乱に咲く花 13 野党外交

文聞亭笑一

先週号で井伊直弼の大老就任を書きました。明治期に薩長中心の政府が書いた維新史では「大悪人」となっていますが、幕府サイドから見れば「幕府再興への挑戦者」となります。何事にも両面性がありますが、民主主義を是とする現代から見れば身分制度の体制を維持しようとした指導者ですから、悪人になるでしょうね。

一方、国防、国家の独立と言う点からすれば、井伊直弼が通商条約を結んで「攘夷戦争」に舵を切らなかったお陰で、ヨーロッパ列強との全面対決は回避できました。ひとたび戦争となれば、当時の清国同様に力による侵略を受けて列島のあちこちに租借地ができ、場合によっては島単位での割譲を迫られた可能性もありました。

島・・・と書きましたが、本州とて島ですからね。列強の地図にはHonshu Islandと記載されています。沖縄、北海道はもとより、九州、四国ですら餌食になりかねません。そういう意味では「いったん、矛先をかわした」という効果がありました。

今回のドラマでは長州を是として描いていますから悪党・井伊直弼ですが、維新後の明治政府は怒涛の如く欧米化を進めました。評判の良くない鹿鳴館を作り「猿まね」と哂われたのは松下村塾の門弟である伊藤俊助(博文)、井上門多(馨)達です。井伊直弼が生きていたら「おい、おい、そこまでやるのかよ」とブレーキをかけたでしょうね。

こういうところが世論の怖い所で、一気に熱せられ、炎上して、一つの方向に突っ走ります。これを日本人の特徴、弱点と自虐的に言う学者もいますが、別に日本人に限ったことではありません。「アラブの春」もそうですし、中東で暴れまわるテロリストたちもそうです。

これは群れを作る人間の、いや、群れで生きる動物たちの習性で、危機感を感じるとパニックに陥りやすいのです。鯨に狙われた小魚の集団が防衛のために群れになってかたまり、かえって一網打尽に食われてしまう姿に似ています。

井伊直弼が歴史に果たした役割は

1、列強との軍事対決(攘夷)を避けたこと

2、幕府(佐幕)か、朝廷(尊皇)か、という政権の選択肢を明確にしたこと

だという学者もいます。政権選択に多くの国民が関心を持ったという点では、民主主義の草分けかもしれませんね。佐幕派も尊皇派も「この国のかたち」を明確に打ち出し、広く、国民に信を問うという最初のケースだったかもしれません。

橋本左内の構想とは、一ツ橋慶喜を将軍にし、首相格に松平春嶽(越前)、徳川斉昭(水戸)、その下の大臣格に島津斉彬(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)、鍋島閑叟(肥前)、ら有力大名を配し、更に官僚として語学や経済・外交のわかる官僚を配した、挙国一致内閣を作ると言うものであった。     (幕末史 半藤一利)

後に安政の大獄で投獄、処刑される橋本左内は越前侯・松平春嶽の政策ブレーンです。

この時期の混乱を鎮めるために、引用したような案を立案し、主だった大名家に根回しをしていました。殆どの有力者は、この案こそBestと合意していました。

が、井伊直弼はこの案の欠点を突きます。この案の欠点は「首相格に水戸斉昭がつくこと」でした。息子の慶喜は人気が高かったのですが、親父の斉昭は諸大名から嫌われ者でした。

「息子は良いが…あの親父がしゃしゃり出てきては協力できない」というのが、多くの大名たちの共通意見です。我が強く「俺が、俺が」と言う人だったようですね。子供を36人も作る人ですから精力絶倫、独裁的で、協調性の薄い人だったようです。

こういう大名たちの不安を利用して、大奥工作で精薄気味の将軍家定を利用し、一気に  紀州・慶福(よしとみ)を担いで大老職を手に入れてしまったのが井伊直弼で、就任と同時に慶福(よしとみ)(家(いえ)茂(もち))を後継者に決定してしまいます。家定は「慶喜すかぬ、慶福好き」と答えたと言います。

これを「黄門様の印籠代わり」にして、反対意見を押し切ったと言われています。

黒幕的裏工作、独断専行…こういう強引なやり方が直弼の人気がない最大の理由でしょう。

しかも、その後に秘密警察をフルに使って警察国家的政治を行います(安政の大獄)。

これには弁護の余地がありませんね。密告が横行し、「オイ、コラ」ではたまりません。

松陰は橋本案とて、大いに不満だったようです。組閣名簿に毛利敬親の名がありません。もしも、その名があったら、違った動きをしたかもしれませんが…。

まぁ、歴史に「もし」はありません。

適当な引用部分がありませんが、今回の放送では「コレラの流行」が話題になります。

劇中では「コロリ」。コレラと言う言葉を踏まえ、「罹ったら数日でコロリと死ぬ」意味。

半藤一利は「維新史」の中で、日本が清国のようにならなかった原因の一つに、コレラの流行を上げています。外国人にとってコレラの流行は怖いものの一つでした。ですから横浜に居留地を作って、日本政府に真っ先に要求したのは「上水道の整備」です。

