どうなる家康 第7回 三河一向一揆
作 文聞亭笑一
家族を取り戻してなんとか一段落しましたが、まだまだ三河の平定には至りません。
上之郷城を落として、義父の久松・松平に預けましたが東三河の拠点吉田城(豊橋)は依然として今川家の配下にあります。
更に、身内が割れてしまう様な大事件が勃発しました。三河一向一揆です。
三河一向一揆
三河地方は今川治世下にあっては「占領地」だったこともあり、宗教に関しては寛容でした。
家康の父、先代の松平広忠が一向宗の寺に与えた「不入権」をそのまま踏襲していました。
「不入権」とは・・・寺院の支配地域に対して警察権、税の徴収権を与えると言うもので、一種の治外法権です。
寺の領域は領内にあっても、領主の支配権の及ばない地域と言うことになります。
三河にはこの特権を持った一向宗の寺院が4つありました。
上宮寺、勝鬘寺、本証寺、本宗寺です。寺領は寄進によって拡大を続けます。
蚕が葉を食うように・・・。
家康が岡崎に入った頃、一向宗の寺々は「不入権」の特権を利用して信者を増やし、支配地域を広げ、更に商業利益も拡大して三河を蚕食していました。
家康にとっては身中の虫です。
事件の発端は上宮寺に対して酒井家が兵糧調達のために米の供出を求めたことからでした。
これは家康の指図で仕掛けたことです。
父が与えた特権をご破算にする・・・という意思表示でもありました。
これに対して一向宗は猛反発します。
それはそうでしょう。
既得の権利を奪われたら怒ります。
かくして半年間に及ぶ三河の内乱、三河一向一揆が始まりました。
家康の誤算は松平の臣下の三割方が一向宗信者で、敵方に付いてしまったことです。
図にある通り、岡崎城の周りは一揆勢の拠点ばかりです。
写真
一揆勢の総大将には蜂谷半之丞、その参謀として本多正信などなど・・・侍大将クラスが敵に回ります。
さらに、城持ちの実力者達も反乱軍に参加します。
上野城の酒井、東条城の吉良、荒川城の荒川の三者です。
そして家康の重臣である石川数正、酒井忠次の身内も、本多党も一向宗の門徒なのです。
敵の拠点は四つの寺と、三つの城・・・なんとも厄介です。
一族を挙げて一向一揆と戦ったのは大久保忠世以下の大久保党でした。
大久保党は岡崎城の南、上和田の砦によって一揆勢の進撃を食い止めます。
壮絶な戦いであったようで、大久保彦左衛門が三河物語で「徳川家を支えたのは大久保党だ」と自負するのはこの死闘でしょうね。
「死ねば極楽」と「南無阿弥陀仏」を唱えてひたすら前進してくる敵・死兵は・・・怖いですね。
大久保党と共に、一揆撲滅に働いたのは服部半蔵達の伊賀者でした。
上和田砦へと押し出した一向門徒で留守になった寺内町、門前町に忍び入り火を掛けます。
門徒宗は商人が多く、利には聡いので後方で自分の財産が失われるとなると、宗教的熱狂から目が覚めます。
攻め寄せる勢いがなくなり、足並みは乱れ、火を消しに戻る者も出ます。
一向一揆とは
そもそも一向一揆とは何でしょうか?
一向宗とは、親鸞が開祖となった浄土真宗のことです。
浄土宗、日蓮宗、禅宗と並んで鎌倉時代に興隆した仏教の新興宗派です。
この一向宗が戦国の政治的混乱と、庶民の貧困による不満を巧みにすくい上げて政治運動化したのが一向一揆です。
反政府、反体制というのが表看板になりますから、現代の「革新野党」と共通点があります。
現代は赤旗デモ、戦国は莚旗一揆です。
戦国時代の政治混乱は「幕府」という体制派と、自主独立を目指す地方実力者(戦国大名)とのせめぎ合いの側面もありますが、そこに朝廷と宗教勢力が絡んで複雑化します。
そもそもは、政治家が宗教勢力を利用しようとしたことから、宗教勢力の発言力が異常に高まってしまいました。
現代の為政者も、注意しないと連立を組む宗教勢力(?)が暴れ出す可能性もありますね。
一向一揆の本来の始まりは法華宗(日蓮宗)との宗教論争、教義に関する紛争です。
この争いに幕府の重鎮であった細川家が政治利用しようとして口を挟み、問題を大きくして反体制運動として火をつけてしまいました。
幕府側の失策です。
一向宗は京都・山科の本山を追われ、大阪石山へと待避します。
政治目標をアンチ日蓮からアンチ幕府・為政者に方向転換し、反体制運動になります。
一向宗の強い地域では反領主運動になっていきます。
一向宗は畿内、北陸、美濃、飛騨、三河などに信者が多く、彼らは反体制の気運を高めていきます。
加賀では領主の富樫家を倒し、一向宗が政治権力を握りました。
信玄と家康 (司馬遼太郎:「覇王の家」から抜粋)
今回は物語の本流から離れて、家康の宗教観を考察してみます。
この項は準備が整い次第ユーチューブに投稿します。
