流れるままに(第47回)

家康の政治方針は、側近の本多正純を通じて、その父である本多正信に指令されます。

秀忠自身が何かをしようと企画しても、駿府の大御所・家康の許可がなかったら、正信の反対にあって前に進みません。とはいえ、日常の政務は秀忠が土井利勝のアドバイスを受けながら執り行っていますから、周りから見たらこのカラクリはわかりません。将軍秀忠自らが政治をしているように見えます。

ただ、秀忠が独自色を打ち出そうとすると、その情報は本多父子のルートから、そして、柳生但馬守率いる隠密ルートで、その日のうちに駿府に伝わり、家康の意に染まなかったら、修正撤回が求められます。完全な傀儡政権、黒幕政治でしたね。これは何も徳川幕府が編み出した政治方式ではなく、平安末期の院政以来の日本的政治の伝統です。その伝統にのっとり、自民党政権では土建屋のオッサンが黒幕をやり、現在の民主党政権では刑事被告人が黒幕をやります。伝統は生き残っているんですよね。

ただ、正信の死後は江戸政府の独自性が発揮されだします。土井、酒井など秀忠側近の動きが目立つようになりました。家康離れが進行しつつあります。

家康も、76歳です。現代で言えば100歳近い高齢になってきました。自ら薬草を育て、調合した薬を飲み続けても、寿命には勝てません。家康が薬研で引いていたのはチンピ、甘草などの、いわゆるサプリメントが多かったようで、薬と言うよりは保健剤だったようです。死因には色々の説がありますが、最初に発症したのは、やはりテンプラの食いすぎでした。美食家の家康でしたが、当時は煮物、焼物がほとんどでしたから、揚げ物に胃袋がビックリしてしまったのでしょう。食いすぎは身体によくありません。あなたのメタボも、明らかに食いすぎの症状ですよ。

153、家康が激しい腹痛を起こし、病床に付したのは元和二年(1616)正月末。
京で人気の、油で揚げた鯛を食べ過ぎたからだという。夫婦ともども見舞いに出向いたものの、病状は軽く、秀忠は安堵して江戸へ引き上げていた。

欧米の「フライ」が長崎に入ってきて、ようやく日本も食品を油で揚げるという食生活のレパートリーが出来ました。テンプラを天麩羅とも書きます。麩とは小麦粉のことですし、揚げるを「天」と表現する辺り、この時代の人たちの頓智、ユーモアセンスには感心しますね。現代は、外国語をそのまま使うのが流行ですが、カタカナばっかりの日本語も寂しく感じます。最近パソコンを始めた妻に、操作を教える上で、カタカナに慣れさせるのが一苦労です。高齢者がパソコンにつまずく7割の原因が言語障害、カタカナの意味が覚えられないのです。マウス、クリック、ドラック…これを覚えるだけで、かなりの時間を費やします。慣れた者や子供たちには当たり前ですが、動矢、一押し、引影…などとしたところで、分からないものはわからないでしょうね(笑)

テンプラのついでですが、「外見だけ立派でも、中身がないもの」のことをテンプラ○○と表現します。世の中テンプラ政治家や、テンプラ評論家ばかり。かくいう文聞亭も、さしずめテンプラ作家の一人です。

家康の死因は癌である…と言う人がいます。山岡荘八の「徳川家康」を熟読した結果、テンプラ以前の症状などから分析したのだそうですが、家康と言う人は相当なイライラ症だったようですから、それも当たっているかもしれません。思い通りに行かないと爪を噛む癖があったようですから、ストレスを貯めて癌になりやすい性質ではありました。

江が見舞いに行った?? これは新説ですねぇ。「ありえない」とは言い切れませんが、将軍夫妻が同時に江戸を離れるということは考えにくいことです。

154、血の通った人間らしい人間、……それは誰よりも、家康自身のことかもしれない。
卑劣でずるがしこく、大胆な立ち回りを演じ、その一方で泰平の世という遠大な到達点を描いている。そんなさまざまな矛盾を溶かし込んだのが、人間らしい心というものではないのか。そんな気がしたのだ。
厭離(えんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)…これが戦いに臨むときの家康の旗印でした。武田信玄の「風林火山」上杉謙信の「毘」に相当する戦闘方針のようなものです。これは仏教、特に浄土宗の言葉です。厭離穢土とは欲望で汚れた醜い世を厭い、離れることをいいます。欣求浄土とは極楽浄土に往生しようと願い求めることですから、取りようによれば「我欲にまみれた戦国文化」から「平和と安定を求める」という思想にもなります。その一方で、徳川家の一党支配を永遠に探求しようと、謀略の限りを尽くしてきたのが家康ですから、一概に賛美するわけにも行きません。