ついでですから、半沢さんの言う当時の外国人の「日本怖い」を挙げておきます。

1、地震、台風など自然災害の多さ

2、伝染病の蔓延と、衛生環境の非常識(人糞肥料にびっくり仰天)

3、日本刀の切れ味の凄さと、暗殺事件の多さ

1、については、特に、安政大地震で開港地の下田が津波に襲われ、停泊中のロシア最大級の軍鑑が波にさらわれ、座礁転覆したのには度肝を抜かれたようです。ヨーロッパはあまり地震のない土地柄ですし、津波などは聞いたこともありません。その恐怖は日本人が感じる以上に募ったことでしょう。

2、の人糞を肥料として使う「下肥」には驚いたようです。糞、下肥が金になる…などは非常識を通り越えて、恐怖さえ引き起こしたようですね。

さらに3、の日本刀。ヨーロッパのサーベルは、フェンシングのように「突き」が武器です。刀身で斬るという機能はあまり使われません。が、日本では突きよりも斬るが主流です。

「袈裟懸けにバッサリ」などと言う場面を見て、その切傷の鮮やかさを見てびっくり仰天。その鋭利さに、鉄砲以上の怖さを感じたようです。

それに「植民地としての魅力のなさ」もあります

1、黄金の国ジパングではなくなっている…金銀の産出がなく、金の品位が落ちている

2、言語障害…日本語の難解さ、薩摩と会津では言葉が別言語に聞こえる

3、文明の高さ・・・騙しには乗りにくい民、国民全体の教育レベルの高さ

読み書き算盤を教える寺子屋が日本中の「村」にあり、小児まで字を書き、読み、計算ができるというのは、ヨーロッパでは信じられない光景です。ヨーロッパの識字率に比べて、一桁上のレベルにありました。僻地・下田の、田舎ですら、異人の計算間違いを老婆に指摘されて、うろたえたようです。

そう考えると、教育水準の高さは防衛力の一つでもあります。

さらに、列強の内部事情が重なります。この頃列強にとっては日本どころではありません。

1、クリミヤ戦争勃発・・・英仏とロシアが戦いを始めます。日本どころではない。

2、アメリカが南北戦争の内乱に入ります。

それや、これやで、「ちっぽけな島国で苦労するより中国を蚕食する方が得策」と判断し、数年間は「なりゆき任せ、情勢展望」と無理押しをしてこなかったと思われます。

列強はそういう状況にありましたが、残念なことに幕府も、水戸藩も、薩摩も、長州も、どこも海外情報はゼロでした。長崎のオランダも、長年の付き合いを反古にされてアメリカと開国交渉をする幕府に愛想を尽かしていたらしく、この種の情報を提供していません。

この時期、オランダが幕府に協力していたのは勝海舟率いる長崎海軍伝習所だけでしたね。オランダから海外事情を仕入れていた勝海舟が、後に幕府をリードしたのは情報量の差だと思います。海外事情に関して井伊政権は、全くの情報オンチでした。

攘夷運動というのは、夷(外国人)を攘(討ち払う)ことだが、現実的に外国船を攻撃して、戦争して勝つことなどできるわけがなかった。が、「政治運動」になったとたん「日本は外国と戦う国力があるか」ということは二の次になる。
いわゆる野党外交的態度が「勢い」になり「運動」になる。
政権を担っていないからこそ理想論が言えるし、あるいは過激なことが言える。幕末に、外国人を襲ったテロリストは外様大名の家臣か浪人たち、つまりは野党の仕業であった。 (幕末大名 失敗の研究  滝沢 中)

こういう記述を読むと、民主党政権の四年間を思い出してしまいます。そして現在の国会審議を眺めます。さらに、春闘などでの労働組合の主張を思い浮かべます。そしてまた…、何もわからず安保反対と騒いだころの青春時代を思い浮かべます。

日本のマスコミは「野党であること」を使命として活躍されているようですが、時に行きすぎて本物の野党以上に過激な理想論を展開します。野党である間は「お気楽ムード」で言いたい放題ですが、政権を担ったとたんに現実に引き戻されます。現実に戻ることなく、理想論の言いたい放題を続けた鳩ポッポがいました。性懲りもなく、中国やロシアの手玉に乗って、いまだに「元首相」が、日本の恥さらしを続けます。

運動家のアホ菅がその後を引き継ぎましたが、地震・津波で能力のなさを露呈しました。その後を引き継いだ泥鰌総理・野田さんは実に気の毒でした。先輩二人の尻拭いで、やるべきことの一割もできませんでした。更に、軽石(輿石)に担がれた泣き虫党首の後をスーパの御曹司が引き継ぎました。この人も…野党体質に足を引っ張られているようです。

沖縄を火種に、もうひと騒動、ひと運動を起しますかねぇ。理想と現実の選択です。