海人の夢 第27回 都落ち

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

平治の乱は、暴力的手段による「玉」の奪い合いでした。玉とは、すなわち正義、天皇を手中に収めることが、自らの軍事行動の正当性を保証します。

このことは、洋の東西を問わず、いつの時代も変わりありません。シリアでは政府軍が「国法」を盾に反乱者を殺戮します。一方、民権主義者たちは「自由・民主」の旗の下に抵抗を続けます。いずれが正義か? 欧米などは民主主義の思想の上に立って、シリア政府を非難しますが、国の独自性を標榜する中国、ロシアは制裁に後ろ向きです。正義とは…まさに思想信条の問題で、「絶対」がないのです。

狭い日本の、僅か400人ばかりの民主党政治家たちも、「正義」を唱えて分裂の様相です。

正義はマニフェストにあり…とする一派と、現実の国家財政を重視する一派に分かれての対立ですが、いずれも正義を主張します。民主主義では、これを主権者である国民の投票によって決めようというのがルールですが、個別案件ごとに国民投票を繰り返すわけにも行きませんよね。一旦選んだ選良に任せて、すべてを委託するというのが、間接民主主義です。総選挙の雰囲気が、だんだんに盛り上がってきましたが、「玉」とは一体、何になるのでしょうか。課題が多すぎて混乱しますよね。

さて本題。玉を奪われた源氏、取り返すしか生きる道はありません。源太義平を先頭に六波羅を襲いますが、多勢に無勢、撃退されて、天皇の側には近づけません。

33、ようやく義朝は、次男の朝長をつれて逃げる気になった。三男の頼朝は、乱戦の中で行方がわからずになっている。
百騎ほどの兵がつき、義朝と朝長は河原を北のほうに向かった。

関東の精強な武者を抱える源氏ですが、数では平家に及びません。この当時は一騎打ちが中心で、相撲の取り組みのようなものですから、強いものは敵を何人でも倒せますが、それでも、朝から戦い続けていたら疲れます。疲れたら、横綱でも幕下に負けます。一人倒れ、二人倒れ、源氏は徐々に兵を失っていきます。

義朝は「名を残して果てる」と、玉砕突撃を決意しますが、鎌田正家などの重臣に諌められ、都落ちを決意します。鴨川を上流に向かって北へ、関東を目指して退却しました。

大将が逃げた、とわかれば、源氏は総崩れです。それまで、六波羅の陣地で防戦一方だった平氏も、今が手柄のチャンスとばかり、勢い込んで追撃してきます。槍と刀の戦いでは、正面を向き合っていたら容易に勝負はつきませんが、背中を見せたら討ち取られます。

鎧は、前には分厚いガードがありますが、後ろは無防備に近いですからね。

六波羅のある五条の河原から逃げ出しますが、三条辺りで追いつかれます。ここに半数が残って殿軍として戦いますが、時間稼ぎをするのがやっとです。義朝の従者は、度重なる追撃を受けて、次々に数を減らしていきます。

34、「日本一の不覚人め」義朝は怒鳴りつけた。
「このような大事を思い立ち、大勢の味方を殺して、ようものめのめと左様なことを申されるものかな。我らは東国へ落ちるにあらず、再び兵を集める所存。おぬしは一人で、いずこかへ逃れ、惨めな死に方をするがよい」

ようやくにして、京都の北、八瀬の松原辺りまでたどり着きます。このあたりは既に比叡山の山麓で、都からはかなりな距離があります。現在でも、自然のままの渓流が美しいところですが、必死に都を脱出してきた義朝には、都落ちの哀愁が迫り来る風景だったでしょうね。義平、頼朝など息子の消息もわかりませんし、家に残してきた妻子の安否も気がかりです。

そんなところに、総大将だった藤原信頼が追いついてきました。豪華絢爛だった鎧兜は脱ぎ捨て、乞食のような格好をして目をくらませてきたのだと自慢し、当然のように同行と庇護を求めます。これには、さすがに義朝の堪忍袋の緒が切れました。

我々も気をつけなくてはいけないのですが、昔の後輩たちに会うときに、ついつい先輩風を吹かせます。退職したら「ただの人」であることを忘れ、その後輩と一緒に仕事をしていた頃の自分と、同じ態度をとります。危ないですねぇ。信頼を嗤ってばかりはいられません。「おぬしは一人で、いずこかへ逃れ、惨めな死に方をするがよい」と突き放されてしまいます。

