次郎坊伝 10 岡崎の苦悶

文聞亭笑一

先週は桶狭間の合戦にばかり注目して、井伊家の内情や、三河で独立を模索する家康には触れるほどの紙面がありませんでした。今週はそのあたりを補足しつつ、家康の動きを中心に時代を綴ってみたいと思います。

桶狭間で、井伊の被害は惨憺たるものでした。前回書いたように織田軍には二度、襲われたと思います。先ずは休憩中を奇襲され、蹂躙され、体勢を立て直そうとしたところを後方から信長本隊に襲撃されています。軍隊の隊形もそうですが、鎧という物も前からの攻撃は防げますが後ろには防護がありません。戦死者が出るのは退却戦が最も多く、攻撃中には怪我人は出ても死者は少ないのが普通です。

桶狭間で戦死した井伊勢は名のある者だけでも16人です。

井伊一族の奥山家では、彦市郎、太郎次郎親秀、彦五郎の三人が戦死

同じく一族の上野家では、惣右衛門、源右衛門、彦市郎、孫四郎の四人が戦死

一族ではありませんが家老の小野家でも、和泉の弟・玄蕃、源吾の二人が戦死しています。

奥山家の場合は、娘たちの嫁ぎ先の殆どが戦死しましたから被害甚大です。当主の朝利は自らも重傷を負っています。気が変になってもおかしくありません。小野但馬への不当な逆恨みも、そういう背景からでしょう。

岡崎の家康

桶狭間の今川軍の敗戦は、徳川(松平)家にとっては、まさに天佑です。岡崎城代として赴任していた今川の代官・岡部家の圧政に苦しんできた家臣たちにとっては、万歳三唱でしょうね。

岡崎城に戻った家康を、駿府に帰らせるはずがありません。

「織田方が再度攻め込んでくる。織田から三河を守る」と言う建前で、独立工作を着々と始めます。松平一門、石川、鳥居、大久保などの元々の家臣団を固めるのはもとより、今川に付いていた豪族たちを次々に徳川配下に組み入れていきます。これが、今川氏真に漏れないはずがありません。「対織田」という建前も通用しなくなります。反旗を翻したと見られて当然でしょう。

「独立すれば、人質の妻子・瀬奈と竹千代は危ない」

こんなことは百も承知です。が、事には勢いというものがあります。家康自身も苦悩したでしょうが、部下たちや三河の者たちの家康への期待に応えざるを得なかったでしょう。私人・家康としては妻子に未練があったでしょうが、公人・家康としては「部下たちの信頼」を捨てるわけにはいきません。妻子の生死には目をつぶります。

我々の世代は「生きるか、死ぬか」という選択はありませんでしたが、似たような場面は何度も経験してきましたよね。転勤・・・などはその一つで、家族夫々の人間関係を切り裂いて、公(会社)のために家族帯同で知らない土地に向かいました。

戦国時代は殺し合いの世界です。現代は行きすぎるほどの人権重視の時代です。この差を現代の視点で戦国を描きますから、物語の展開は不自然になります。仕方ありませんね。

この時の家康の心境を理解してくれていたのは、たった一人、石川数正だけだったと思います。

駿府での人質仲間は他にもいましたが、皆が今川憎しで、その反動が今川の姫・瀬名にも向かっていたでしょう。家康の揺れる気持ちを理解してはくれませんでした。

今川家の混乱

今川家は伝統ある足利一門の名家です。大会社です。社長が死んで業績が低下しても、倒産の危機に陥るほどの成り上がり企業ではありません。現代の「東芝」でしょうか。元々、今川家は当主が遠征中に戦死する…と言う歴史を繰り返してきました。義元はその三人目です。当主が亡くなっても閣僚が体制を支え、幼君の成長を待つ…と言うことを繰り返してきました。

それに比べて今回は息子の氏真が立派な成人男子です。尼国主と言われた桂春尼も健在です。体勢を立て直すには好条件が揃っていました。・・・にもかかわらず、混乱をきたしてしまったのは政権内でのNO2争いでしょうね。氏真は政治家と言うより蹴鞠の名手、清水エスパルズのエースストライカーと言ったタイプの人ですから、それを支える参謀の立場、官房長官に誰がなるのか、その点が不明瞭でした。鎌倉以来の名門・朝比奈親徳がその座にはいますが、重臣たちをまとめる力量がありません。有力者が「我こそは」と互いに競い合い、関心は今川家内部の主導権争いに向かっていました。この混乱が三河で徳川の独立を促し、占領地の遠江でも今川離れを引き起こす原因になりました。

瀬名と竹千代

瀬奈の父・関口親永も今川家の重臣で、氏真を支える一人なのですが、No2争いの中で「謀反人に娘を嫁がせた」「義理の息子すら従わすことができない」などと足を引っ張られ、レースから脱落します。更には「関口が教唆して謀反を起させたのではないか」などと謀反人の一味にさせられてしまいます。対抗馬を排除するためならなりふり構わず…というのは現代の政治家や、企業での派閥争いでも同様ですね。石原慎太郎を悪人にして、自分が良い子になろうとしている輩も、同様な政治駆け引きに見えます。

