流れるままに(第43回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

変なタイトルを付けました。

お市の方以来、浅井三姉妹の女系図は三代にわたって落城を経験することになってしまいました。中でも、淀君、茶々にとっては三度目の落城体験です。

三代というのは、お市に始まり、娘三人と、そして今度は孫同士の秀頼と千姫が経験することになります。淀君にとっては三回目ですが、初は大津城を含めて4回目です。

江戸の古川柳に「売り家と 唐様で書く 三代目」とありますが、

「落城と 血潮で染める 三代目」となった千姫は全く気の毒です。祖父と父の、政治的都合で嫁に来た家を、その祖父と父が攻めているのです。まぁ、政略結婚とはそういうものでしょう。現代人の結婚観とは違います。

145、豊臣方は、徳川の兵が退いた後、しばし呆然態となった。秀吉が18年もの歳月を費やし、智恵と財力を絞って完成させた大阪城は、建物の殆どを破壊しつくしされ、
巨大な堀を平らにならされて豪壮さも優美さも失ったみじめな姿をさらしていた。

冬の陣は大阪城の堀を埋めるだけで休戦になりましたが、この決定に真田幸村、後藤又兵衛などは猛反対しています。堀があればこその大阪城で、堀が埋められてしまえば要塞ではなくなります。

しかし、彼らは徹底交戦を主張しませんでした。結果的に淀君の主張に逆らうことなく、堀の埋め立てに同意したのは、彼らも野戦がしたかったのです。籠城戦では活躍の場がないことをわきまえていました。

真田、後藤、塙、長宗我部などの思いはただ一つ、華々しく闘って死ぬ、それだけです。

大坂方が勝つ、彼らが大名に復帰する…などということは、全く考えていません。

休戦協定は必ず壊れる。再戦になる。そこで、いかに華々しく歴史に名をとどめるか、それだけです。とすれば…、守るべき城などない方が良い。大阪城に残った浪人たちを死ぬ気にさせるには堀がない方が良い…となります。

大阪城の攻め方を、秀吉自らが家康に向かって放言したという話がありますが、眉唾です。

自らが心血を注いで構築した作品の壊し方を、警戒している相手に話すはずがありません。秀吉にとって家康は、死ぬまで仮想敵であったのです。

秀吉が死ぬ間際まで「秀頼を頼む、頼む」と家康に繰り返したのは、敵なればこそのことであって、信頼して任せたわけではありません。

それを重々理解していた三成が、家康討伐に動いたのが関ヶ原です。

この戦いで三成が破れた時、すでに豊臣政権は終わっていました。

ともかくも、堀がなくなりました。現在の大阪城は、その後江戸時代に再建された姿ですが、内堀だけしか残っていません。それでも堀があれば、攻め込むのは至難の業です。

146、和平を望む初の申し入れには一顧だにせず、家康は別の条件を突きつけてきた。
秀頼の国替えか、城内の浪人を放逐するか、どちらかを選べ。さもなくば城を攻める。

田渕さんの作品では、初が江戸城に家康を訪ね、和平の懇願をしたという筋書きですが、

このようなことはなかったでしょうね。更に、国替えの提案をしたというのもあり得ません。家康はすでに豊臣家抹殺を決心しています。

近頃、永田町界隈では民自公による大連立の噂が絶えませんが、これも似たようなものでしょうね。政権を取っている方から呼びかけても条件が合いませんから、野党である豊臣家が和平、連立を呼び掛けても「何を今さら」と鼻先でせせら笑われるだけです。

豊臣家が生き残るには、14年前の関ヶ原の敗戦に遡らなくてはなりません。

この時、家康は淀、秀頼の責任を問いませんでした。大阪城に西軍の本拠地を与え、西軍に家康討伐の指示を出したのは豊臣家だったのにもかかわらずです。

この時、戦勝祝いに駆けつけていればまだしも、責任を問われなかったことに安堵し、豊臣の権威に安住して改革を怠ったのが、第一番目のミスです。

次に、家康が将軍位をもらったときに、交渉を仕掛けるべきでした。豊臣家を公卿と位置付け、大阪城を捨てて京都に移るべきでした。この時なら、家康は豊臣家に大和一国を用意していました。

そして、千姫を嫁にもらったタイミングがありました。秀頼にとって秀忠が岳父に当たります。儀礼的にも会っておくべきでしたね。

更に、将軍職を秀忠に譲ったタイミングがあります。これが…ラストチャンスではなかったでしょうか。家康が政権の世襲を宣言したのですから、祝うにしても、抗議するにしても問題をはっきりさせておかなくてはいけなかったのです。この時なら、まだ、加藤清正、浅野幸長が健在でした。福島正則も加藤嘉明も牙を抜かれていません。それに、豊臣家の切り札である寧々が政治力を保っていました。