八瀬から比叡山を頼ろうとしますが、僧兵たちは逆に襲ってきます。勝負が決したからには勝ち馬に乗るのが人の常です。しかたなく比叡山の西を迂回し、堅田から船で琵琶湖を渡り、美濃の国、青墓の宿にたどり着きます。

NHKではここに祇園女御が隠棲していたことにしていますが、吉川新平家では女御の隠棲先は大阪の十三です。熊野詣のときに清盛と対面する設定でした。

いずれにせよ、青墓で義平、頼朝に合流し、飛騨、信濃の兵を集めようと画策しますが、いずれも不首尾に終わります。源氏の地盤も、負ければ雲散霧消します。

今度の選挙で、岩手県民の投票態度は、全国の注目でしょうね。刑事被告人、原発恐怖症で災害見舞いにも来なかったくせに、オリーブ構想をかざした、新党の党首の地盤です。

35、長田親子の本心は、心から義朝を迎えたのではない。もし、自分たちが義朝を匿ったとわかれば、罰を受けるのは明らかだし、なんとしてでもここで討ち取ってしまわなければならない。

青墓の宿も危なくなって、義朝は尾張、知多に逃れます。ここには、鎌田正家の義父、長田忠致がいます。父、為義の時代からの郎党ですから、義朝はすっかり安心します。

が、安心しきって、風呂に入っているところを闇討ちされてしまいました。風呂場でやられたのは、保元の乱の折に、弟・鎮西八郎為朝と同じです。不意打ちを食ったら、いかなる勇者といえども敵うものではありません。長田親子は用意周到で、娘婿の鎌田正家を始め、郎党たちすべてを討ち取ってしまいました。

「義を重んずるか、身の安全を図るか」難しい問題ですねぇ。

小沢派の議員さんが、それぞれに悩みぬいていることでしょう。親分への義、党への義、マニフェストへの義、選挙民への義、義にもいろいろあります。常日頃、国政に関して深く考えることのなかった人ほど、悩みが深いでしょうね。どちらが勝ち馬になるのか…。

進むも地獄、残るも地獄。ま、身から出た錆です。大いに悩むのがよろしいようで・・・。

36、長田親子には賞が与えられ、父は壱岐の守に任ぜられ、子は兵衛尉にされた。
だが、親子とも賞が薄い、と言い立て、勅命をお受けしようともしない。おまけに、自分たちは美濃と尾張の両国を賜るのが当然であると高言をした。

長田親子の領地は尾張の国、知多郡にあります。平坦な平野部にはありますが、水利が悪く、米はあまり取れません。海が近いこともあって、農業と漁業を共に行うことで、領地の経営をしてきました。一所懸命の農民と、海の男たちを配下に従えますから、兵力としては、代々の源氏に重用されてきました。

源氏の棟梁を討ったのだから…恩賞への期待が高かったことは、容易に想像が付きます。

が、無位無官だったものが、最初に貰う官位として壱岐守は順当なところですね。尾張、美濃などは、奈良の昔から上国(実入りのよい国)とされ、ちょっとやそっとの働きでもらえる国ではないのです。そういうことも、知らなかったようです。

この高言、放言が平家を怒らせてしまいました。烈火のごとく怒ったのは頼盛で、このときの頼盛は尾張守だったのです。さらに頼盛は平治の乱の勲功で三河守も貰っていますから、長田は支配下の領民でもあります。ということは「領主が気に入らぬから、俺を代わりに領主にせよ」といっていることに等しくなってしまいますよね。

頼盛ばかりでなく、重盛も「勅命を受けぬとは不届き」と、皇室重視の立場からも怒り出します。天皇、上皇たちの取り巻きの公卿たちも含めて総スカンです。驚いて、長田親子は地元に逃げ帰り、戦の準備を始めますが、それが整わぬうちに頼盛の部下に踏み込まれ、首をとられてしまいました。欲のかきすぎです。

この時代、六十余州といいますが、国として認められていた「島」が4つあります。佐渡、隠岐、壱岐、淡路です。いずれも共通点は貿易、つまり海の道の要衝でした。奈良の昔から、日本国が海路をいかに重要視していたか、の表れではないでしょうか。平氏は、既に貨幣経済、貿易に精通していましたが、源氏には、その発想が殆どなかったようです。

「壱岐のようなちっぽけな島」としか思いつかなかったのでしょう。

民主党政権が「竹島、尖閣のようなちっぽけな島」と考えているとしたら、それは大間違い。歴史への冒涜です。面積が小さくとも、米が取れなくとも、無人島でも、そこには、それなりの意義があるのです。その周りに、広大な領海があるのです。