海人の夢 第29回 政権中枢

文聞亭笑一

平治の乱は、クーデター発生から二十日余りの短期間でした。そして、それが終わった後、一ヶ月余りの間に、信頼、義朝に組した者たちは、ことごとく処刑されてしまいました。その中で、例外が頼朝、今若、乙若、牛若の4兄弟ですが、彼らをなぜ処刑しなかったかは、当時の常識からすると意外です。

義朝は、逃げ落ちる時に、わざわざ部下に指示して、成人の娘たちを殺しています。

他人の手にかかるくらいなら、自らの手で…という判断でした。

吉川「新平家」でも、今回の藤本脚本でも、通説どおり、義母の池禅尼のとりなしと、清盛の油断、慢心の結果だとしていますが、果たしてどうでしょうか。常識とは違う処分をするのですから、それなりの理由、思惑があったものと思います。

軍事的緊張感を維持するための囮(おとり)ではなかったか。息子たちをはじめ、平家の者たちが、武士としての自覚を忘れないための獲物として、わざわざ関東に流したのではないでしょうか。関東には源氏のシンパが数多く残っています。平氏の勢力が強い西国ではなく、そういう源氏のシンパの多い勢力圏に、わざわざ流罪にするということが不思議に思います。頼朝を伊豆に放し飼いにしておき、頼朝を担ぎ出そうとする勢力を見つけ出し、各個撃破していく、そんな戦略だったように思えます。いわば囮捜査ですね。その後の、石橋山の合戦などは、それが図に当たったケースのように思えます。が、清盛、重盛亡き後の平家には、その戦略を実行する力量のある武将、政治家がいなかったため、囮のはずの頼朝が、猛獣に化けてしまったのではないでしょうか。

今週の放送は、滋子の皇室入りが中心のようですが、その部分はテレビに任せて、清盛が政権中枢に駆け上がっていく姿を追ってみます。

37、いつかわからないが、上皇が法皇になられたときこそ、平家一門が天下に覇を唱える機会をつかむときだ、と清盛は考えている。これまでのような公家政治ではなく、自分のような武士が豊富な兵力を持てば、天下に恐れるものはない。

武力と、貿易による財力を基盤にした、軍事政権。これが清盛の目指した政治だったと思います。他人の働きの成果を掠め取る(かすめとる)だけの公卿政治から、自らも経営をして豊富な財力と、兵力を維持し続ける、というのが清盛の基本戦略です。官僚による、官僚のための政治というのが公家政治なら、企業家による企業のための政治というのが清盛流です。

その意味では、平成の「政治家主導」を謳い文句にした民主党の政権交代も、それと似たところがあります。自民党による「企業のための、官僚による政治」から「政治家による、政治家のための政治」に代わりました。その結果ですね。政権を執って以来、政局ばかりで、何も成果を残していません。永田町の、村社会での内輪もめばかりで、早3年がたちますし、政局大好きな四六の蝦蟇と、鳩ボッポ、幽霊オジサンがドジョウを虐めて遊んでいます。

財力と武力を自己調達する、ということが出来るのは、保元平治の乱で、平家一門が任官した国の数が十七カ国にも及びますから、当然かもしれません。この当時、平家一門が国主を務める国々は、播磨、筑前をはじめとする瀬戸内沿岸、越前、加賀、尾張、三河などの穀倉地帯、さらに常陸、上総などの東国にまで及びます。生産と流通の双方を抑えた巨大企業ですよね。圧倒的競争力を持ちます。

38、双方の間に挟まれて、時々清盛も困ることがあったが、先々のことを見通すという点では、はるかに上皇のほうが天皇よりも上であった。それは父と子という差だけではなく、生来のご気性の違いであろう。

宮廷内は、相変わらず上皇と、天皇の双頭政治です。党と政府が別々の思惑で動いていた先日までの政権与党と同じです。いや、現代版のほうは、まだ続いていますねぇ。小沢の乱は決着がつきましたが、鳩ポッポ他、ことあるごとに政府に「反対」を唱えますから、平治の宮廷と全く同じなのが、現在の政府与党でしょう。

清盛は、天皇、上皇に等距離の姿勢を保ちます。それがまた、清盛の政治的影響力を高めます。第3勢力というのでしょうか、どちらの陣営も清盛の協力なしには政治が前に進まないのです。上皇も、天皇も、清盛にキャスティングボードを握られた形で、清盛が両者の間を取り持つ役割を担います。

