流れるままに(第41回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

この辺りから、物語の時の流れが速くなります。

速さという点では、ニュートリノが光速を抜いたと、科学の世界では大騒ぎになっていますね。光速を上回る物質の存在があれば、タイムマシンができるとか。そうなれば歴史の嘘は次々に暴かれるでしょうね。それが良いことか悪いことか…。歴史的事実も使い方次第です。火薬、原子力がその典型例でしょうか。使い方を間違えれば戦争や大惨事です。地球温暖化防止への切り札と目されていた原子力発電が、今や世界中の 嫌われ者になりつつあります。が、代わりのエネルギーは今すぐには得られないのですから、冷静に対処すべきでしょう。地球の人口が70億人にもなって、食糧、エネルギーの需要はウナギ登りです。脱原発を叫ぶより、原子力を安全に使うことを優先考慮すべきでしょう。

さて、徳川幕府体制は盤石になりつつあります。秀吉は海外派兵という形で、国内の余剰軍事力を放出させましたが、家康は土木工事で大名たちの軍事資金を枯渇させる手を打ちました。江戸城、駿府城、尾張城などの天下工事です。そのほかにも、五街道の整備や、木曽川の改修など、次々と大工事を起こします。全国から作業員が工事現場に送り込まれて、建設バブルといった有様でした。当然のことながら莫大な資金需要が発生しますが、すべてが地方大名の自前です。これで、戦国の世から立ち直って、秀吉の治世下で豊かになった国民の生活は、重税によって搾り取られ、活力を失っていきます。今日に至るまで、家康に人気がないのは、この政策に対する反動でしょうね。しかも、家康は増税といったことには手を触れず、諸大名の責任に転嫁していたのですから、なおさら嫌われます。

嫌なことは他人にやらせ、果実だけ吸い取る……実に政治的に巧妙な手法ですが、それを真似しようとしている現代の政治家もいますね。増税は誰かにやらせて、ばら撒きの手柄だけ独り占めしようとしている与党の黒幕。現代の狸爺でしょうか。

137、この頃家康は、片桐且元に命じ、東山の豊国社における臨時祭の準備を進めさせていた。豊国社は秀吉を神として祭る神社であり、慶長9年は秀吉の七回忌にあたる。
大々的な法要は、大阪城の淀と秀頼を手なずける何よりの手段になるというのが、家康の考えであった。

人使いの要諦は「飴と鞭」といいますが、戦国大名のうち、外様大名は、そのほとんどが豊臣政権へのノスタルジアを持っていました。天下普請への要求が強まれば強まるほどに、アンチ家康、親秀吉という機運が高まります。これを糾合する煽動政治家が現れれば、西国を中心にして秀頼を奉りあげ(まつりあげ)、第二の関ヶ原になるかもしれません。

秀吉恩顧の加藤清正、加藤嘉明、福島正則、浅野幸長に黒田官兵衛が参謀に付き、島津、鍋島、毛利、蜂須賀などが連合して反乱を起こせば、鈴鹿峠から西はすべて敵に回ります。それに、北陸の前田が加わったら…、家康が監視役として配置した徳川譜代の大名たちなど一たまりもありません。それもあって家康は、大阪城の秀頼に対しては腫れ物に触るような慎重さで対応していました。

片桐且元は、もともと豊臣家から知行を受けていた豊臣家の家老職ですが、家康からも封(給与)をもらっていますから、幕府からの付け家老としての役割も担います。従って、家康は且元に業務を命じることができます。

秀吉のバラマキ政策の恩恵を、どこの庶民たちよりも手厚く受けていた京の町衆は、このイベントに大喜びです。今でいう、京都の三大祭りが一時に来たかと思うほどの盛り上がりで、太閤人気が爆発したような騒ぎです。家康も、面白くない気分に封印して、金に糸目をつけぬほどの大判振る舞いでした。

これには、用心深い淀君も愁眉を開きます。が、一方で、ますます政権禅譲を確信してしまいました。この辺りの判断が、政治のパワーバランスを知らぬ者の限界でしょうね。

庶民の人気などというものは、政治には何の力にもなりえないのです。ここ数年、政権を取った人は、アンケート調査の「支持率」に一喜一憂していますが、支持率などというものは一晩で大きく変化します。株価よりも儚い物だと思い知るべきではないでしょうか。野田ドジョウも、前原金魚も、増税の処理と、裏で暗躍している「被告人」の扱いを間違えると、一気に支持率低下を招きます。

