流れるままに(第38回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

関が原の戦いは、東軍の一方的勝利に終わり、東軍勢力が近江へとなだれ込んできました。

三成の本拠地である佐和山城は陥落し、西軍が奪っていた大津城は敵対する者たちが逃げ散って無抵抗で家康の本陣になります。家康は大津に腰をすえて、戦後の論功行賞をするための調査に掛かります。

とはいえ、まだ東北方面では上杉と最上、伊達連合軍が戦闘中です。九州でも清正、官兵衛の連合軍が西軍に付いた立花、鍋島、島津などと戦っています。近畿圏では執拗なまでの残党狩りですね。三成、小西行長、安国寺慧慶、宇喜多秀家、長宗我部長親などの大物武将を求めて血眼になっていました。とくに、関が原で目立った働きの出来なかった者たちが、褒美を求めて必死になります。浅ましい…といえばそれまでですが、家、企業の興廃にかかわることだけに、ここからが大切なのです。いかに自分たちの手柄を高く売り込むか、それによって千石、万石の収入に差がつきます。特に、戦いの途中で寝返った者や、戦闘に遅刻した者たちは必死です。巧くすれば増収、拙くしたら減俸ないし、取り潰されるかもしれません。

さらに、西軍について、関が原に行かなかった者、大津や宮津、伊勢方面を攻めていた者たちは戦々恐々です。いかにして言い訳をするか…、方法論はそれしかありません。

言い訳をせず、堂々と負けを認めてきたのは上杉だけです。他は、言い訳の捏造に躍起でした。特に大変だったのが毛利でした。西軍の総大将ですからねぇ。

毛利本家は取り潰しと一旦答えが出ましたが、寝返った吉川元春に与えられた30万石を「本家名義」に変えてもらって、やっと毛利の家名が生き残ったのです。

巧く言い逃れたのが、島津と鍋島の九州勢です。本領安堵を勝ち取りました。

失敗したのが、途中で寝返った赤座、小川、朽木などです。改易、追放になりました。

さらに、終始去就を明らかにしなかった常陸の佐竹は、「秋田に行け」といわれただけで、年俸の提示がもらえませんでした。これは一種の島流しのようなもので、20万石と年俸が決まったのは2年後のことです。

125、「家康は不義の輩、これを倒すのが義。そう信じ、皆を導こうとしたのであろう」
「……いかにも」
「それは頭でやる戦じゃ。誰も動かぬ。人は生身で、もっとどろどろしたものじゃからの。わしのように鈍でおらぬと、人には助けてもらえぬ」

家康と三成の会話場面ですが、「人」という生き物の思考回路が「そのとき」どう働くか、については家康の言うとおりでしょうね。どじょうで有名になった相田みつを師は

「感じて動くから感動と言うんだな。理屈では動かないから理動って言葉はねぇんだよな」

と言っています。戦争もそうですが、危機における決断という場面では直感勝負になります。理屈をこねている暇はありません。

今回の津波災害に当たっても、素早く山に向かって逃げ、全員無事だった学校と、マニュアルにこだわって、校庭に整列させていた結果、多くの犠牲者を出した学校と典型的事例が出ています。自然災害にしても、日ごろの人間関係にしても、マニュアル通りになど動くはずがないのです。

関ヶ原戦の両軍の配置図を見て、殆どの軍事専門家は西軍の勝ちを予想しますが、それが理屈なんですね。マニュアルなのです。昨今ではISOという「品質管理マニュアル」の認定を受ければ、立派な製品が出来上がるという信仰が幅を利かせていますが、それも理屈の一つです。ISOの認定を受けても、不良品は出ます。なにせ、人間のやることですからね。マニフェスト…似たようなものでしょう。

勝負を分けた最大のものは家康と三成の「信用」の差でした。信用に物差しはありません。

信用は長い時間をかけて築かれる実績ですね。評判も信用の一つでしょうが、民主党も広告宣伝に頼り過ぎた三成型の政治姿勢が表に出すぎます。

「ドジョウが出てきてこんにちは」さて、ドングリはどう転びますかねぇ。

126、「秀忠、よう見ておけ。これが天下分け目の戦に勝ったということじゃ」
あおりを食った形になったのが豊臣家であった。それまでの直轄地は二百万石に及んだが、戦後処置後は、65万7千石を有する一大名に転落していたのである。

