てやんでぇ 第08回 金々先生
作 文聞亭笑一
前回の放送から、吉原の忘八親父達の態度が蔦重贔屓に変わってきました。
蔦重の発行した吉原細見「籬の花」が売れて客足が戻ってきたからです。
出版物の宣伝効果にようやっと気がつき、自前で出版機能を持つことのメリットに気がつきました。
そうなれば地本問屋に遠慮は要らぬと階段から蹴落としてしまいますが、書籍の販売ルートのことまでは判っていませんね。
出版物は問屋間で流通し、広範囲に売れていました。
蔦重が出版権を得たとしても流通ルートを維持、拡大しないと本は売れません。
鶴屋喜右衛門
地本問屋の代表として物語に登場し、前回は階段から蹴落とされてしまいました。
が、元はと言えば京都の書物問屋・鶴屋の分家です。
書物の中でも仏典、経文などは「京のご本山ゆかりの・・・」というブランドイメージで安定的売上を維持し、江戸で流行った流行本の分野でも、版元として市場を拡大しています。
代々が「喜右衛門」と名乗り、明治維新まで続きます。
ヒット作となったものに、広重の東海道五十三次絵図があります。
鳥山検校
大ヒットした吉原細見で新たな客がやってきました。
盲人ですが、高利貸しで財産家の鳥山検校が瀬川目当てに通ってきます。
ところで「検校」とは何でしょうか。
古代から続く社会福祉制度的なもので、盲人に与えられた位階制度があります。
盲人の生業としては針、灸、按摩、琵琶法師などでしたが、階級が73段階もあり、これをゼロから最高位まで登るには冥加金だけで719両も要ったと云います。
ただの盲人(めしい)から始まって座頭、勾当、別当、検校、その上に江戸での最高位である総録検校、さらに総検校が京の都にいます。
勝新太郎が演じた座頭市などは盲人社会の中間管理職と言った位置づけでしょうか。
江戸時代の中期以降、盲人社会には貸金業の許可が与えられていました。
この特権を利用して急成長したのが鳥山検校です。
彼の蓄財の妙は下級武士を相手にした貸金業でした。
大名や高級旗本は権威を使ったハードネゴがあります。
踏み倒されるリスクがあります。
商人相手の貸し金も、ノラリクラリと引き延ばされたり、値切られたり、はたまた夜逃げされたり・・・と、貸し倒れのリスクがあります。
それに引き替え100石以下の旗本や、大名の江戸詰めの武士達は「武士に二言はない」と約束を守りますし、「武士は食わねど高楊枝」などとやせ我慢をしてくれますから回収に間違いがありません。
現金が払えなくとも領地の年貢米を差し押さえしてしまいます。
その上、経済にめっぽう弱くて米の相場も知りません。
借金を目一杯重ねた挙句に「娘を吉原に・・・」などと云う事例は珍しくありませんでした。
武家娘は吉原や女郎屋にとっては大歓迎です。
礼儀作法や教養がありますから、教育投資がかかりません。
即、戦力でした。
吉原の女郎屋の親父達・・・忘八も「悪徳」が頭に付く業者ですが、鳥山検校も悪徳金融業者でしたね。
そういう相手に見込まれて・・・どうなる?瀬川!
