乱に咲く花 14 戊午(ぼご)の密勅

文聞亭笑一

風雲急を告げてきます。萩の・・・片田舎の、松陰の想いとはかかわりなく、外交は相手のある話です。こちらの思い通りには進捗しません。通商条約が締結されます。

この当時の幕府の基本的な外交姿勢は「問題先延ばし」でしたが、これは世界の常識を外れていました。太平洋戦争で、日本軍の山下元帥が英軍に対して「YesかNoか」と迫った話は有名ですが、幕府は同じ状況で「YesかNoか」を迫られていたのです。

問題先延ばし・・・という戦術を使った最初は、ペリー来航時の老中(首相)阿部正弘でした。「国民の総意を聞かねばならぬ」と、外様大名はじめ江戸の町民にまで意見を求めました。

次が堀田正睦です。「日本には天皇(国王)がいる。幕府(政府)は官僚機構である」と、主権を朝廷にすり替えて、「朝廷の承認を得ねばならぬ」と時間稼ぎをしています。

いずれも、戦争(攘夷)か、開国(通商)かの決断がつかなかったのです。

優柔不断、ケシカランと、時の為政者を批判するのは簡単ですが…

私たち一般庶民は、このような状況には慣れていません。が、似たようなことは折に触れてありますよね。例えば・・・押し売りのヤクザがやってきます。最初は甘い言葉で誘い、こちらが判断しかねていると脅しにかかります。ペリーの黒船というのはまさにヤクザの押し売りで、脅迫でした。日本政府(幕府・阿部総理)は時間稼ぎをします。「閣議に諮って…」と。

開国(外交開始)した後、ハリスは通商条約を求めます。通商条約という商品の押し売りが始まります。買う気はないのですが…なりゆきで・・・買わないと具合が悪い状態に追い込まれます。そこで・・・堀田正睦総理は「財布を握るのは妻だから…」と逃げます。そうこうしている間に、妻(朝廷)は「うちの父ちゃんは頼りにならないんだから…んたく…」と亭主を見限って正論を吐き出します。この妻も…水は三尺流れれば清流・・・という信者で、

「♪そのうち何とかなるだろう」というスーダラ節の世界に生きています。

「押し売りは追い出せ!」と叫ぶ松陰も、水戸藩を中心とする攘夷勢力も、攘夷浪人も、押し売りの正体を知らず、世間の常識を知らず、頭の中だけで正論を繰り返すだけの青二才ではなかったか…と、思ったりします。「井の中の蛙 大海を知らず」国際社会の情報を全く知らずに260年間過ごして来たツケが回ってきました。その意味では攘夷、開国の争いは幼児の罹る麻疹のようなものでしょう。

松陰はこの時期、公家にも絶望し、大名も頼むべからず、ついに救国の革命事業はそのような支配層よりも革命的市民(草莽)の一斉蜂起により遂げざるを得ないと思うようになった。
(司馬遼太郎 世に棲む日々)

まさに市民革命のような発想になります。松陰が…ここまで追い込まれたのは失望、失望の繰り返しからだと思います。

松陰は、もともと体制派の孟子や孫子の信奉者でした。藩主の毛利敬親にも可愛がられ、いわばエリートとして江戸に出ます。そして佐久間象山に出会い、海外列強との技術格差に驚嘆し、密航してまでもその技術を習得しようと挑戦します。向学心旺盛な若者でした。

が、法律に関しては無頓着な方で、脱藩、密航などの罪に問われます。「悪法といえども法は法である」と死を選んだソクラテスに似て、獄舎に繋がれますが、それでも自分の夢を追うタイプでしたね。ただ、自由を奪われたがために自家発電というか、頭の中だけで思想が先行して人生の後半は暴走気味になります。これが思想や哲学・宗教の怖い所で、現実という刺激を受けてのリセットが利かなくなります。思い込んだら命がけ・・・オーム真理教とも大差ありません。松下村塾の後半はまさにオームに似た行動でした。

薩長史観の維新史では、長州の松陰、薩摩の西郷を偉人として讃えますが、どちらも偏向していたのではないか…という疑いは消えません。

戊午の密勅と言うものが出ます。これは井伊体制を叩き潰そうと水戸斉昭が中心となり、公家を使って朝廷から幕府改革、つまり井伊大老を罷免せよという密勅をもらったというものです。これに一番働いたのが攘夷学者、梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星巌でした。
半藤一利 幕末史

京の公家たちは、ペリー来航以来の情勢変化に「朝廷の権威復権」への期待に沸き立ちます。260年間「神主の親方」という身分であったのですが、「政権が取れるかもしれない」という期待に沸き立ちます。阿部正弘、堀田正睦と2代続いて総理大臣が勅書を欲しがりますから、より高く売る方策を考えます。

これに論拠を与えたのが学者たちです。引用した部分に出てくる三人を筆頭に、攘夷論の屁理屈までくわえたら学者先生はごろごろいました。その基本は「尊皇」で、歴史的には、「平安の世に戻せ」と言うものです。孝明天皇などは、誰に吹きこまれたのか