こうなると、瀬名と竹千代の命は風前の灯火です。謀反人に加担した者とその縁者は粛清するというのが戦国の常識ですから、公開処刑すらあり得ます。北朝鮮がそれですね。あの国は戦国ルールがいまだに生き残っている歴史遺産のような国です。

唯一の望みは、瀬名がかつて氏真の恋人であったこと、桂春尼のお気に入りであったことですが、家康の子を二人も生んでいては、それも通用しないでしょう。公開処刑や、死刑ではなく、自決させるくらいが温情でしょう。

今川の四囲の環境

三国同盟は締結されていますが、この時代の契約は、状況が変われば即座に反古(ほご)になります。義元が健在で今川は盤石である…というのが契約の条件ですから、義元が死んだら武田も北条も牙をむくチャンスです。しかも、今川家中が混乱しており、三河では家康が反旗を翻(ひるがえ)している・・・と云う情報は信玄にも氏康にも伝わっています。

にもかかわらず・・・なぜ?攻め込んでこなかったのか。

このころ、信玄は日本海を目指して信濃を北上していました。南の今川が攻めて来ないと勢力の殆どを北に向けていたのです。ところが…北には謙信がいます。川中島を挟んで両雄は乾坤(けんこん)一擲(いってき)の大勝負にかかっていました。松代城(海津城)に陣取る信玄、一方・その脇の妻女山に陣取る謙信、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく) 夜河を渡る・・・」有名な第4次川中島合戦の前夜の状況です。今川にちょっかいをかけている余裕はありません。

もう一つの北条氏康、こちらも前年に上杉謙信に攻め込まれ、小田原に籠城して、ようやく追い返したばかりです。上杉によって分散させられた勢力を再編成しなくてはなりません。さらに安房の里見、常陸の佐竹、下野の宇都宮や佐野、それに沼田の真田などがゲリラ的に反抗してきています。彼らを各個撃破して、関東での覇権を修復しなくてはなりません。さらに永禄飢饉と言われる不作の年で、財政にも余裕がありませんから、今川のことまで手が回りません。

もう一つ、徳川の後ろに控える織田信長ですが、こちらも桶狭間での勝利の勢いで東進するほどの余力はありません。北に控える美濃の斎藤との争いが控えています。

この環境が1560年-1569年まで、今川を生き延びさせました。今川体制が続くということは井伊谷の井伊にとっては、圧政地獄が続くということでもあります。西三河では、家康が独立活動を展開していますが、その波は遠江にまで及びません。

人質交換

ウルトラCのような話ですが、家康は一気に勝負に出ました。

岡崎を中心とする西三河の国衆は、独立を果たした徳川に従いますが、東三河には今川に忠誠を誓う二つの勢力があります。一つは豊川の牛窪(うしくぼ)城に陣取る牧野(まきの)成定(なりさだ)、そしてもう一つが蒲郡(がまごおり)の鵜殿(うどの)長照(ながてる)です。とりわけ鵜殿勢は義元の妹婿であるという縁戚で、今川家の三河支配の根拠地でもあります。義元が健在であったころは三河の代官のような位置にありました。

家康は、これらの城の与力衆を次々と調略、または力攻めで落としていきます。孫子でいう「侵略すること火の如く」で、草原の野火が広がるように、周りから潰して孤立させていきます。

先ずは豊川の牧野が降伏して家康の軍門に下ります。この牧野氏・・・その後家康の配下として活躍し、越後長岡城、信州小諸城などの城主になった、あの牧野家のルーツです。記憶している人はいないと思いますが…昨年の真田丸では、神川の合戦で牧野勢がフライングして、徳川軍が総崩れになった原因を作りましたね。戸田、水野などと共にこの頃から徳川に参陣しています。

押し込まれた鵜殿長照の上之郷城ですが、さすがは今川の縁戚です。降伏はしません。ただ、この城はいわゆる平城で、防御力が弱いのです。三河の殆どの国衆が徳川に付き孤立無援では支えきれませんでした。

長照は城を枕に討ち死にし、子の氏長、氏次は捕らえられます。この子らは今川義元の妹の子ですから、桂春尼の孫に当たります。氏真にとっては甥です。

この二人を質ものに、瀬名と竹千代を取り返そう…こう発案したのは石川数正(数正の祖父・石川安芸?)のようです。こういう発想が出るのは織田家に人質になった竹千代(幼少期の家康)を、人質交換で取り返したことがあったからでしょう。同じことを二度目にやろうというのです。

使者に立ったのは石川数正です。家康と一緒に駿府で人質生活を送っていましたから、今川家の主だった者たちとは面識があります。それどころか、雪斎禅師からも、桂春尼からも「家康より数正が三河の代表になった方が良い」と気に入られてもいました。さらに言えば…河内源氏の末裔である石川家の方が、出自のはっきりしない徳川(松平)よりも家格が高いのです。こう言うことを重んじる今川が、石川数正との交渉で甘くなりました。

渋る氏真を孫可愛さの桂春尼が説得し、瀬名と竹千代、亀姫の三人と、鵜殿長照の遺児二人の人質交換が実現します。家康にとっては一旦諦めた妻と子が手元に戻ってきました。三河一国の独立も成し遂げ、一安心といったところです。

揺れる老大国・今川と、新興勢力の徳川・・・井伊直親の気持ちが徳川に憧れるのは当然ですね。