寧々を無視してのモンスターママとマザコン息子では太刀打ちできませんね。

147、翌7日、両軍は城の南側、天王寺で対峙した。戦いが始まったのは正午ごろ、
全軍が入り乱れての大混戦となった。ここでも幸村は、家康本陣を一時は恐慌に陥れる働きを見せる。

真田十勇士、池波正太郎の世界が天の氏を中心に展開されます。私の様な信州人が真田ファンになるのは、郷土の英雄崇拝として当然ですが、大坂や近畿に幸村ファンが多いのにはびっくりしましたね。大阪人の司馬遼太郎も、大の真田幸村ファンでした。

幸村自身が、そのことを狙っていたんですね。判官びいきの日本人の感情を揺さぶる死に方、散り方を探っていました。

まずは衣装です。赤ぞなえと言われるように、真田の組下に入る者たちには揃いの具足を付けさせます。「華々しく死にたい者この指とまれ」「真田は三度徳川と戦って負け知らず」広告宣伝も怠りありません。猿飛佐助、霧隠才蔵というスーパー忍者がいたかどうかは、かなり怪しいですが、乱破と言われる広告宣伝部隊をフル活用しています。

戦いは大和口での後藤又兵衛と水野、伊達勢との戦闘で火ぶたを切り、若江方面では長宗我部、木村重成が藤堂、井伊、上杉と華々しく闘います。死ぬ気の軍隊と、どうせ勝戦(かちいくさ)なので怪我をしたくない軍隊、最初のうちは大阪勢が押しに押しますが、疲れた頃を見計らっての一斉攻撃で大阪勢は全滅します。

ここで不思議なのが、真田幸村と毛利勝永が後藤又兵衛の加勢に遅刻したことです。

濃霧で道を見失った、ということになっていますが、わざと遅れましたね。幸村にとっては家康一人しか敵はいなかったのです。伊達などと戦いたくなかったということです。

猿飛、霧隠に家康の陣を探らせ、一直線の玉砕攻撃をかけました。

家康も、軍旗を捨て、旗印を捨てて必死に逃げます。これを護衛したのが大久保彦左衛門。

こうなると、もはや講談の世界ですねぇ。一心太助まで出てきそうです(笑)

148、母と子は視線を交わし、同時に自らの首を力を込めて斬り裂いた。太い血しぶきが交錯して飛び、二人はたがいに重なりあうようにして倒れた。その刹那、淀は二人の妹を思っていた。

豊臣秀頼と言う人は不思議な人です。どの歴史小説を読んでも、自分の意志、秀頼の判断という箇所が出てきません。母親の言いなり、周りのものに「良きに計らえ」をやっていた馬鹿殿そのものでしかありませんが、果たしてそうでしょうか。

物の本によれば、身長6尺5寸(197cm)体重100kgという大男だったようで、その彼が甲冑を付けたら、乗せる馬がなかったとも言われています。体力もあり、二条城の会見では、家康や寧々が驚くほど見事な応接をしたのですから、馬鹿ではなかったはずです。「城を枕に討ち死に」は淀君、茶々の判断ではなく、秀頼の判断でしょうね。

茶々は最後まで、生き延びることにこだわったと思います。

母のお市と同様、天守閣で自決することにしていながら、最後になって千姫を使者にして命乞いをしたり、山里曲輪に逃げだしたりしています。落城してから「大和への移封を受諾する」というのが、千姫に持たせた条件なのですから、笑止千万でした。

10年前の交渉条件を今さら持ち出すようでは、家康も秀忠も呆れてしまったでしょう。

千姫は叔母の常高院、秀頼の娘を伴って家康の元に「秀頼、淀君の命乞い」に行きます。

が、家康からは「将軍に頼め」と逃げられ、父の秀忠からは「なぜ夫と共に死ななかったのか」と叱責されます。部下の手前…とはいえ、随分とクールなのが秀忠らしさです。

千姫は後に桑名の本多家に再嫁し、持参金10万石が加増されて姫路15万石の妻に納まります。その千姫がこだわったのは義娘の助命嘆願で、これは許されました。秀頼の娘は鎌倉の東慶寺、駆け込み寺として有名な尼寺で、天秀尼という名で余生を全うしています。