紫が光る 第09回 豪腕・兼家
作 文聞亭笑一
花山天皇が親政に依って政治改革を行おうとすることに、既得権を侵害される旧勢力の関白、左右大臣は抵抗しますが、天皇の意向が最優先ですから・・・改革が始まります。
右大臣の陰謀
先週は右大臣兼家が倒れて重病に陥る・・・と言う場面をやっていましたが、仮病でしょうね。
道長の日記・御堂関白記には「父の重病」など、どこにも載っていません。
余談ですが、この道長の日記は為政者の「現存する世界最古の直筆日記」として、ユネスコの世界記憶遺産に登録されているようです。
そういう日記の存在も、世界記憶遺産という制度も・・・全く知りませんでした。
ましてや、道長が筆まめで日記を付けていたことも知りませんでした。
歴史好きの文聞亭も、平安時代は・・・殆ど勉強しませんでしたね。
400年もあるのに・・・
兼家が寝込んだのは、ストライキ、サボタージュの一種で天皇への抵抗手段の一つです。
法令は天皇からの綸旨(命令)で制定できますが、実行機関(行政)は大臣の管理下にありますから、大臣の指示がないことには新法の実行が出来ません。
制度が出来ても施行が出来ません。
「絶対反対だ!」などと、表だって天皇に逆らえば「謀叛」になりますが「病気で不肖に陥った」となれば「暫く様子見・・・」となり時間稼ぎが出来ます。
兼家は円融天皇の時にも同様な手口でサボタージュをやっています。
天皇の人事が気に入らないと・・・天皇の息子とその母(兼家の娘)を御所から自宅に引揚げてしまいました。
円融天皇が譲位をしなくてはならない状況を作っています。
この時代の政治を書き記した「大鏡」には兼家を「コトガラノ カチタルヒト」とあります。
強気で、やることが強引な人・・・と言う意味のようですね。
強引、豪腕と言われる政治家はいつの世にもいます。
角栄しかり、壊し屋・一郎しかり・・・
仮病を装いながら、枕元に次男の道兼を呼んで「策(陰謀)を授けた」のが前回の一シーンでしょう。
道兼は天皇の側近としての役職(蔵人)にあります。
父に折檻された・・・などと天皇に傷を見せていましたが、自分で付けた傷でしょうね。
右大臣・兼家が嫌いな花山天皇に取り入るための方便です。
道兼が授かった策・・・陰謀・・・は愛する人を失った天皇の悲しみを増幅させて、厭世気分にさせて・・・「出家して弔いましょう」と持ちかけることです。
天皇が出家すると言うことは・・・引退、譲位して法王になることです。
後の世では白河法皇や後白河法皇が「院政」という形で政治権力を握りますが西暦1000年頃はそういう政治形態は考えられていません。
引退して世を捨てる、政治に関わらない・・・というのが法皇です。
どうやって道兼が花山天皇を騙していくか? 次回か、次々回か・・・楽しみです。
当時の資料には「道兼が騙して出家させた」とあるだけでHow toには触れていません。
ただ、姉の詮子の元に出入りしていた僧の厳久が、道兼に協力したという記録があります。
この辺りは脚本家、物語作家の推理の出番ですね。
いかなる騙しのテクニックを使うのか・・・興味津々。
藤原義懐
花山天皇の側近として天皇親政を進める中納言の藤原義懐(よしちか)とは何者でしょうか?
登場人物が「藤原」ばかりで、どれが誰だかわからなくなります。
藤原義懐・・・右大臣・兼家の長兄の子・・・つまりは九条流藤原家の本家の御曹司、いわゆる嫡流です。
とはいえ、もう一代前の祖父の時代は九条流と言う新宅そのものが藤原北家・嫡流の小野宮流の別れです。
ややこしいですね。
要するに藤原家の親戚同士が寄って集って利権争いをしてゐるのが平安時代でもあります。
要するに義懐は右大臣・兼家にとって本家の甥っ子、道長にとっては本家の従兄弟です。
我田引水、自己利益のために手段は選ばず・・・という、ギラギラと脂ぎった兼家に対して義懐は正義漢だったようで、天皇の意思を実現しようと頑張ります。
が、良いところのボンですからね、兼家、道兼の繰り出す陰謀には太刀打ちできません。
まんまと天皇自身を奪われ、出家させられ、三種の神器まで奪われ、気がついたときには後の祭りでした。
「一緒に出家しましょう」と騙した本人の道兼は出家せずに逃げ帰りますが、天皇に出家されてしまった義懐は出家して法王に従います。
◎◎が付くほど真面目でした。
西暦1000年頃の地方の状況
ドラマは京都から一歩も出ていません。
それどころか御所や貴族の居住する上京が中心で、庶民が顔を出しません。
その代わりでしょうか、直秀が頭の散楽集団というか、盗賊集団が貴族の屋敷を襲いますが、あれが庶民を代表するとは思えません。
この時代、律令制度は近畿、西日本から関東にかけて定着していました。
法治国家としての基礎は出来上がっていましたが、東北方面の一部が半独立国というか、植民地というか、占領軍総司令部(征夷大将軍)の管理下になったりもしています。
地方は「国」の単位で分割され、中央から「受領」という役割の公家が出張し、税務管理をはじめ行政を担当します。
以前にも書きましたが、受領とは明治の県知事、江戸の藩主のようなもので従五位の下から正六位の中級公家が担当します。
そういう意味では地方の権力者ですし、エライのです。
税のピンハネも出来ますし、賄賂なども入りますから優雅です。
ただ、任官する場所によって上国、中国、下国とあり、収量が大きく分かれます。
土佐日記を書いた紀貫之などもこの階級でしょうね。
土佐(高知)は・・・残念ながら下国です。
あまり実入りの佳い役割ではありませんでしたね。
四国では伊予だけが上国です。
関東には上国が多く常陸、上総、上野がそれで、これらの国は天皇領(親王領)になっています。
そのため、受領の呼び方も「守(長)」ではなく「介(次官)」です。
それを知らずに信長が「上総守」を名乗って、大恥を搔いたという話が有名ですね。
平安時代の地方は、ほとんどすべての人が一次産業に従事しています。
農業、漁業、林業、牧畜・・・林業の延長で建築や家具、漆器や陶器などの道具職人でした。
都市部から商人がやってきて物々交換を中心とした流通が行われますが、鎖国状態でしたから貨幣がありません。
品不足です。
鎖国状態になったのは、江戸時代とは全く理由が違います。
疫病対策です。遣唐使が持ち帰った各種の伝染病は一気に全国に蔓延しました。
政府はそれに懲りましたね。
コロナで右往左往した現代も同じ事です。あまり進歩していません(笑)