海人の夢 第26回 二十日天下

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

永田町がやかましくなってきました。「政権交代」を旗印に政権を奪ったものの、その後の、国家経営のグランド・デザインが描けないと、国政は迷走します。

民主党政権になって、現在は3代目の野田さんが総理を勤めていますが、初代の鳩さんは、ニックネームどおりの宇宙人で、マニフェストという名の「絵に描いた餅」に浮かれ、やること、なすこと、四分五裂に空中分解で墜落しました。

2代目の菅蛙さんは、場当たり的にはしゃぎまわり、震災、原発で野垂れ死にしました。

そして3代目の、野田ドジョウになって、ようやくまともな方向を目指していますが、党内の蝦蟇親父の抵抗に遭って、これまた四苦八苦です。自由で開かれた政党……とは、結構なことかもしれませんが、内部不統一では、政策実行が出来ません。

それに引き換え、清盛は「まず、足元を固める」ことに精力を注ぎます。不満分子の叔父・忠正を斬り、平家の求心力を一つにまとめ、一糸乱れぬ結束力を保つことに注力します。熊野詣も、その一環として、重盛に後継者としての覚悟を決めさせる機会だったのでしょう。清盛が政治のパートナ、連立相手に選んだ信西が、独裁という表現に当たるかどうかは別として、吉川英治は信西を独裁者と位置づけています。

独裁者が乱を呼ぶのか、乱が独裁者を作るのか、とにかく保元以前にはなかった型の覇権的人物が、一夜にして出来た地殻異変の山のように、忽然と、政権に立って、この荒療治をしだしたのである。

現代は「独裁者」とは、「悪党」と同義語で使われます。ごく最近では、大阪の橋本市長がマスコミから「独裁者、独裁的」と評されていますが、あの程度で独裁と呼ばれたら、世の社長さん方、経営者は、全員独裁者になりますねぇ。複雑な問題は一刀両断に答えを出して、「まず、やってみる」のが正解なのです。

29、計略は4日の晩から続いて、いよいよ9日の夜、実行に移された。
真夜中、信頼は義朝を大将として五百余騎、後白河上皇の御所、三条殿に向かった。

反乱が実行に移されました。「まず、玉(ぎょく)を抑える」という点で、定石どおりです。

後白河法皇は「問答無用」で拉致され、内裏の中の一角に監禁されます。

同時に、信西の館にも別働隊が繰り出して、信西を討ち取ろうとしますが、信西は既に逃げた後で、不在でした。が、屋敷内に潜んでいることを想定して、焼き討ちします。逃げ出すものは男女にかかわらず、皆殺しにします。これは、信西が女装して脱出するのを防ぐためでしたが、戦争のもっとも悲惨なところですね。中東では、シリアをはじめ、至る所で市民の虐殺が行われていますが、理屈は同じことです。「市民に紛れて逃走する敵を、確実に討ち取るため」です。

更に、この別働隊は平氏の本拠地、六波羅を襲います。清盛が不在なのは承知していますが、時子や、息子など一族を拉致して、人質にしようという思惑でした。

…が、情報力に優れた平氏は、事前に逃げ出しています。六波羅はもぬけの殻です。

建物に放火して、気勢を上げただけに終わりました。

30、続いて信頼は軍勢を率い、内裏へ押し入って、天皇を黒戸の御所に幽閉した。
その翌朝、信頼は内裏へ入って、勅命であると称し、勝手に除目を行った。
昨夜の勲功で、義朝は播磨守に任ぜられた。

ここまでは信頼の描いたストーリ通りにことが運びました。早速組閣を行い、信頼政権誕生を宣言します。清盛の官位を剥奪し、それをそのまま義朝に与える辺りが、報復人事ですねぇ。これでは平家を敵に回します。平家に妥協の余地がありません。

そればかりか、信頼は天皇の寝所に入り、女たちを次々に犯すという暴挙もしています。

自分が天皇になったような、そんな錯覚に囚われたのでしょうか。興奮しすぎて、精神異常を引き起こした感があります。酒池肉林に遊ぶ…という状況ですから、義朝など、源氏から伝えられる情報にも上の空だったようです。

こういう相手と組んでしまった義朝が哀れですが、その道を選んだのは自分ですから、いまさら取り返しがつかなくなりました。毒を食らはば皿まで…の心境だったでしょう。

信頼方についた多くの公卿たちも、義朝と似た心境だったでしょうね。昇進し、より実入りの良い領地を与えられたのは嬉しいのですが、この政権が続いたらどうなるのか、全く読めません。万一、清盛が生き残って逆襲してきたら、自分の身を危険にさらすことになります。信頼の示す命令にも、腰が引けていたでしょうね。

