次郎坊伝09 惨劇・桶狭間

文聞亭笑一

ここまでの展開では、戦争場面もなく、今川の圧政に苦しむ地方豪族の戦国ホームドラマといった感じのストーリでしたが、ようやく戦国時代らしい場面が出てきます。数ある戦国物語の中でも特筆される桶狭間の戦の場面です。この戦がとりわけ名高いのは、革命的武将・織田信長の全国区へのデビュー戦であり、戦国終焉に向けての歴史的転換にも当たる戦いだからでしょう。

更には、日本的軍略として、明治以降の日本軍の教科書的・戦術論になったことにもよります。

日本人が好む(?)戦争場面を、敢えて三つ挙げるとすれば、一つは源平合戦における源義経の鵯(ひよどり)越(ごえ)の坂落としです。油断している平家を奇襲により全滅させました。

二つ目がこの桶狭間の戦で、これまた奇襲による今川軍の大崩壊です。

そして三つめが・・・トラトラトラ、日本海軍による真珠湾奇襲です。

いずれも完璧な勝利です。これほど気分爽快な勝ち方はありません。コールドゲームですね。

共通項は、どのケースも奇襲作戦の成功事例です。「小を以て大を討つ」にはこれしかありません。

孫子でいう「兵は詭道なり」の典型的事例でもあります。また、戦国の世を終わらせた信長、秀吉、家康にとってもデビュー戦ともいえるもので、彼らが自己PRをするための格好の材料でもありました。

秀吉が太田牛一に編纂させた「信長公記」、大村幽古に編纂させた「太閤記」の何れでも、大々的に取り上げています。とりわけ家康にとっては「独立戦争」の意味がありますから、扱いは大きくなります。

「もし、桶狭間でのことがなかったら…」などと歴史のIFを考えれば、後の徳川家は存在しなかったことでしょう。今川の被官として田舎大名程度が相応でした。したがって徳川政権の260年間、事あるごとに宣伝したでしょうし、歴史教育、軍事教育の中核をなしていたと思われます。

桶(おけ)狭間(はざま)

地形的なことから見てみます。何となく、三河と尾張の国境・・・といった印象をお持ちの方が多いと思いますが、矢作川を越えてかなり尾張領に入った位置です。信長の居城であった清州からさして離れていません。敵・信長の籠る城は、既に指呼の間にあります。

挟間とは…「隙間」といった意味で、狭い谷あいの道、隘路を指します。読み方も「はざま」「さま」と双方ありますが、東日本では「はざま」と読むケースが多く、西日本では「さま」の方が多いようですね。お城の壁にある銃眼なども狭間です。狭い窓の意味で、姫路城では鉄砲(てっぽう)狭間(ざま)などと「さま」と説明していましたが、松本城では「矢(や)狭間(はざま)」などと「はざま」でした。

桶狭間を抜ければ、広大で平坦な濃尾平野の平原が広がります。その一歩手前ですね。なぜこんなところに陣を張って、昼食などを摂ったのか…戦国史の七不思議の一つです。当時の戦国武将の基本教養として「孫子の兵法」は常識の一つでした。「風林火山」の旗印が名高い、武田信玄だけが愛用していたわけではありません。今川義元も、当然のことながら読破していたはずです。名軍師と謳われた義元の指導者、雪斎禅師が「孫子」を教えないはずはなく、人質の家康ですら雪斎から孫子の薫陶を受けています。

その義元がなぜ…孫子が「決して留まってはならぬ」と教える囲地(いち)にとどまり、酒まで口にしていたのか…。囲地とは周りを山や障害物に囲まれた地域のことです。小盆地、谷間の道などを指します。

孫子の軍爭篇

余談になりますが、孫子の兵法に触れておきます。

孫子と言えば「戦争の教科書」と誤解している人が多いのですが、「戦争をするな」から始まり、「どうしても戦争をせざるをなくなったら、このように戦え」と記した文書です。13篇のうち、冒頭の3篇は戦わずして勝つ方法を教えています。次の3篇も戦争準備で戦い方には触れていません。その後に来るのが軍爭篇で、ここからが「戦争の仕方」になります。有名な「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵略すること火の如く 動かざること山の如し」というのは、この軍爭篇の中の言葉です。