宮廷での揉め事の殆どは人事案件です。誰をどの役職につけるか、つまり、どの利権を誰に与えるか、ということですから、情実が絡みます。・・・絡む、というより、情実そのものですね。天皇の取り巻きと、上皇の取り巻きの利権争いです。

引用した部分は「先々のことを見通すという点では」と表現していますが、もっと直接的に言えば、天皇は家柄、過去の功績を重視し、上皇は実力主義だということです。現代の人事制度も、年功序列から実力主義に移りつつありますが、世の中が変化していくときには、この両者が葛藤します。

39、父の自信を、重盛は、恐ろしいと思った。やがては父の自信が、禁裏をも動かすほどの力を持ち、そのために敵を作るのではないか、という危惧も、重盛にはあった。

清盛は、いわゆる創業者タイプです。自ら考え、自ら果断に行動します。

一方、重盛は二代目タイプ、勉強家で、安全第一の理論派です。

ですから、天皇と上皇の関係が、平氏一門の中でも、同様に起きていました。

「上皇(法皇)を後ろ盾にした武士(平家)の世を作る」ことが、清盛の目標ですが、重盛から見れば、天皇家に対し奉り、畏れ多いことです。天皇を無視し、上皇を道具に使おうという清盛のやり方は、不敬罪にあたるのではないか、神仏の罰が当たるのではないか、と心配でたまりません。保元の乱以降に、信西入道がやった政治と、その結果が記憶に新しいところですから当然です。

更に、重盛にとって心配なのは、弟や叔父たちが、いまひとつ頼りにならないからです。いずれは、自分が父から一門、すなわち企業を引き継ぐことになるのですが、信頼すべきブレーンが見当たらないことです。中でも、叔父の時忠が勝手に、我が物顔に動き回ることが不安でなりません。もともと藤原家の人間なのですが「平氏にあらずんば人にあらず」などと広言を吐き、宮廷をかき回しています。叔父の教盛も、それと一緒になってはしゃいでいるのも気がかりです。清盛ならば、大きな包容力で意のままに使いこなすでしょうが、若い重盛にはそこまでの度量はありません。伯母の滋子が上皇の後宮に入り、それがまた、滋子の兄である時忠を増上漫にしていきます。

父が心配というより、重盛の心配は一門の者たちの浮かれ具合が心配だったと思います。

政権をとったとたんに、子分を引き連れて中韓に漫遊旅行に行き、外国人参政権をぶち上げた男。出来もしない、メドも無い「県外移転」を叫ぶ男。「ダム中止」「子供手当のバラマキ」「仕分けの女王」…、おごる平家は久しからず、という歴史の教訓を知らぬ人たちが多くて、国民の皆様は苦労させられます。

40、「その人のなしたる事の功罪は、五十年百年を隔てて、評価が定まるものと存じます。それも、人によって違いましょう。あるいは白と見る、黒と見る、双方に分かれても致し方ございますまい」

清盛と美福門院の会話から引用してみました。人の評価は千年たっても定まりません。清盛の評価が、時代の時々によって変遷していくのがその良い例です。おごる平家の代表として語られ続けたのは軍事政権が続いていた800年間でした。特に明治から昭和にかけては「天皇家をないがしろにした極悪人」の扱いで、足利尊氏、徳川家康と並んで歴史上の3悪人とされましたね。

しかし、戦後、吉川英治の「新平家物語」が出るに及んで、評価は一気にマイナスからプラスに転じました。人間天皇、輸出拡大、貿易立国「追いつけ、追い越せ」が国是となると、その最初の為政者として、英雄に祀り上げられます。

人によって違いましょう。

あるいは白と見る、黒と見る、双方に分かれても致し方ございますまい」

まさしく、その通りです。明治維新の影の功労者である勝海舟も行蔵は我にあり。評判は人の勝手。と、開き直っていました。行蔵とは「何を思って行動したのか」ということです。それはその人にしかわからぬということです。

現代はマスコミが全盛を誇る情報化時代ですが、彼らの評価は実に薄っぺらな正義感と、屁理屈の上に成り立っています。「天上天下唯我独尊」の偽専門家を使って、大衆を騙します。その手に乗らぬことですね。彼らマスコミこそ、現代の悪公家ですから・・・。