引くものにあらず!奸族三成を除くべく、それがし内府殿に進んでお味方申し上げる。必ずや打ち倒しましょうぞ」
諸侯の中でも血縁が秀吉に最も近く、武勇で鳴らした福島正則であった。

家康は江戸城を動きません。西からの情報を丹念に分析します。が、従ってきた外様大名を江戸で待たせていては、風評で寝返りや戦意喪失も心配になります。榊原康正を先発させ、秀忠を先発させ、外様大名は北関東へと進軍させています。

この神経戦、家康も三成同様にイライラしていましたね。三成は一向に立つ気配がないのです。痺れを切らして家康が北に向かったのは「シャーナイ、誘うか」という感覚です。

そこへ、増田長盛からの第一報が入ります。家康の部下が守る伏見城への攻撃です。

急遽開かれた小山会議。家康にしてみれば、筋書き通りの展開でした。「さくら」「やらせ」など、準備万端。この役を買って出たのが黒田長政です。更に、根回しに暗躍していたのが藤堂高虎です。秀吉、秀長が手塩にかけて育てた者たちが、「次期政権は家康」と狙いをつけて家康のために働きます。福島正則は乗せられた道化役者でした。

清正がこの場にいたら…、こういう展開になったかどうか?歴史に「もし」はありません。

120、「内府殿、西へ上るには、城と兵糧が入用かと存ずる。それがしの居城、掛川城を明け渡し、進呈仕る」
一同は目を剥いて武将を見た。掛川城の山内一豊か…。

この機会を最高にうまく使ったのが、妻の方が有名になった山内一豊です。本人は愚直で、妻のお蔭で出世したなどと言われますが、なかなかどうして…、機をみるに敏という点では一流の役者です。

信長からは評価されていないと見るや秀吉の与力に乗り換え、次期政権が秀次と見て秀次の与力になり、秀次が危なくなればさっさと見捨て、そして今度の小山会議です。

会議の大勢が決した、三成征伐だとなって、この発言でした。

これは家康の「ヤラセ」ではありません。脚本にないアドリブです。しかも、盗作です。

一豊は、陣が近い堀尾茂吉の息子と連れ立って会議に向かったのですが、その途中でこのアイディアを耳にします。「なるほど。なるほど」と感心しておいて、いざ会議となったら、自分がやってしまいました。完全な盗作です(笑)これで土佐24万石Getです。掛川6万石を捨てて、4倍の大儲けでしたね。しかし、さすがに気が咎めたのか、あとで素直に、家康に白状していますが、家康曰く、「年功のある、そなただから効き目があった。堀尾の息子では、ああはならぬ」確かに・・・誰が言うかで言葉の意味、重みが変りますね。

堀尾も、出雲50万石になりましたから…、この盗作事件は、メデタシ、メデタシでした。