さらに、軍爭篇には「兵は詭道なり」「兵は詐を以て立つ」「迂を以て直となす」などの言葉があります。さらに、「鋭気を避けて 惰気を討つ」ともあります。

これまでの戦国物語は、勝者となった織田方の秀吉が書かせた「信長公記」「太閤記」がベースですから、孫子の兵法の通り、油断していた今川の大軍を奇襲して大勝利を収めた…と,勝者の論理で書かれています。信長は「孫子の兵法」の通りに作戦し、機動力を駆使し、僅か2千の兵で4万の大軍に勝ったと、大宣伝しています。そうだったのでしょうか? そうだとすれば、今川義元は大ばか者です。

義元の計算

へそ曲がりに…(笑)・・・義元の立場で情勢を見てみます。

5月、前線に陣ぶれします。井伊直盛など、遠州や三河の豪族たちには先鋒(前線配備)を命じます。

直盛が出陣したのが5月11日ですから、陣振れを出したのは5月5日の端午の節句辺りでしょう。

そういう縁起にこだわるのも、公家風の形式を重んじる義元らしい所です。

最先鋒に任じられたのは、最前線に領地を持つ松平勢、即ち家康の部隊です。家康はじめ人質となっていた石川数正、鳥居元忠、平沼親吉などが少人数で岡崎に戻り、旧臣たちを集めて味方の大高城への兵糧入れを命じられます。大高城は尾張に突出した今川方の最前線基地ですが、信長により丸根、鷲頭の砦で封鎖され、孤立状態、兵糧攻めを受けていました。兵糧入れ・・・物資搬入だけなら簡単ですが、大高に米を入れるということは丸根、鷲頭の両砦を落す、または封印するということを意味します。膨大な犠牲が予想される消耗戦のような役割で、後の日露戦争・203高地のような戦いになります。「松平が恭順するのなら、その証を見せよ」という過酷な任務です。

義元にしてみれば「織田勢と松平勢が共倒れになっても構わぬ。むしろ、その方が後々の占領政策に好都合」といった計算があったであろうと思われます。こういう冷たさは井伊家をはじめ、遠江勢に対しても同様だったと思われます。義元の直属の配下だけで領地管理をする・・・と云うのが今川の基本です。

義元が桶狭間の谷間を通過するころ、思いがけず丸根、鷲頭の両砦とも、松平勢をはじめとする三河勢の頑張りで、早々に陥落します。前線からは次々と勝利を伝える使者が駆けつけ、兵も歓喜に沸き立ちます。さらに、討ち取った敵将の首が届けられました。

「決して立ち止まってはいけない」と言われる囲地・桶狭間で、なぜ義元は首実験などをし、昼飯などを摂ることにしたのか。また、タイミングよく村人たちが祝いの酒などを持ち込んだのか。

一つは義元自身の疲れでしょうね。5月11日駿府を出てから7日目、肥満体で運動不足の体には疲れが溜まる頃です。馬には乗れぬほどの肥満で、輿での移動だったようですから峠越えなどはバランスをとるのが大変だったのでしょう。とりわけ腰に負担が掛かっていたと思われます。休憩・・・の誘惑に勝てなかったのだと思います。

二つ目は参謀や、情報将校の怠慢です。信長は前夜の内に清州城から単騎出撃し、それを追った兵士たちが熱田神宮に勢ぞろいしています。その情報を義元に伝えていなかったのではないでしょうか。また、伝えたにしても「信長は城を捨てて伊勢方面に逃げ出した模様」などと伝えていた可能性が高いですね。

