海人の夢 第34回 おごる平家

文聞亭笑一

おごる平家は久しからず、という成句があります。多くは「油断するな」「お調子に乗るな」という意味で、後輩を指導注意するときに使いますが、改めて辞書を引いてみました。「おごる」には二つの漢字があるんですね。

@奢る…分に過ぎたことをする、贅沢をする、金銭を浪費する、他人にご馳走をする

A驕る…自分の才能、地位、権勢などを鼻にかける。人を見下す。わがままをする

平家物語の書き出しでは「驕るもの久しからず」と「驕る」を使っています。今回は清盛以下の平氏が、どれほどに驕り高ぶったのか、そのあたりを中心に、まとめてみたいと思います。

「驕る」といえば…民主党が政権交代後にやって見せてくれましたね。鳩ポッポ、菅蛙と二代続けて驕り高ぶった政策を実行し、国民の顰蹙を買いました。民主党だけではありません。その前の自民党も、同じ過ちを繰り返して自滅しています。まぁ、そういう政権に投票した国民が馬鹿なのでしょう。政党の広告宣伝手法と、無責任なマスコミに踊らされる、低脳な国民が多いのですから、低脳な政権ができても仕方がありません。

最近のマスコミは「自民もダメ、民主もダメ、大阪維新が面白い」と宣伝していますが、これまた眉唾ですねぇ。素人集団が大量に議員になっても、何も決められず、右往左往するばかりではないでしょうか。むしろ、既存政党が過去のしがらみを捨て、協調すべきところは協調するという、話し合い政治に向かって欲しいものです。借金財政からの脱却などは、誰が総理をやっても、焦眉の急の課題ですよ。

41、既にこの頃の平家は、一門ことごとく栄華を極めている。
長男の重盛は内大臣に任ぜられ、三男の宗盛は右大将、四男知盛は三位中将、孫の惟盛は四位少将、それに諸国の国司を勤めるものは六十余人を数えている。
全国のおよそ半ば以上は、平家一族の所領地ということになる。

平氏の勢いは、忠盛の時代からすると、隔世の感があります。公卿衆の妨害に遭って、殿上人にはなったものの、公卿にはなれず呻吟していましたが、すでに一門の主だったもの達は皆公卿の席に列しています。重盛は、清盛がなれなかった内大臣になりました。

朝廷の人事権を握っているのは、表向きは天皇、上皇ですが、平氏の協力なしには物事が進みませんので、何かあるたびに官位が進み、領国が増えるという有様でした。平氏の最盛期、領国は32カ国に上ります。全国の約半分ですね。

関東では…武蔵、上総、常陸

東海では…駿河、三河、尾張、伊勢、美濃、飛騨

北陸では…佐渡、越中、能登、加賀、越前、若狭

近畿では…丹波、丹後、但馬、播磨、淡路、和泉、紀伊

中国では…備前、備中、伯耆、長門、周防、

四国では…伊予、讃岐、阿波

九州では…筑前、薩摩

特に、都の近くは平氏一色といってもいいでしょう。近畿で漏れているところといえば、近江は比叡山延暦寺と園城寺領です。大和も奈良の寺門が持っていますから手出しできませんが、京・山城には本拠地六波羅があります。摂津には大和田の港を建設中です。となれば、全部平氏のものと言って差し支えありません。

平氏一門に驕る気持ちがなくとも、驕りに見えます。

42、「おそらくこれからの平家一門は、ますます勢力が強くなる。その代わり、敵も増える。だが、敵と見たるときは、決して 後へ退くな。それだけははっきり申しておく」

平氏にとってわが世の春ですが、清盛の警戒心は旺盛です。決して驕り高ぶりの油断はありません。清盛に「藤原氏の息の根を止める」ほどの野心があったかどうかは判りませんが、おそらく、「藤原氏を政権中枢から追い出す」ほどの覚悟はあったものと思います。

清盛が「敵」と認識していたのは藤原一族だけではありません。近江、大和に根を張る比叡山、南都の寺門、それに…後白河上皇すら仮想敵であったと思われます。

NHKの今回のドラマでは、比叡山、南都の動きは余り取り上げていませんが、政治的には大勢力です。朝廷の政策に反対して、年中行事のようにデモを仕掛けてきます。そうですねぇ、現代の革新政党を名乗る人たちや、労働組合のようなものでしょうか。現代のデモは赤旗を押し立てますが、当時は神輿を担いで練り歩き、シュプレヒコール、座り込みをします。この集団には一般大衆が付き従いますから、厄介な存在でした。清盛が最も警戒していたのは、藤原氏ではなく、この寺社勢力だったかもしれません。