家康の論功行賞は大胆です。「嫌なら攻め滅ぼす」という姿勢がありありと出ていますから、細工のしようがありません。家康の家臣の伝手を頼って哀願するしか生き残りの方法はないのです。家康の重臣達と付き合いがあったかどうか、それで大きな差が出ました。敵対しながらも生き残った島津、鍋島と出陣しても参戦しなかったのに摂り潰された長宗我部の差は、戦後の営業力の差でしたね。

豊臣家に残された領地は摂津、河内、和泉の三か国だけです。今の大阪府に兵庫県の一部が加わる程度です。全国に散らばっていた直轄領は、そのほとんどが徳川の旗本衆に分配されてしまいました。

豊臣にとって、もっと大きい打撃だったのは金山、銀山などの鉱山をすべて取り上げられてしまったことです。大阪城の金蔵に蓄えた金銀にまでは踏み込んできませんでしたが、その後の産出量は、すべて徳川の収入になってしまいました。領地からの米よりも金銀の方が遥かに値打ちがありましたね。この当時はまだ、日本は世界有数の金の産出国だったですね。鉱山の収入は数百万石に相当していました。

さらに大名家の配置ですが、大坂を仮想敵国として腹心を配置しています。東には中山道、北陸道のかなめである彦根に井伊、東海道のかなめ伊賀上野に藤堂を配します。

西からのかなめ、姫路には娘婿の池田輝元をおき、加藤、黒田、福島、細川など外様は、遠隔地の太守として体よく、大阪から遠ざけました。

127、入り組んでいるのは片桐且元自身の立場も同様だった。関が原の戦いの折は、
秀頼のもとにいた且元だったが、家康の信任篤く、その命によって、豊臣家の家老の職に就くことになったのである。この日、本丸に出向いたのは、淀と秀頼に就任の挨拶を述べるためであった。

片桐且元(通称・助作)と家康の接点がいつ頃からかは確たる記録がありませんが、多分、秀吉健在のころからだったと思われます。大阪城、伏見城で家康と秀吉はたびたび会見しますが、取次に出て、陪席していたと思われます。助作は豊臣家老衆の一員であり、どちらかといえば側用人、宮内庁的な役割をしていました。

関ヶ原の戦いでは大阪城に居ましたから西軍です。弟は大津城攻めに加わっています。

戦犯…ですが、処罰されずに家康任命の「付け家老」として徳川からも封を受けます。

豊臣からも家老職の封を受けていますから双方の家来という複雑な立場ですね。

徳川家出向社員監査役、兼豊臣家専務取締役…変な立場です。マジメなだけに胃が痛んだでしょうね。この立場を14年間やるのですから、大坂落城後に血を吐いて死ぬはずです。

淀君とは小谷城の浅井以来の付き合いですから信頼されてはいましたが、三成に引きたてられた大野冶長からみたら「裏切り者」だったでしょうね。

128、淀は、持てる愛情の全てを注ぎ、育て慈しんできた息子の顔をじっと見つめた。
秀頼は8歳。片や家康は来年、還暦を迎えるはずだ。青年へ成長していくものと、
老い衰えるしかないもの。これからは時の戦いになると淀は思った。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、鳴かせて見せようホトトギス、鳴くまで待とうホトトギス…信長、秀吉、家康の政治スタイルをあらわした句としてあまりにも有名なものではありますが、この句に出てくる家康は「秀吉が死ぬまで」のことであって、関ヶ原以降晩年までは苛烈な攻め、創意工夫、人たらしなど信長と秀吉から学んだ手法を駆使して、徳川幕府作りにいそしみます。「なくまで待とう」などと呑気なことはしていません。

ここに引用した文章が示す通り、家康は還暦を迎えるジジイなのです。狸親父、狸爺そのもので、人を化かし、徳川政権の安定のために焦りに焦って敵対する者を潰していきます。

淀君、茶々が時を味方につけようと考えたのは正しい戦略だったのですが、一つ、大事なことを忘れていました。「ヒト」です。

家康が死ぬのを待っているのは淀、秀頼だけではありません。豊臣恩顧と言われる面々も同様に待っていました。豊臣恩顧の加藤清正(熊本)、福島正則(広島)、加藤嘉明(松山)、小早川秀秋(岡山)…この4人で200万石以上あります。さらに、前田利長(金沢)、伊達正宗(仙台)などの外様大名も虎視眈々と家康の死ぬのを待っているのです。

その彼らの期待を…、つなぎとめる工夫を、すっかり失念していました。むしろ、三成を殺した仇の様に思いこんでいましたね。浅はかです。政治家ではありません。