上も下も・・・勝った、勝った、の思い込み「勝ったつもり」が負けを呼びました。

信長の戦略

今川軍が駿府を発し、尾張に攻め込んでくる…という観測は、合戦の半年前から流れていました。信長が正面から攻撃して勝てる相手ではありません。選択肢は降参・恭順か、逃げるしかありません。逃げるとすれば美濃の斎藤道三の元ですが、受け入れてくれる保証はありません。もう一つは僅かな可能性に賭けての玉砕的奇襲作戦です。

この間の清州城での会議などは、色々な小説や映画で面白く伝えられます。が、信長の腹は数年前から決まっていたのではないかと思われます。「奇襲しかない。目的は義元の首一つ」と策を練っていたものと思われます。信長が孫子など勉強した形跡はありませんが、行動は孫子の教科書通りですねぇ。

会議では奇襲攻撃の「奇」もオクビに出しません。ただ、それらしきサインは「敦盛」を舞ったことです。

敦盛・・・一の谷・鵯越の戦で、義経軍の熊谷直実に首を取られた平家の若武者です。「あれをやるぞ」という意志表示だったかもしれませんが、部下の中の恭順派が今川に通報するのを警戒して口に出しません。

単騎で出撃したのは「逃げた」と思わせる策でしょう。桶狭間へ…と告げたのは熱田神宮でのことです。ここで作戦目標を明示します。更に桶狭間に向けては馬で駆けます。足手まといになる歩兵部隊は捨てて、騎馬軍団だけでの奇襲を想定していましたね。秀吉などの歩兵は全力疾走で追いかけます。やる気のないものはついていけません。信長は少数精鋭だけでの奇襲攻撃を企画していたようです。

桶狭間の惨劇

人間は一度緩んだ気持ちを立て直して正常に戻るまでに数分かかります。更に、敵襲と知って戦闘態勢に入るのに数分かかります。その間に信長の騎馬部隊が義元の本陣で暴れまわります。騎兵と歩兵の戦力差ですが、騎兵1に対して歩兵10くらいの差があります。100騎くらいが乱入しただけで、千人に襲われたくらいの衝撃です。ましてや、今川の将兵は武器を手にしていません。食事中なのです。

やりたい放題、し放題・・・2,3人のテロ集団が数百人を殺傷する事件が続きますが、まさにあの状況でしょうね。大混乱に陥ります。義元は首を取られてしまいますし、「義元を討ち取った」の大音声が響けば、今川の兵は逃げ腰になります。守るべき主将がいませんから、御身大切に走ります。

井伊直盛はなぜ死んだ

この時、井伊直盛の軍勢は今川本陣より1kmほど前方、尾張寄りにいました。信長本隊に攻め込まれたわけではありません。が、信長に遅れてついてきた遅刻組(?)に襲われます。これも作戦に入っていたのかどうか不明ですが、信長は義元の首を獲ったら早急に現場を抜け出して逃げなくてはなりません。義元の本陣は長く伸びた今川方の中間ですし、囲地でもあります。こんなところにぐずぐず長居していたら、前後から挟み撃ちを食って、全滅してしまいます。

退路は、当然のことながら尾張に向けて、今川の先鋒部隊を蹴散らして敵中突破するしかありません。

井伊の軍勢は、拙いことに…そこにいました。歩兵部隊の奇襲を受けて大混乱している所に、後ろから 信長を先頭にした織田の騎兵隊が猛然と攻撃してきます。馬の蹄にかけられ、突かれ、斬られ、散々に蹂躙されます。防ぎようもありません。 犠牲者は名のある武士階級だけで16人ですが、その郎党や、狩り出された百姓を含めると井伊兵の百人前後が戦死したものと思われます。物の本では犠牲者二百人となっていますが、死者百人、重傷者も百人といったところでしょうね。これだけの犠牲者を出して、大将がおめおめとは帰れぬ…これが直盛を切腹させてしまった動機でしょうか。それとも、敵に首を取られるくらいなら、首だけでも郷里に帰りたいという思いでしょうか。

単なるパニックで死を選んだとは思えませんが、戦争の現場を知らない者にはわかりません。