20 桶狭間(2020年5月27日)

文聞亭笑一

光秀を舞台回し役にして、戦国時代の後半を描こうというのが今年の「麒麟」でしょう。

長良川の合戦に敗れ、越前に逃亡して10年余りの浪人生活をしている光秀が歴史に登場する場面はありません。

とは言え、前回もありました通り、京都への行き来は何度かあったと思われます。

将軍家、公家を含めた朝廷との折衝で「将軍家奉公衆・明智」の家名は朝倉義景にとっても都合の良い連絡役になります。使い走り・・・そんな役回りだったかもしれません。

桶狭間の戦

光秀が越前に逃亡してから4年後の1560年に、戦国の歴史を左右したとも言われる桶狭間の戦が起こります。

戦国大名・旧勢力の代表とも言える今川義元と、下剋上で成り上がった新勢力の代表・織田信長が戦い、「新しい波が古い体制をうち破った・・・画期的事件だ」と歴史教育で教わりました。

地方区の「名古屋市長」程度の実力であった信長が、全国区の政権を目指して国政に参加する、天下布武への第一歩です。

歴史と言うのは結果論でしゃべりますから、桶狭間が歴史的瞬間であったように伝えますが、やっている当人同士、今川義元も、織田信長も、それほどの重大事とは思っていなかったと思います。

それぞれの立場から「嫌な奴」「この野郎め!」と思う相手が戦いを挑んできますから、受けて立っただけでしょう。

桶狭間の合戦は、江戸時代になってから、儒教思想をベースにした小説家・小瀬甫庵が書いた「信長記」「甫庵太閤記」の記述が、あたかも事実・ノンフィクションであるかのように信じられてきました。

が、これは甫庵の主観を交えた小説のような物で、その小説に司馬遼太郎や山岡宗八がさらなる創作を加えますから、戦国を代表する大合戦になりました。

「5万にも及ぶ今川軍を僅か2千の織田勢が奇襲し、今川義元を討ちとった」

と、大奇跡、軍神、鬼神の如く描かれます。

しかし、同時代に「三河物語」を書いた大久保彦左衛門は小瀬甫庵の作品を「イツワリオオシ」と切り捨てます。面白おかしく、誇張が多かったようです。

奇襲による大戦果・・・近世の「トラトラトラ」の真珠湾攻撃を含め、日本人は大好きです。

日本3大奇襲・・・という軍記があり、その第一に挙げられるのが「桶狭間」です。

ついでですから、残りの二つを紹介します。

「川越夜襲」 古河公方・上杉軍の巨万の大軍に攻められ、川越城に追い詰められた北条氏康が夜陰に紛れて逆襲し、敵を散々に討ち破った・・・というもの

「厳島合戦」 毛利元就が、大内家の実力者、陶晴元を厳島に夜襲、奇襲し討ち取った。

これとは別に、関西では義経の「鵯越の戦」を入れたりもしますね。

「川越の夜戦」は北条を倒した秀吉や、その後関東に入った家康が意識的に評価を貶めます。

前任者の手柄は嬉しくないものですからね(笑)

江戸時代には戦記物が沢山発行されました。が、いずれも神君・家康を賛美するものが多く、事実を記録したとは言い難いものばかりです。講談、浪曲の類でしょうか。

尾張攻略へ今川義元の狙い

上洛のための進軍・・・と言われることが多いのですが、どうも・・・そうではなかったようです。義元は将軍・足利義輝を買っておらず、関東にある古河公方を押し立てて「東国連合」を結成し、その盟主になることを狙っていたという説もあります。

雪斎が主導して結成した「甲駿相三国同盟」を軸に、腐敗した都の勢力を蹴散らし、将軍家を立て直すという構想があったようで、そうなると上洛して旧将軍に挨拶などしている尾張の織田、美濃の斉藤、越後の長尾(後の上杉)などは「不逞の輩」にもなります。

では、義元が尾張へと侵攻したのはなぜか?

1、上洛のため…は、殆んど可能性が消えました。

   織田を倒した後の通路、斉藤(美濃)、六角(近江)への工作がありません。

   双方ともなぎ倒す・・・には、計画がずさんです。戦力も足りません。

2、織田を倒して尾張を手に入れる。

信長が降伏して来れば傘下に入れるが、さもなくば叩き潰す・・・と云う戦略ですが、これも可能性が薄いですね。信長にゲリラ戦をやられたら面倒です。

3、西尾張までを版図に加え、支配下地域(駿河、遠江、三河)を確実にする。

  これではないかと思います。とりわけ伊勢湾の制海権をめぐって、今川水軍が攻勢を強めていました。伊勢沿岸を勢力下に収めつつあり、蟹江に拠点を作っていました。

  織田家の財源は津島と熱田の港です。これを圧迫していきます。

今川軍5万は大誇張で、2万5千ではないかと言われます。

しかも、そのうち1万5千は先鋒として大高城や各地の砦攻撃に向かっています。

さらに兵糧部隊(非戦闘員)が5千ほどいたと思われますから、今川本体は5千・・・この目的のためなら、それで十分な人数です。

今川義元は、心半分「物見遊山」の気分で尾張に進軍していた・・・とも言えるのではないでしょうか。その日も、大高城や鳴海城の戦勝の報を聞いてから拠点の沓掛城を出ています。

「桶狭間は窪地だった」と言われますが、義元が昼食のための陣を敷いたのは、桶狭間山だと記録にあります。高所にいたのです。戦闘の混乱を避けて、大高城に避難しようと山を下りた所で織田軍に遭遇したようですね。

勝者は誰か

勝ったのは信長ですが、儲けたのは家康だったでしょうね。人質という名の刑務所暮らしから抜け出して、父祖の地・岡崎城を回復します。旧臣たちも戻り、松平家の再興ができました。勿論、今川氏真はそれを認めませんが、居座ってしまえば今川も手出しできません。

西三河を実効支配し、後には織田と結んで今川と敵対していきます。

武田信玄も儲けた一人ですね。桶狭間には武田軍も支援部隊を派遣していましたが、後方にいて事件を全く知らなかったようです。それを「武田は働かなかった」と非難されたのを口実に、三国同盟を破棄して今川領に攻め入る口実にして行きます。

後に家康との間で「今川領 分割協定」を取り決めます。駿河は武田に、遠江は松平に

戦ったのは信長ですが、領土を手に入れたのは信玄と家康でした。