海人の夢 第33回 吉川英治語録
文聞亭笑一
先週はオリンピックの閉会式で、NHKの放映がありませんでした。先に進んでしまうのも味気ないので、吉川新平家物語の中から「これは!」と思って書き留めておいた一節を、順不同に紹介します。吉川英治の人生哲学が、見え隠れして、皆さんの何かの参考になれば良いと思い、掲載してみます。
文聞亭の文章は、かつてNHKが「義経」という大河ドラマを放映した頃に書いたものに加筆しました。余りの暑さに、手抜きがしたくなりました。
Y12、ほろほろと 鳴く山鳥の 声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う
どこかで聞いたような…歌ですが、吉川英治は鞍馬を発つ日の牛若丸に詠ませています。
しかし、山岡宗八は長編小説「徳川家康」で、この歌を家康の長男・信康が切腹するときの辞世の句として扱っています。どちらが本当なのでしょうか。吉川英治も、山岡宗八も、戦後の同じ時期に、一方は源平争乱を、もう一方は安土桃山の時代を書いています。時代が違いすぎますが、多分、和歌集の中から作者不詳の歌を引用して、歌の心がぴったりくる人物に当てはめたのでしょう。所詮、小説とはそういうもので、歴史書ではありませんね。ですから、小説で得た知識を「歴史」と勘違いしてはいけませんが、人間の心の動きは、時代が変わっても、余り変化しないのだと思います。
しかし・・・現代の政治家を見ていると、ちょっと替え歌にしたくなります。
ぽろぽろと 鳴く鳩山の声聞けば 嘘かとぞ思う またかとぞ思う
どうも、あのオジサンはいけませんねぇ。あんな馬鹿が総理大臣になって、外交もわからず、余計なことを放言し、言いっぱなし、やりっぱなしで政治を無茶苦茶にしました。おかげで、尖閣は中国に狙われ、国後はメドベージェフに、竹島は韓国に踏みにじられてしまいます。Mr・軽率。困った鳩の糞害(ふんがい)に、憤慨しています。
Y13、年々歳々、人は去年に愛想をつかしながら、初春と言えば、今年という年にまた恋をする。貧富のけじめなく、今年は何か良いことがあるような錯覚を祝い合うのだった。
そのくせ、今年の中から何が出るか、人間の子誰にも、宇宙の意思はわかっていない。
正月と言うのは信仰の世界なのだ!と、今頃気がつきました。この文章に書いてある通りですねぇ。時は、太古の昔から連綿と連続しています。大晦日と元日の間には、山も谷もありません。普段通りの時の流れなのですが、なぜか…大きな山か、河を超えるような気がしてしまいます。仏教徒ではない、神道など信じない、宗教は嫌いだ、などと格好をつけてはいますが、除夜の鐘が鳴ると、この文章のような錯覚をします。その錯覚を祝い合って『おめでとう』と言い交わします。
「現代人とは、錯覚だらけの科学的推論と言う嘘に騙されている馬鹿である」と言った養老孟さんの『バカの壁』が爆発的に売れました。私とてバカの一人ですが、馬鹿であることも心の平安にとっては好都合でもありますね。
とりわけ錯覚のひどいのが医学知識で、あれはダメ、これもダメと、マスコミは競争で医学知識をばら撒きますが、「最新の研究によれば…」というのが一番危ない推論です。最新の研究、すなわち推論ですから、実験が不十分で、検証されていないということの証です。そういう情報に振り回される現代人は、多分長生きしませんね。100歳を越えたお年寄りは粗衣粗食に耐えてきた人ばかりです。虚弱体質の方は早々に亡くなり、選別された人たちだけが残ったのでしょう。長生きするはずです。
Y14、幻想が不平を育て、不平が幻想を培(つちか)う。
共産社会、社会主義と言う幻想がありました。若い時にはこの幻想によって、赤旗を振り回したこともあります。こういう幻想で、それ以外の社会を見たら、不平の種は限りなくあるでしょうね。不平が不平を呼んで、暴力革命を起こし、地球の半分を赤く染めた時代もありました。しかし、マルクス、レーニンから百年もしないうちに、幻想であったことに気がついて、幻想は消えました。今は、イスラム社会が、幻想か、現実かはわからないのですが、先進国への不平と不満を育てているようです。共産国家の様な、大きな幻想を生まないことを願いたいのですが、なかなかに…火は消えそうにありません。
