海人の夢 第31回 海の道

文聞亭笑一

陸地に道が出来るように、海にも道があります。陸地の場合は山や川などの障害物を避け、人が歩きやすい場所が踏み固められて、道が出来ていきますが、海の場合も潮流や海底の起伏によって、船の通りやすいルートが選ばれ、それが海路となります。太古の昔から営々として積み重ねられてきたこれらの道こそ、人類の文化遺産ですね。熊野古道、鎌倉古道、さらにはシルクロードなど、あちこちに古道、旧道などと呼ばれる道筋がありますが、その出来方を見ることが、時代の文化を知る上では貴重な歴史資料になります。

日本の古代における海の道は、国内航路としては二つでした。博多から出雲(隠岐)、宮津(天橋立)、敦賀、魚津、両津(佐渡)、酒田、十三湖に至る日本海ルートがあります。このルートは縄文期から確立していたようで、諏訪の黒曜石や、姫川に産するヒスイが、縄文時代から全国に供給されていた事実もあります。

一方、もう一つの大動脈が瀬戸内海路です。海流が複雑で、多島海の航路は、現代人が思うよりも難路で、大型船の進行を阻んできました。この道を、大動脈として整備しようと考えたのが平清盛で、音戸の瀬戸の開削などは海運史上で画期的な功績でした。私が清盛に「海人」と名付けるのは、この海の道に注目した革命児の元祖だからです。 海人を「ウミンチュウ」と読む人がいますが、その読み方が一番似合うかもしれませんね。

F63、厳島は島そのものが神として崇められ、厳島の社は安芸一国の守り神とされている。しかし、神様も逃げ出しそうな、古くて、今にも朽ちそうな社殿は、清盛たちが始めてこの地を訪れた十数年前と変わっていない。

安芸の宮島は、日本三景の一つとして有名ですが、人の住める島ではありません。

今でこそ、観光関係の人々が数多く住んでいますが、島で取れる農産物や、海の幸を加えても、数十人の命すら賄うことは出来ないと思います。中央に聳える岩山は、果樹の栽培にも適しませんし、海に繋がる海岸線は、岩礁と砂浜ですから穀物の生産は出来ません。そうですね、ニュースに出てくる尖閣諸島の父島、あれにそっくりの島です。太古の昔は無人島だったでしょうね。しかし、瀬戸内航路の要衝に位置します。宮島の白く輝く岩山の頂を灯台代わりとして、広島側に回り込めば、安定した安全な海路が得られます。そう、灯台としての価値が非常に高かった島だったでしょう。

宮島の本名は厳島(いつくしま)です。神社が出来たから、宮の島、宮島になりました。

この名前は、古代の海の三女神の二女、イチキヒメノミコトに由来します。イチキヒメを祀る島、イチキ島が厳島の由来です。宗像三女神について詳しく説明するのは省略しますが、朝鮮半島と日本を結ぶ海の道の守り神こそが、宗像神社(福岡県宗像市)です。

宗像から壱岐に渡り、沖ノ島を経て対馬に向かい、そして釜山へ…、これが大陸との主要交通路でした。天皇家にとっては、命綱とも言うべき重要ルートでした。

天智天皇の時代に、白村江の戦いで破れ、大陸と絶交してから、宗像にあったイチキヒメの価値がなくなり、国内志向になった奈良朝は、瀬戸内航路に重きを置くようになります。

イチキヒメの役割は国際航路の玄関口から、瀬戸内に配置転換されましたね。

この社に執心した清盛、国際ビジネスへの並々ならぬ意欲が読み取れます。東シナ海の海路は宋、朝鮮に任せ、瀬戸内海路を開拓することによって、福原(神戸)を国際港にしようと、壮大な国土改造計画を立案します。博多と神戸、その丁度中間に位置するのが厳島です。戦略拠点ですよね。この発想こそ、改革者の凄いところです。

清盛、信長、龍馬、・・・それに続きたいものですが、現代の政治家に期待するのは無理でしょう。尖閣列島、竹島の問題、現政権の弱腰対応を見たら、清盛は烈火のごとく怒るでしょうね。「オメェら、アホか!!」と。

歴史認識とは・・・そういうことです。

F64、長く続いた院政が途切れたのは、時忠たちが後白河院の皇子・憲仁を東宮に立てようと画策した一件が大きく影響しており、この時期、二条帝が自ら政を行う親政となっていた。

時忠の陰謀について、NHKドラマはサラリと流しますが、これはその後の展開上、かなり重要な事件でした。後継者を誰にするかというのは、政権にとっても、企業の経営にとっても最重要課題で、将来の進むべき道を決定付けることになります。

世襲の是非は様々な意見のあるところですが、これほど安定的な政権の継続はありません。後継者が、よほどのアホでない限り、安定的に現状維持が出来ます。北の将軍家を見てください。国際孤児、テポドン、ピカドン、親子丼でも、北朝鮮では動乱が起きていません。「まぁ、しょうがねぇ」が通用するのです。

その意味で、時忠、教盛のしかけた皇太子工作は悪くなかったのですが、功を急ぎすぎました。「コンセンサスを取る」「諮る」という過程を無視して、性急に事を進めた結果、陰謀、謀略として、犯罪行為になりました。

文聞亭は、かつて「はかるのススメ」と題した一文を書いていますが、「はかる」には随分と沢山の漢字が用意されています。その漢字の一つ一つの意味が、皆違います。仕事の進め方のプロセスにあわせて並べてみましたが、いかがでしょうか。

課題形成…何が問題か、課題を明確に、具体的に定義する

企画立案…解決策を考える、複数案から最適のものを選ぶ

実行準備…ヒト、モノ、カネ、時間など、実行に必要なものを準備する

合意形成…プロジェクト推進への意識あわせ。目標の共有

実行  …進捗の調整、修正、督励

評価  …問題は解決したのか、再評価

どのステップでも、よくよく…「はかる」ことが大切ですよね。

F,65、清盛は千体の千手観音像を奉安する御堂を献上した。蓮華王院と呼ばれるその御堂は、それは華麗なもので、後白河院は狂喜乱舞なさった。

蓮華王院とは、修学旅行のメッカ、三十三間堂のことです。「千体の中には、必ずあなた自身がいる」などといわれ、私は京都時代に、延べ数十時間ほど座り込んで探して見ましたが、私を発見することが出来ませんでした。寺の坊主に、それを言ったら、「それは、あなたが、あなた自身を分かっていないからです」と、一発で撃退されました(笑)。

あれだけの仏像を作らせたのは後白河、そしてその入れ物を作ったのは清盛、どちらも、たいしたものです。京都の名所旧跡は飽きるほど見ましたが、一番奥の深いのは三十三間堂ではないかと思っています。運慶作の風神、雷神もありますしね。

また、自分探しに行って見たいものです。

F,66、二条帝はすみやかに順仁様にご譲位され、七月七日、まだ乳飲み子の六条帝が誕生した。その僅か二十日余り後、二条帝は、御年僅か二十三歳で崩御された。

清盛は中納言、大納言と、順次政権に近づきます。息子の重盛も参議、公卿になります。

そして、策謀家、時忠も「出雲島流し、懲役一年」の刑を終えて帰ってきます。

いよいよ、やりたい放題。夢に向かってまっしぐら…になります。

清盛大改革、国土改造計画の始まりです。