鳩ポッポが総理大臣になってからの、民主党国会議員の心境が、これに良く似ていたのではないでしょうか。「普天間基地を県外に移設する」という発言に、一番ビックリしたのは、岡田外相と北沢防衛相だったかも…。「そんな馬鹿な…」と、言うに、言えない立場。それが義朝ほか、信頼方公卿の心境だったと思います。

31、兵乱の起こったとき、いったん院の御所に隠れた信西は、家来たちの手を借りて、南都(奈良)を志して逃れた。
今度の兵乱も、保元のときと同様、すぐに片がつく、と信西は考えていたらしい。

信西の行動は適切でした。見つかったら殺られます。逃げるしかありません。

どこへ逃げるか? 東海道、東山道の道筋は源氏贔屓が多いですから危険です。平家の根拠地、山陽道に逃げるのが安全なのですが、そのためには京の町や摂津を抜けなくてはならず、危険です。まずは東の信楽に抜けて、自分の所領である田原に逃れ、様子を見ようと考えました。平氏の動き次第では、情勢がどう転ぶかわかりません。

平氏が苦戦するようなら、伊勢や、奈良に逃げる選択が出来ます。どちらのルートでも、海に出てしまえば西国への逃走路が開けてきます。西国に高飛びしてしまえば、平氏や、海賊たちが、命だけは保証してくれると考えたのでしょう。

京からの脱出には成功しました。が、信楽峠で追跡団に追いつかれます。

最後の手段、と、穴を掘り、その中に身を隠しますが、その作業を目撃していた、樵(きこり)に通報されて、一巻の終わりでした。

平家物語は、鎌倉時代、源氏の世になって書かれていますから、時の権力者に睨まれないように、信西や平家を悪く書く傾向が出ますが、信西の改革は、この時期の国家の財政再建では大きな功績を残しました。有名無実になっていた耕作地の国有化(公民公田、荘園制)をやめて、土地の個人所有を認めたのです。このことで税収が大幅に増えました。

さらに、不在地主の公卿の収益が減り、勢力を弱めることにもなりましたから、地主になった武士の勢力が拡大したのです。信西のやったことは、一種の、民営化促進でした。

そうなると、信頼と義朝のやったクーデターは、何を目指していたのでしょうか。

官による中央集権でしょうか。もしかすると、現在の北朝鮮のような軍事政権でしょうか。

この乱に、13歳の頼朝が初陣していますが、後の鎌倉幕府のような政権構想が、義朝との間で語られていたのでしょうか。義朝が、目指す姿が全くなしに、言われるままに軍を動かしていたとは思えないのです。そんな馬鹿ではなかったはずです。

32、重盛と悪源太は、互いに馬上で太刀を抜き、切り結びながら馬を走らせた。
追う源太も、追われる重盛も、互角の腕前で、容易に勝負は決しない。
敵も味方も、源平双方の御曹司の目覚しい一騎討ちに、いずれも得物の手を止め、見とれていた。

ここらあたりは、文章より、映像の世界ですねぇ。御所前の右近の橘、左近の桜の周りを、二人の若武者が颯爽と駆け違います。共に、源平の御曹司ですから、鎧兜もきらびやかで、まさに絵になります。誰だって見とれますよね。

これに先立つ清盛の都入りは、周到な準備の上で、忍びやかに行われています。西国から集まった兵を加え、源氏を圧倒する戦力で、東は宇治から、西の嵯峨から、そして一部は迂回して北から、都を包囲します。都の南は、広大な巨(お)椋(ぐら)池が広がりますから、逃げ道はありません。

まずは「玉」の奪回です。信頼のやり方に不安を持ち、内通した公卿を使って、天皇、上皇を脱出させ、六波羅に避難させます。ここを仮御所として、官軍の立場を奪います。

この政治力が、清盛の真骨頂でしょうね。義朝にはない能力でした。こうなれば、源氏が割れてきます。河内源氏の源三位頼政が寝返ります。地方から上京してきた武士団も、勅命を受けた清盛の側へ味方してきます。この時点で、既に勝負は決していました。

源太義平と平太重盛の一騎打ち、一種の儀式ですね。千秋楽、結びの一番、横綱対決というところでしょうか。割れんばかりの声援だったと思います。