138、慶長10年(1605)正月早々、家康は江戸を発して京に向かい、三月には秀忠 も上洛して伏見城に入った。
四月、家康は予定通り、将軍職を秀忠に譲り、自らは隠退することを朝廷に願い出る。認可はそれから10日もしないうちに下された。

秋に盛り上がった大阪城内の期待を、正月早々にはぶち壊します。家康の引退は、すなわち政権禅譲と期待していた大阪城の女たちは、落胆を通り越して怒りへとつながっていきます。その怒りの矢面に立たされるのが片桐且元ですが…、当たり前のことを、当たり前と受け取らない人が相手では、なすすべもなく沈黙するしかありません。

淀君などの大阪城内の面々が政権禅譲を信じていた背景には、家康に与えられた「律儀者」という評判も、大きく作用していたと思われます。律儀者とは約束を守るという意味ですが、果たして政権禅譲まで約束していたのかどうか、そこのところも実に不明確です。

「秀頼を頼む」「お任せくだされ」という、病室での最後の会話に立ち合っていたのは石田三成だけですが、その三成が反逆者として処刑されてしまった今となっては、証拠も証人もありません。ましてや秀頼は、名目上も、実質上も、大阪城を西軍の本陣にしたという点で、関ヶ原の戦いで家康に敵対するという行動を取ったのです。約束を迫る立場にありません。関ヶ原での敗戦の責任を追及されなかっただけでも、家康の温情に感謝すべきところでした。

139、天皇譲位の儀式のため五年ぶりに京へ上り、二条城に入った家康が、またも秀頼の上洛を促してきたのである。
淀は当然不快感をあらわにした。その説得にあたったのは、なんと秀頼本人であった。

秀頼は伏見で生まれて、大阪城に入って以来、一歩も城外に出ていません。これは少々異常な育ち方です。温室育ちなどといいますが、世間知らずと言ってこれほどのもやしっ子はないでしょうね。そういう人が、国政の最高責任者になれるはずがありません。

将来、関白としてその立場に立とうと思えば、少なくとも政権を担えるだけのスタッフは揃えておかなければならないのですが、その用意も全くありません。

現代ですらそうですが、政権交代をしたものの、大臣の器にかなう人がおらず、迷走している政治を見れば、自ずと明らかなことです。その意味では、淀君というのは、現代の教育ママそのものですね。わが子のことしか頭になく、過保護、過管理、過干渉の三過ママの典型でした。秀頼は、京都への修学旅行くらいはしてみたかったのです。

140、冷たい汗が首に浮いていた。もはや時はない。急がねばならぬ……。
おのれが滅するのが先か、その前に秀頼を亡き者にできるか。そう考えてしまうほど、家康は追い詰められていた。

家康の冷汗は、一体何に依って噴き出したのでしょうか。

秀頼が立派な体躯をして、堂々と応接したから……・ではないと思います。

家康が驚いたのは、加藤清正と浅野幸長が、万全の構えをして付き添って来たからではないでしょうか。しかも、面談の場にまで同席して、万が一のことがあれば家康を刺し殺すほどの殺気を漂わせていたからだと思います。これは、家康にとって想定外でした。

清正は、家康の天下普請には誰よりも協力的で、江戸城、駿府城、二条城、名古屋城などの石垣は、そのほとんどが清正の手になるものです。清正が朝鮮から連れ帰った、いや、拉致してきた石垣職人たちが、その技術力を最高に発揮したのが「武者返し」と呼ばれる垂直から上部がオーバーハングした曲線的石垣です。度重なる天下普請に、不満を訴えていた福島正則などを説得して、家康の幕府政権を支えてきた功労者でした。

その清正が……なんと、秀頼のためなら家康をも刺し殺す、という姿勢を見せたのです。

「飼い犬に手を噛まれる」と言っては表現が適当ではないかもしれませんが、ようやくにして手なづけたはずの太閤恩顧の大名たちが、実は、秀頼のためなら自分に刃を向けると知って、家康は仰天したのだと思います。

この後、清正、浅野幸長が相次いで世を去ります。前田利長も隠居して病床に伏しています。こういうことから「清正に毒まんじゅう」伝説などが、実しやかに囁かれます。

が、清正の死因は、多分、胃癌であったと言われているのが正しいでしょうね。浅野幸長も梅毒の末期でした。だからこそ、二人とも死を決して、秀頼を護衛したのでしょう。