流れるままに(第42回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
高齢になった経営者にとって、最大の課題は後継者のことであり、その後継者がどれだけ優秀であっても、将来への不安が付きまといます。このことは、今も昔も全く変わることがありません。自分自身が修羅場をくぐり抜けてきた体験が、またまた後継者を襲うという不安に苛(さいな)まされて、焦りすら感じだします。
部下のうち、優秀な者は後継者である息子を脅かす存在になるのではないか、協力関係にある者たちも、いずれは息子を裏切るのではないか。裏切って敵に寝返るようなことになれば、自分が営々として築き上げてきた成果が崩れる…、こんな妄想に取りつかれます。
用心深い…というか、心配性の家康は幾つかの「徳川家の危機」を想定し、それに対する布石を打っていきます。大名の妻子を江戸に集めて、人質にするなどというのは、ほんの手始めで、全国に張り巡らせた隠密による情報網を十重、二十重に準備し、「疑わしきは罰す」という裏社会も組織していきます。さらに、いざという時には徳川家の家系を守るために、江戸城から四谷見附までのトンネルを穿(うが)ち、八王子から甲府までの脱出路を準備しました。これが五街道のひとつ、甲州街道の本来の目的だったのです。
その家康にとって、最大の懸念は豊臣家でした。
両加藤(熊本、伊予)、福島、黒田、蜂須賀など秀吉に育てられた大名家が西国にあります。さらに、関ヶ原の負け組である島津、毛利の兵力は侮れません。更に、北陸の前田、東北の伊達、上杉、佐竹なども油断できません。彼らをまとめる吸引力のある存在は、大阪城にある豊臣秀頼、その人です。
その彼が、立派に成人していました。身の丈6尺2寸とも言われますから190cmを越える大男です。礼儀正しく威厳もありました。
「生かしてはおけぬ」家康に黒い決意が固まります。
141、「大仏鐘銘に関東不吉の語あり。開眼供養の日も吉日にあらず!」
豊臣側は驚き、狼狽した。大仏開眼の日取りは将軍名代の家康を立て、あらかじめ相談して合意を得たものであったし、「不吉の語」に至っては、言いがかりとしか思えなかった。鐘銘に記された漢文のうち、家康が難癖を付けたのは「国家安康」「君臣豊楽」の八文字。
前者は家康の名を「安」で分断している、後者は豊臣家を君として楽しむの意であり、徳川家を呪詛するものだと決めつけたのである。
理屈と膏薬はどこにでも張り付く、といいますが、金地院(こんちいん)崇伝(すうでん)の編み出した屁理屈は何とも御笑い種(おわらいぐさ)のこじつけなのですが、この屁理屈に当時の専門家たちがこぞって権威づけをしました。漢文に詳しい京都五山の僧侶たちが、この理屈に箔を付けたのです。
鐘銘の願文を起草したのは清韓禅師なのですが、五山の高僧たちはこぞって清韓を嫌っていました。清韓は京都五山の異端児だったのです。
こういうことは良くあります。自分たちの集団の和を守るために反逆者を斬るという事例は枚挙にいとまがありません。原子力学会、医学関係など、「学会」と呼ばれるところでは、多かれ少なかれ存在します。特に、マスコミが引っ張り出す専門家は危ないですね。
禅宗の学者たちは、身内の異端児を斬って家康にゴマをすりましたが、このことで豊臣家の命運は決しました。片桐且元の必死の陳弁にもかかわらず、家康の「大阪征伐」の方針は確定してしまったのです。
が、唯一、延命の方策が残っていました。
大阪城を捨てるという決断です。秀頼が、この提案に合意し、一大名として将軍家に臣従すれば、当面は生きながらえたかもしれませんでしたね。片桐且元が必死に工作したのはそのことで、裏では寧々が指図していたようです。家康が考えていた移転の候補地は房総半島(安房)あたりだったようです。
もう一つの方策は、大名を捨てて清正を頼り、熊本に逃げることでした。清正は秀頼のために熊本城に豪華な本丸御殿を建てたのだとも言われていますからね。これも、清正の死で消えてしまいました。ともかく、危機感が薄く、現状認識が甘かったのです。
142、一方、淀は深い失望の中にいた。参戦を呼びかけたにもかかわらず、大名は一人として現れない。大挙して大阪城に押し寄せたのは、関ヶ原で失地し、その挽回をもくろむ浪人ばかりだったのだ。