「天照大神以来、我が国の国是は鎖国である」などと信じ込んでいたようです。まぁ、そういうことが通用するほど朝廷、公家の教育レベルが低かったということでしょう。

「貧すれば鈍す」と言いますが、当時の朝廷は開国・攘夷の双方から賄賂を集めるのに精いっぱいであったと思われます。

戊午の密勅なるものが出ます。勅とは天皇の命令です。

「慶喜を将軍とし、水戸藩が政権を取って攘夷を実行しなさい」

という意味の「天皇の命令」です。

これは、あからさまに「井伊政権を打倒して、幕府の実権を握りなさい」と言っています。

この密勅を得るための工作に活躍したのが信州松本藩の飛脚問屋「堤屋」の近藤茂左衛門と山本貞一郎の兄弟です。江戸と京の間を、現代のインタネットのようにつなぎ、水戸斉昭と朝廷を周旋します。当時としては驚異的な情報スピードだったと思います。早飛脚がひっきりなしに東海道を往復していたのでしょう。安政の大獄での最初の犠牲者は山本貞一郎です。

梅田はなかなか精密で、策もある。ただ天下の大計となると随分粗雑である。企画力はあっても思想なり海外知識なりと言うようなものが乏しかったために、計画が常に目先のことになる。将来への大きな見通しや遠大な国家改造ということになれば実にお粗末である。
雲浜は槍や刀だけで外国を追っ払おうという、いわば意気だけは盛んな、しかし知的な世界把握力を持たない単純攘夷論者にすぎなかった。
(司馬遼太郎)

梅田雲浜が維新ドラマで登場するのは今回が初めてですね。あまり知られた男ではありません。が、安政の大獄と言われる事件では主役の一人です。

若狭藩の浪人で、攘夷論を掲げて京に出て、その鮮烈な理論で一躍有名人になります。

更に社会運動家としての才能は抜群だったようで、京の公家衆をはじめ、町衆にも攘夷ムードを広げます。そう…現代でいえば菅直人。理路整然と嘘を言う…というタイプだったようです。市民運動家という人たちに共通することですが、目先の問題を歴史的大事件のように宣伝し、反体制を宣伝しますが政権を取った後のことは全くと言って良いほど考えていません。そういえば数年前に、「少なくとも県外」と発言して政権を取り、「学べば学ぶほどわかった」と前言を取り消した鳩ポッポほどではありませんが、…似たところがあります。

過激派に転向した松陰ですら、梅田雲浜を信用していません。信用していないのに…その主張にのめり込んでいく辺り…やはり行動を封じられた学者の哀しい所でしょうね。

「知っていることと、できることは違う」

これは実業の世界では当たり前の常識ですが、虚業の学者には理解できないでしょうね。

幕府内部では、国の安全、政治の安定を第一に考えるから、攘夷など論外になる。

一方、大名の家来や浪士、学者にとって攘夷は、やらなければならない政治目標になった。当時の攘夷派の主張を見ると、何やら使命感に後押しされるような一種の熱を感じる。

(幕末大名 失敗の研究  滝澤 中)

引用部分では「幕府・・・」と書いてありますが、これは現代にも通用する記述で「政権与党では」と読み替えます。攘夷・・・宣戦布告などは論外の、狂気の沙汰です。

現代の政治地図では、憲法第九条の「世界の平和を愛する国々の善意を信じて」というのが大前提ですが、与党は「信じない」と思い、野党は「信じる」と岐れます。

さてさて…どちらが正しいかを論ずる紙面ではありませんので、意見は差し控えますが、「信じる者は救われる」か「信じる者は騙される」か難しい所です。

さて、今週の「花燃ゆ」にはあまり知られていない与党の脇役が出ていきます。

松陰が暗殺を計画する老中・間部詮勝と、井伊直弼の参謀・長野主膳の二人です。

二人のプロフィールを紹介しておきます。

間部詮勝…越前鯖江藩主です。安政の大獄を指揮した行政府の責任者で、総務大臣兼警察庁長官という立場でした。この人はいわゆる能吏で、日米通商条約の事後承諾を朝廷に掛け合い、承認させています。薩長史観では「井伊直弼が無断で…」と書いてありますが、手続き上は無断で締結し、その後に天皇が認めたということです。ですから「順序が違う」と、批判はできても、無断で・・・は言い過ぎではないかと思いますね。

この人は政治力があったようで、11代将軍の家斉の時から老中(大臣)をやっています。

安政の大獄では井伊の赤鬼、間部の青鬼と怖れられましたが、理念なき政治家のようです。

長野主膳…国学者で井伊直弼の参謀。京都市中に秘密警察の網を張り巡らし、攘夷派を徹底的に弾圧したことで有名です。冤罪を捏造することにも長けていたようで、評判は良くありません。井伊直弼の評判の悪さは、多分に長野主膳の働きに依るものでしょう。