翻って、現代の日本ですが、福祉社会という幻想が世の中を覆っています。鳩ポッポが提唱した最低保証年金などという御伽噺が通用するはずがないのですが、それが「できる」と信じている人々が大勢いて、鳩ポッポを総理大臣にしました。が、年金を配るにはお金が要ります。膨大な額です。そのお金は一体どこから来るのでしょうか。お金は天からは降ってきません。誰かが払うんですよね。それを、税金といいます。「福祉が向上すれば、税金は上がる」当たり前の話です。「ない袖は振れぬ」も、当たり前の話です。
が、幻想はこれを可能にしてしまいます。それが幻想の恐ろしいところです。幻想には、ボチボチ気がついてほしいですねぇ。とりわけ40歳代を中核とする働き手の皆さんが、気がついてくれないと困ります。
イソップ物語に「蟻とキリギリス」の話があります。蟻のようによく働けば豊かな老後が、キリギリスのように遊び暮らせば冬が越せない…という教訓であったはずですが、福祉社会の幻想は「可哀想なキリギリスを助けなくてはならない」のだそうです。年越しテント村で鳩ポッポと、アホ菅がはしゃいでいましたね。あれこそが福祉社会の幻想の最たるものです。皆さんはどうか知りませんが、わたしは「働かざるもの食うべからず」だと思いますよ。勿論、広義の身体障害者は除きます。
障害児の出生も、晩婚、高齢出産のツケですね。劣化した卵に、劣化した精子がくっつけば、答えは言わずと知れています。
Y15、自分の誤りを覚ると、頼朝はすぐ人々の善言に服した。創業の主君はみなそうである。
そして、その人が天下に君臨すると、皆そうでなくなることも、揆を一にしていた。
痛烈な指摘ですねぇ。しかし、…権力者の共通特性であることに間違いはないと思います。権力の大きさにかかわりなく十中八九、当てはまります。現代で言えば、創業社長がこの例でしょうね。創業して成功した人たちは、皆、従業員を大切にします。従業員だけではなく、広く交友を保ち、多くの人の意見を聞きます。が、これが三代目ともなれば、徳川家光同様に「わしは生まれながらに将軍(社長)である。お前らとは人種が違う」などと嘯いて「唐様で 売り家と書く 三代目」になります。
とはいえ、例外もいます。例外だけが、その人が死んだ後まで神様になり、英雄として賞賛されるのです。そうしてみると「○○の神様、Mr○○」といわれる人は、余りいませんね。吉川英治の言うとおり、皆そうでなくなるからでしょうね。
善言とは、殆どの場合、耳に痛いものです。『良薬口に苦し』です。「過ちて改めず、それを過ちという」と孔子が看破して以来3千年、人間は進歩しない生き物なのです。
Y16、風説とはおかしなものである。
いぶかしく、おかしな、得体の知れぬ作用なものではあるが、その中に何か希求とか、複雑な心理が、別な姿を借りて、包まれているのも否めない。
情報化社会は、風説社会でもあります。情報手段が発達して、風説を流すことは実に容易に、誰でも出来ることになりました。インタネットを通じてブログ、ツイッターなど、誰でもが、いっぱしの評論家になれます。それも、極端な表現を使えば使うほど人気が出て、世間の注目を浴びます。
「負けじ…」と思っているのでしょうか? マスコミも風説を垂れ流します。世の中には、科学の借り衣を纏った『推理、推論』ばかりが横行しています。特に性質の悪いのが医学関連、健康に関する風説ですねぇ。人体の構造、機能など、まだホンの入口の学問なのに、科学的裏づけの薄いデータを振り回し、「これを食べれば老眼が治る」などと嘘を言います。「これを食べたら癌になる、または治る」などというのは、最も悪質な風説です。
とはいえ風説の力は凄いものだと実感します。タバコを吸う場所がなくなってきました。
平安の世を謳歌した藤原一門は、山門、寺門という修行僧や勧進僧を使って、風説を流布し、世論工作をしました。清盛は傀儡師という芸人たちを情報マンとして、全国に散らしました。秀吉は乱破と呼ばれる下級武士を使って、情報工作し、家康は忍者と呼ばれる集団を使いました。そして今、マスコミという、わけのわからぬ連中が、好き勝手に暗躍しています。街頭インタビューなど、賛成意見と反対意見を、勝手に操作して流します。それが平等だと威張っていますが、平等の名を借りた情報操作です。専門家だって、意図して選べますしね。
風説とはおかしなものであるその通りです。