民主党政権のマニフェストにしてもそうですが、スローガンと言うものは表面が美しければ美しいだけ、裏面は暗く、汚いのです。「光が強ければ、その分だけ影は濃くなる」のは当たり前の話ですね。欲の強い人ほど、成功を勝ち得ますが、その分だけ悪いこともします。政界で話題の刑事被告人氏にしても例外ではありません。

信長、秀吉、家康…この物語に登場する歴史に名を残した人々は、その全員が紛れもなく強欲な人たちです。その人たちを「人間らしい」と評価してよいものか? 作者の田淵さんの結論には賛同しかねます。ただ、アメリカ文化を中心とするグローバル経済の流れは、こういう強欲人間をスーパヒーローとしている傾向がありますね。

155、人生は重き荷を背負うて遠き道を行くが如し。荷がなくなると軽いものじゃの

有名な家康の遺訓を、病床での江との会話の中に登場させました。家康の背負った荷は、何だったのか。「徳川家による全国支配」だったのですが、それによって戦国の混乱が収まったのは事実です。家康の死後250年の平和と安定がもたらされましたが、平和と安定は停滞と退廃をももたらします。関が原の時代に、日本の科学技術は世界一流の水準に達していたのですが、明治維新の時には、欧米の列強に比べて足元にも及ばない水準に低下しました。これは、徳川家三代目の家光の時代に施行した鎖国令によるものですが、外部からの刺激に封印をすると、技術開発が停滞するという、典型的な例です。

昨今、TPP参加を巡って政治家が大騒ぎをしていますが、鎖国、開国の議論にも似ていますね。特に農漁業分野は、既得権益を保護するのか、それとも改革するかの議論です。

戦後の農地解放によって、一気に小規模化してしまった農業は、戦後60年を経て構造改革すべき時期に来ています。減反政策を続けながら、その一方で食糧安保などという保護政策が限界なのは、子供でも分かる矛盾です。極論すれば「農家の票が欲しい」というだけの政争で、構造改革を遅らせているのです。カリフォルニア米を選ぶか、高くとも魚沼産コシヒカリを選ぶか、それは我々消費者の選択です。世界一食料の高い国などというのは、決して自慢できるものではありません。

脱線しました(笑)重き荷を背負うて遠き道を行くが如しですが、あなたはどんな荷物を背負っていますか。若いときは重たい荷物を背負い、年老いたら荷を軽くする…これが普通の生き方です。若いときから「荷を軽くしたい」などとは怠け者の発想ですよねぇ。

信長なら、「働かぬなら殺してしまえキリギリス」でしたが、秀吉は「働かぬなら働かせてみせようキリギリス」でした。そして家康は「働かぬなら働くまで待とうキリギリス」なのですが、現代の風潮は「働かぬなら食わせてやろうキリギリス」という福祉社会ですね。

進歩したのか、退歩したのか…荷を背負いたくない人が増えました。

156、「驚かせてはいかぬゆえこれだけは話しておく。……和子の縁組のことじゃ」
家康が駿府に移った年に生まれた五女の和子は、今年で10歳になる。江はさすがにげんなりした。末の娘の嫁ぎ先まで家康に決められてしまうのか、と。

家康の支配欲は、ついに天皇家にまで及びます。これは平清盛以来のことで、徳川独裁の最終ゴールでした。NHKは来年の大河ドラマに「清盛」を選びましたが、何か意図があるのか?……と、勘ぐりたくなります。

それはさておき、家康が腐心していたのは朝廷と公家たちの権威の剥奪でした。自分の血統を天皇家に入れることよりも、朝廷に自分の腹心を送り込み、情報操作をしながら、朝廷権威、権限の剥奪をすることのほうが主目的だったように思います。禁中法度を制定していますが、監査役ないし警察官を送り込まないと、法律の遵守状況を把握できません。

和子よりも、それに付随する者たちの人選には、相当神経を使ったと思います。徳川家に忠実で、しかも情報操作に秀でた隠密…当時一流の女性たちが選ばれて京都御所に乗り込んでいったのでしょう。事実、彼女らは相当な圧力をかけたようで、和子の夫である後水尾天皇は、何度も何度も「退位」という切り札を使って、ストライキを敢行しています。

秀忠も、家光もこれには随分と手こずらされました。