淀君、大蔵卿などの女たちの判断はヒステリックに戦争に向かいました。それを抑えるべく説得するのが、周りにいる者の務めなのですが、大蔵卿の息子達3人はこぞって主戦論を唱えます。ついには和睦派の且元を大阪城から追い出して、大阪城の主導権を握ってしまいましたが、この3人、能力も人徳もない、平凡な乳母の子にすぎません。
長男の大野治長、淀君の秘書官にすぎません。淀君と母親・大蔵卿の使い走りです。
次男の治房、三男の治胤(道犬)は現代の暴走族に似て、虚勢を張る事しかできません。
これに、七手組といわれる速水甲斐以下の親衛隊が従うのですが、こちらも大阪城ができてから採用された者が多く、戦争体験をしていない者たちばかりでした。
そこへ、応募してきた者たちは歴戦の勇者ぞろいです。
真田幸村、後藤又兵衛、塙団右衛門、毛利勝永、長曽我部盛親、石川康勝などの元大名たちを始め、職にあぶれた失業者たちが続々と集まってきます。
が、指揮官が大野治長で、軍議の席に淀君、大蔵卿がいたのでは作戦会議になりません。
最大の失策は前田利長に大阪城への参戦を期待したことでしたが、利長宛ての依頼文は封も切られずに、すべて家康の元に送られてしまっています。これも含めて、大坂方の情報は家康に筒抜けでしたね。かなりの軍事機密まで利長に書き送っています。
真田幸村、後藤又兵衛の戦上手の献策まで洩らすとは…、駆け引きが下手過ぎました。
143、大坂の陣の火ぶたが切って落とされたのは、11月半ば過ぎのことだった。豊臣勢も城から兵を出し、各地で戦闘が相次いだ。しかしいずれも局地戦で激しい争いには至らず、家康はすぐに包囲戦に切り替える。城をびっしり取り囲んだ兵は20万余に達していた。
緒戦で豊臣方は華々しく闘いました。後藤、真田などの歴戦の勇士たちはそれぞれに大戦果をあげています。一方、大野兄弟の弟たちは堺の焼き討ち、大和郡山の焼き討ちなどして、大阪近辺の庶民まで敵に回してしまいました。これが、次の夏の陣では裏目に出ます。
太閤人気で、どちらかといえば豊臣びいきの庶民の支持まで失ったのです。
さらに、親衛隊であるべき七手組の面々の厭戦気分まで誘発し、逃亡兵を生んでしまいます。乳母の大蔵卿の局と、その三人の息子達、彼らが豊臣家滅亡へのA級戦犯だったでしょうね。まずは、片桐兄弟を大阪城から追い出したことで、家康と交渉するためのパイプを失いました。
太平洋戦争でもそうでしたが、アメリカとの交渉窓口を断絶してしまったことが、無条件降伏へとつながりました。交渉の糸口は、最後まで温存しておくべきです。
144、おのれの立場の重要さに初は痛みにも似たおののきを覚えた。しかし、姉の顔を見ているうちに思った。これは私だけの役目だ。亡き母お市に授かった使命なのだと。
大坂冬の陣における両軍の死傷者の数を比較したら、圧倒的に大坂方の勝ちです。
幕府軍は真田丸での幸村の罠にかかり、数千人の死傷者を出しました。特に被害が大きかったのが前田、越前松平軍です。彼らは父親の前田利長、結城秀康が家康から疑われていることを知っていましたから、血を以て幕府方であることを証明しようとしたのです。
紀州口で大野道犬と戦って犠牲者を出した和歌山の浅野家も同様だったでしょう。豊臣寄りと疑われたくないばっかりに、無理な攻撃を仕掛けています。
さらに、片桐且元は大阪城本丸の詳しい見取り図を提供し、備前島からの砲撃には射撃の名手を指揮官として派遣しています。淀君の居住区に正確に砲弾を打ち込めたのは、内部の事情に詳しいものが指揮していたからです。
この砲撃で、淀君がパニックに陥りました。ヒステリー状態といってもいいでしょう。
戦争、災害などの危機管理に女性は向いていません。それは生理的なもので、個々の女性の責任ではなく、女性を危機の責任者にしてしまっている組織の責任です。大坂方でいえば、秀頼と、大野治長、速水甲斐といった取り巻きが、淀君を制御できなかった事が失敗を招きました。中途半端な和睦に入ってしまいました。
交渉パイプがありませんから、最後の切札は浅井3姉妹の真ん中、お初を使うしかありません。家康と本多正純に良いようにあしらわれて、大阪城破壊を条件に和睦します。
堀を埋め、要塞の真田丸を撤去したら、大阪城は丸裸です。降伏と同じです。