金金先生栄華の夢
海賊版の出版で罰金刑を受けた鱗形屋です。
が、起死回生にと売り出した黄表紙(青本)が「金金先生・・・」の物語です。
娯楽小説というのか、漫画・劇画というのか、空想小説でもあります。
大方の筋書きをWikipediaから引用します
金金先生栄華の夢 要約
今は昔、片田舎に金村屋金兵衛という貧乏な若者がいた。
金兵衛は江戸に出て立身しようと思い立ち目黒不動に至り、その門前の粟餅屋で粟餅を頼む。
ちょうど餅を蒸している途中なので待つように言われた金兵衛、粟餅屋の奥座敷で枕を引き寄せると、旅の疲れでそのままうとうとと寝てしまう…
と、そこに立派な駕籠を従え多くの手代や丁稚を率いた裃姿の者が現れる。
その者が言うことには、自分は大金持ちの泉屋清三の番頭で、主の清三が隠居することになった。
が、その跡取りを金兵衛に定めたので迎えに来たという。
金兵衛は駕籠に乗せられ、泉屋清三の屋敷に連れてゆかれる。
泉屋清三はその名を金兵衛に譲って名を「ぶんずい」と改め、金兵衛は「ぶんずい」の養子となり泉屋を継ぐことになった。
だが金兵衛は、「ぶんずい」から相続した莫大な金銀を使い、昼夜無しの放蕩にふけった。
金村屋金兵衛という名から「金々先生」と呼ばれるようになり、幇間の万八や手代の源四郎などを連れ、吉原だの、深川辰巳の岡場所だのといった遊里で大散財する。
しかしそれも所詮金づくで皆から相手にされているだけのことで、源四郎は金兵衛の遊興費から金をかすめ取るなどしていた。
やがてそんな金の力も通用しなくなり、金兵衛は場末の盛り場で遊ぶしかなくなる。
そして金兵衛の放蕩がいよいよ家を傾けそうになったので、「ぶんずい」は大いに怒り源四郎の勧めにより金兵衛を勘当し、はじめに来た時の姿で屋敷から追い払った。
金兵衛は、泣く泣く屋敷をあとにする…
と思ったらそれは全て金兵衛の夢で、目が覚めたのはちょうど粟餅が出来上がる時分のこと。
金兵衛はハッとして、たとえ人間栄華を極めたとしても、それも一時の夢のようなはかないものなのだと悟り、そのまま生れ在所へ帰ったのであった。
こういう物語を蔦重が瀬川に渡し、それを瀬川が鳥山検校に読んで聞かせていました。
物語はヒットしましたが、一旦落ちてしまった鱗形屋の信用はなかなか回復しません。
作家や、絵師や、彫り師、摺師といった職人達も他の版元に引き抜かれたりして勢いを取り戻すには至りませんでした。
なんと言っても安定商品であった「吉原細見」を蔦重に取られてしまったのが響きます。
黄表紙の一発商売ではヒットを続けるのが難しいですね。
それはともかく・・・蔦重に思いを寄せる瀬川(花の井)と、それに全く気づかない蔦重のすれ違い、それが前回の物語でした。
東海道五十三次絵図8 大磯
馬入渡りて 平塚の 女郎衆は
大磯小磯の 客を引く
こちゃ 小田原 評議で熱くなる
図1
平塚からの出口に「高麗こうらい」という地名が見えます。
高来こうらい神社という社もあります。
平塚から大磯にかけて、古代に高麗からの移民の方々が入植した地域です。
関東には埼玉県の彼岸花の名所・巾着田の高麗川も含め、「高麗」という地名が幾つか残ります。
母国での政争に敗れて移民してきたのでしょうか。
古代史では天智天皇の時代に白村江で敗れた万余の百済難民が日本に移住したと言われています。
一説では藤原家の家祖・中臣鎌足は百済の王子ではないか・・・とも言われます。
鎌足の息子の不比等が日本書紀を編纂し、藤原氏が弥生以来の日本人のように偽装したなどとも言われますが・・・
真相は分かりません。
図2
ただ、なぜ天智が朝鮮に大軍を派兵したのか?
鉄輸入の利権を守るため輸入拠点の任那、友好国の百済を確保したかった・・・というのが通説ですが、イマイチ不明瞭です。
歌の文句に大磯小磯とありますが、宿場の江戸側が大磯、小田原寄りが小磯と地図にあります。
図3
地図には島崎藤村の旧宅や伊藤博文邸などが載っていますが、大磯と言えばなんと言っても吉田茂とワンマン道路が有名です。
この地図よりもう少し西、西小磯にあります。
旧宅は2009年に焼失してしまいましたが、大磯宿の資料館も吉田茂邸の一角にあります。
図4