大阪人で太閤贔屓、秀吉派の司馬遼太郎にとって、家康という人物は好みではなかったようです。
従って家康とその家臣団については辛辣な評価になります。
どうやら家康には、信玄の性格と相似たところがあるらしい。
例えば家康は信長を真似なかった。
家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、始終信長に引きずり回され、それほど深い縁を結んだ割には、家康はついに信長の好みや思考法は真似ず、晩年も信長という人物についてそれほど褒めあげるような談話を残していない。
秀吉に対しても同じである。
家康は秀吉に仕えているときは自分の毒気をいささかも見せず、常に慇懃であった。
しかしその時期、内々の場で家来達に密かに漏らす言葉は「秀吉のあのやり方に染まるな」と言うことであった。
例えば茶の湯がそうであろう。
信長・秀吉の好みによってあれほど一世を風靡した茶の湯についても、徳川家の諸将だけはそれに染まらず、そういう会合に出ず、家康の好み通り依然として三河風の素朴さを守り続けていた。
家康とその三河侍の集団は豊臣期の大名になっても農夫臭く、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべき事に少しも参加していない。
彼らには、他の大名を魅了した永徳も利休も南蛮好みも何もなく、自分たちの野暮と田舎くささをあくまでも守った。
・・・略・・・
家康は味方の信長から学ばず、敵の信玄に心酔したところがいかにも妙で、三河者にとっては商人の臭いのする尾張者よりも、同じ農民の臭いのする甲州者に、より親近感を持ったのかもしれない。
家康の宗教観(司馬遼太郎)
啼かぬなら 殺してしまえホトトギス 信長
啼かぬなら啼かせて見せようホトトギス 秀吉
啼かぬなら啼くまで待とうホトトギス 家康
上記のホトトギスの歌で信長、秀吉、家康の政治姿勢を比較することが多いのですが、その元となる宗教観というか、人生哲学のありかを司馬遼太郎が探っています。
家康が宗教に対峙する姿勢も信玄に近かった。
信長は先鋭な無神論者であり、神仏を否定した。
秀吉はそういう思想はなかったにせよ、無信仰であった。
家康は、やや違っている。
庶民的な浄土宗の良き檀徒であり、戦陣にも「厭離穢土、欣求浄土」の旗を掲げた。
それからすれば信玄は遙かに中世的な信仰者で、彼にすれば浄土宗すら新興宗教であり、仏教の権威は叡山の天台宗であると尊んでいた。
そして叡山から贈られた「大僧正」の位をことのほか喜びもした。
信長に対する評価はその通りだと思います。
徹底して既存の権威を否定しました。
将軍だの、朝廷だの、位階だの・・・徹底的に無視します。
そのくせ利用できる者は便利使いするために、キリスト教や法華教などが優遇されたりします。
但し、彼らの教義などは全く信じては居ません。
信長が「アーメン」だとか「南無妙法蓮華経」などと決して口にすることはなかったと思います。
キリスト教からは西洋の新知識、新技術が欲しかっただけで、トコトン利用しました。
秀吉は信長の「宗教の便利使い」というところだけ真似ました。
秀吉の思い通りにしなくなったキリスト教などは早々に布教禁止、国外退去にしています。
朝廷の権威も、自らの権威付けのために位階と権威を利用すべく、藤原氏の養子になるなど・・・これまた「便利使い」です。
信長、秀吉にとって宗教は政治、経済の道具で、それ以上でも、それ以下でもありません。
それに比べると・・・家康には多少の宗教心があったのかもしれません。
しかし、仏教の各宗派や朝廷(神道)とは一線を画して、自らの政治理念を打ち出すために儒教というか、論語の哲学を持ち込みました。
神道でも仏教でもない儒学、武士道などと新たな政治理念を打ち出しました。
家康の持ち込んだ倫理観が徳川260年を支えたとも言えます。
この幕府の宗教政策、倫理観を否定するために、明治政府は天皇を神に祀り上げるべく神道を掲げ、廃仏毀釈などというバカなことをやりました。
明治政府、薩長政権の大失策です。
その結果と、敗戦による神道的宗教観の喪失で、戦後の日本人の宗教観は大多数が秀吉型になってしまいました。
倫理観なき自由主義の暴走です。
社会を安定させるためには「法」という縦糸と、「倫理」という横糸が必要です。
人としてやるべき事、してはならないこと・・・など、法で縛るばかりではなく、教育によって守るべき倫理世界が広がっていますし、それを指導していくのが宗教家の役割でもあります。
だから、宗教団体は無税なのです。
商業主義の葬式仏教なら税金を取るべきですね。