43、「栄西と申す僧侶、まだ若年ながら天台を学び、密教を学び、叡山にこもって蔵経を学ぶこと8年、宋の国にわたって禅宗を学びたい、という志を持っているそうにござる。仏教のため、まことによろしいと考える。私より応分の寄進を仕った」

宗教勢力に一矢報いる手段だったのでしょうか。それとも、先進文化への好奇心からでしょうか、清盛は留学僧に肩入れします。天台とは、伝教大師・最澄が持ち帰った宗派で比叡山延暦寺を本山とします。密教は弘法大師・空海が持ち帰った宗派で、高野山を本山にします。当時はこの二つが仏教の二大宗派で、上流階級は天台宗、庶民には「お大師様」とそれぞれに全国規模で浸透していました。

現代の仏教は、葬式仏教などと揶揄されるように、宗教、哲学との縁が薄らいでいますが、この当時は文化の最先端にあります。国分寺などといわれる寺は、当時の国立大学に相当しますし、比叡山、高野山は東大、京大という感じです。さらに、奈良興福寺は藤原氏の私学、関東の早慶か、関西の関関同立のようなものです。文化的権威は寺門に集約されていました。

比叡山、南都の宗教勢力は、藤原氏とは違った意味で、清盛には厄介な存在でした。

武士の世、通商立国という清盛の理想を拒否しかねないからです。そう、現代のマスコミです。専門家という得体の知れない連中を使って、抵抗勢力になりつつありました。

栄西の中国派遣は、清盛の文化政策、宗教政策の皮切りでした。栄西は帰国後、禅宗の一派である臨済宗を起こします。同じ時期に宋に渡った道元は曹洞宗を起こします。鎌倉時代に花開いた禅宗は、清盛の政治的、経済的支援で日本にもたらされたのです。現代にも残る禅寺は、清盛の没後に興隆期を迎えました。京都の妙心寺、大徳寺、南禅寺、東福寺、建仁寺などの五山、鎌倉の円覚寺、建長寺など、13世紀に入って一気に花開いています。いわば、清盛による宗教改革でした。この果実を見ずして死んだ清盛は、さぞかし残念だったであろうと思います。

F71、清盛は盛国に命じて巻物を広げさせた。そこに描かれているのは寝殿造りの建物の見取り図だ。神を祀る社は海を敷地とし、鳥居は海の中に描かれている。
横へ、横へと広がる画期的な意匠に、基房は度肝を抜かれた。

清盛の文化的貢献は、余り歴史の授業で教えてくれませんが、芸術にしろ、哲学にしろ、相当な功績を残しています。三十三間堂を始め、建築技術でも、それまでにないデザインの建物を数多く建立しています。そういった功績の代表が、安芸の宮島だったでしょうね。

宗教的建物は、洋の東西を問わず、天を目指します。上に、上にと積み上げて、天に近づくことを目指します。ヨーロッパの古都を飾る天主堂、中東のモスク、五重塔…、そして太古の伝統を伝える諏訪の御柱(おんばしら)、形こそ違え、皆、天に向かいます。

それに引き換え、清盛の発想は横に広がります。天よりも、水平な海に近づこうとします。縦と横…単純な発想の転換ですが、これがなかなか…凡人には思いつきません。私が清盛を「海人の末裔」と思うのは、この水平思考からなのです。

改革者というのは、皆、常人とは違う発想をします。コペルニクス的とは、平面発想を球に変えたものですし、アインシュタインも相対性という発想転換を生み出しました。

これほどの大発見でなくとも、我々は日常的に発想の転換を求められます。「押してもだめなら引いてみな」ではありませんが、引き戸を一生懸命押しているようなことを良くやります。「攻めなければ、攻められない」などと、少女マンガのようなたわごとを言っていたら、泥棒猫に次々と離島を狙われます。現代の日本人も、戦後教育の枷から抜け出して、新しい価値観に転換するときではないでしょうか。その意味で、今の民主党政権は格好の反面教師になります。あれもやる、これもやると理想を叫んでも、ない袖は振れません。お金は地面から湧き出てきませんし、天からも降ってきません。働かなければ、お金は生まれてこないのです。やらずぼったくり、なんて、できませんよね。