19 仮住まい(2020年5月20日)

文聞亭笑一

先週は越前に逃げ込んで、与えられたあばら家に落ち着いた・・・というところで終わりました。

「逃避ルートは国道158かも…?」と書いたら、友人から

「それは松本から高山に抜ける安房峠越えの道だ」と連絡がありました。

地図を開いてみるとその通りで、上高地に行く道ではありませんか。高山からさらに長良川の上流を下り、白山を越えて、更に九頭竜川に沿って福井にまで達する山岳道路でした。高山までは何度か走りましたが、福井方面は全く未知の世界です。

越前・一乗谷

浅井家の本拠地・一乗谷は、戦国時代には「小京都」と呼ばれ、戦乱で荒廃した本家の京の町を凌ぐほどに都会であったと言われます。

京から比較的近いこともあって、多くの文化人が疎開してきていたようですね。政治的にも朝倉五代、100年に渡る繁栄と安定があって、戦国らしくない・・・平和な都会だったようです。

都会と書きましたが、都会と言うには一乗谷は狭すぎます。九頭竜川の支流の足羽川が北の、福井平野に向かって流れ出る谷合です。軍事基地、軍事要塞としては東西と南が高い山に囲まれて、入り口は北側一つですから実に守りやすく、そこには何段もの土塁が用意されていたようです。周りの山々にも出城が築かれていますからから、大要塞ですね。城郭の中には高級家臣の館が広がり、その先に下級武士や町人たちの住む城下町ができていたようです。

後に、信長によって朝倉家が消滅して以降、政治の中心は北の庄(福井城)に移りました。

その為に一乗谷は放置されました。ゴーストタウンと化して400年間、土に埋もれてしまいました。近年、発掘調査が行われ、国宝級の遺構や、埋蔵物の数々が発見されているようです。その為、「日本のポンペイ」などとも呼ばれます。

そう言えば先週、伊呂波大夫が「京の姫君に会う」と言っていましたね。

この姫は「ひ文字姫」と呼ばれた朝倉義景の正妻です。

関白・近衛主家の娘で絶世の美女であったと言われます。物の本には「容色無双にして 妖桃の春の園に綻びる装い深め、垂柳の風を含める…云々」などと表現します。最大級の褒め言葉でしょう。ただこの本・朝倉始末記は義景を悪く書いていますね(笑)

「昼夜宴をなし、酒池肉林におぼれ、・・・秦の始皇、唐の玄宗の驕り…」とまで書きます(笑)

明智家の住い

先週の物語では、城下の中の、埃まみれの廃屋を与えられてそこに住まう・・・と言う感じで描かれていました。しかし、光秀が足掛け12年過ごしたとされる越前での住所は、一乗谷ばかりではなさそうです。

最後の二年間ほど、足利義昭や細川藤孝が逃げ込んできてからは一乗谷か、福井市東大味町の西蓮寺近くに住み、同市足羽の安養寺を仮御所にしていた足利義昭に仕えます。

この場所には、土地の百姓たちが光秀に感謝して「明智神社」を建て、現代まで守ってきたと言いますから、かなり確かのようです。朝倉家の滅亡時の一乗谷戦闘、越前北の庄の落城の際に、明智光秀の口利きで戦火から免れたことへの感謝だと云い伝えられます。ご神体は光秀の木像です。

さらに、足利義昭が逃げ込んでくる以前は、朝倉家の鉄砲指南役として召し抱えられていたとも言いますから一乗谷の郊外に住んだのかもしれません。

その前は・・・?? 越前・丸岡で浪人生活を送ったという資料があります。現在の福井県坂井市丸岡の「称念寺の門前で2年間暮らした」といいます。そして、その時に、妻の煕子が連歌会の費用を賄うために髪の毛を売ったというエピソードが生まれたのでしょう。

松尾芭蕉の 月さびや 明智が妻の 咄せむ ・・・の句碑は、丸岡に建っています。

脱線しますが、越前・丸岡と言えば「日本一短い手紙」で有名な町です。

今でも毎年「日本一短い手紙コンクール」があるようですね。

発祥は、江戸幕府になってから越前丸岡城 4万石の大名になった鬼作左・・・本多作左衛門の

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

が起源です。

言わんとすることは…

火の用心・・・領民たちが一揆など起さぬように、住民第一の善政を敷け

お仙泣かすな・・・家臣たちが仲たがいをすると我が子(仙千代)が苦労する、仲良くせよ

馬肥やせ・・・常在戦場、いつ動員が掛かっても馳せ参じられるよう、兵の訓練を怠るな

光秀の居住地は、ともかく、推測するしかありませんが

最初の数年   浪人 一乗谷の、城下の場末

次の2年ほど  浪人 丸岡 称念寺の門前町 寺子屋のようなことをしていた??

その次     朝倉家臣 鉄砲指南として一乗谷に出仕 福井市・西蓮寺付近か?

最後の2年   朝倉家臣 兼 足利義昭の家臣として福井市 福井市・西蓮寺付近

京の情勢

話が2年ほど飛ぶようです。朝倉義景から「京の情勢を探れ」と指示されます。

・・・ということは、二年後には朝倉家に仕官していたということでしょうか。

また、京の情勢を知るのなら、京から「ひ文字姫」に従ってきた取巻きがいますから、彼らにやらせればよいのですが・・・、もしかするとこの二年の間に「子ができぬ」という理由で姫を離縁しているかもしれません。姫を離縁して、側室に子を産ませているのは事実です。そうだとすれば、京の事情には疎くなります。そこで、将軍側近の細川藤孝と縁のある光秀を使うという選択肢が出てきます。

この2年間に京を支配する三好長慶と将軍・義輝の和解が成立し、義輝は都に戻ります。

戻っても、京を実効支配しているのは三好長慶であり、その代官である松永久秀であることに代わりはありません。将軍にしては後ろ盾になる実力者が欲しい所です。そこで全国の有力大名に声を掛けます。上杉謙信が単身上洛したのもこの頃ですし、信長も上洛します。そして、今川義元は、大軍団を引き連れての上洛を計画していたのでしょう。

朝倉にも「上洛して我を支えよ」という教書が届いていたのでしょう。

それが「京の情勢を探れ」という光秀への指示になったと思われます。

コロナで撮影ができず、放映中断の噂もあります。どうなりますやら?