流れるままに(第32回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

朝鮮での戦線は、当初こそ快進撃をしたものの、明軍が本格的に参戦してくるに及んで、劣勢になります。一時は平壌付近まで進撃した日本軍も、じりじりと押されて、朝鮮南部に押し返されてしまいました。

快進撃の原因は武器の差でした。朝鮮軍は鉄砲を持ちません。槍、刀の切れ味も格段に違いました。兵の訓練度も比較にならないほどです。プロ野球選手と中学生の試合のようなもので、朝鮮軍は城壁にこもって防ぐだけですが、それすらも破壊され、北へ北へと逃げていったのです。明の軍隊も、当初は明国内の反乱の鎮圧に手一杯で、朝鮮に援軍を送る余裕がありませんから、付き合い程度の兵力しか出してきていませんでした。

一方、日本軍は「秀吉を欺いた嘘」を隠そうとする小西行長が、先へ、先へと急ぎます。朝鮮王を拉致しようと焦ります。ライバルの清正に先を越されるわけには行かないのです。そのために、清正には出撃を知らさず、抜け駆けでソウルを占拠してしまいました。

嘘を隠すために、行長は、必死で二つの敵と戦っていたのです。なんとしてでも、清正より先に、朝鮮王を捕らえ、三成と画策した講和に持ち込みたかったのです。

が…、明の大軍が出てきます。朝鮮海軍の活躍で、兵糧、弾薬の補給路が断たれました。こうなれば、朝鮮南部の拠点を確保するだけで精一杯です。

101、秀吉が、家康の怖れていた行動に出たのは、それから二ヶ月もしない九月のことであった。一日、秀吉は大阪城で明の講和使節を引見する。ところが、提示された明皇帝の勅諭には、「ここに特になんじを封じて日本国王となす」と記されただけで、前に秀吉が示した講和条件7か条はことごとく無視されていたのだ。

対明、対朝鮮外交を一手に取り仕切っていたのは、石田三成を司令塔にして小西行長と、その父の如安、娘婿の宗義智です。かれらは「通訳」と称して、秀吉の意向を無視し、明、朝鮮の意向も捻じ曲げ、虚構の世界の中で講和を画策していました。

秀吉の講和条件は以下の7カ条でした。

1、明皇帝の皇女を日本の天皇の后として渡すこと

2、断絶していた公の貿易を再開すること

3、日明の大臣が互いに誓紙を交わすこと

4、朝鮮の4道を割譲せよ

5、朝鮮の王子と大臣を人質として引き渡すこと

6、朝鮮の王子は丁重に待遇する

7、朝鮮の大臣は日本に背かないと誓紙を差し出せ

3,6,7の各項はどうでもよいことですし、偽造もできます。2項は交渉事です。

問題は1,5の人質、4の領土問題です。そう簡単に済む話ではありません。

実は、この7条件を、忠実に履行させようと頑張っていたのが、加藤清正を筆頭とする、日本軍の将兵でした。その立場から見たら、石田、小西の外交は欺瞞だらけです。

小西行長は2項の「貿易再開」という実利を取れば、秀吉を丸めこめることができ、4項の4道割譲は「4港開港」でお茶を濁すつもりだったかも知りません。が、明で公の貿易と言えば、属国との間の「朝貢貿易」しかありません。日本が明の属国でないかぎり、公的貿易はあり得ないのです。

「なんじを封じて日本国王となす」とは、貿易を始めるための基本条件なのです。

足利3代将軍義満の対中貿易も、この朝貢貿易でした。属国としての貿易です。

最近中国の近隣外交が高圧的で、我儘で、眉をひそめることが多いのですが、ルーツをたどれば、中国の伝統的な外交姿勢です。中華思想ですよね。

102、結局、汚れ役はすべてわしに廻ってくるのだな…
千利休に引導を渡したのも、関白秀次を自滅に追い込んだのも、朝鮮で多くの兵を死なせたのも、この三成だ。いずれも秀吉の命によるものであり、三成は処断に当たったに過ぎないと言える。だが大名衆は、そして世間は、どう見ているのか…。

作者はこのように、三成に独白させていますが、すべて三成が献策したことであり、それを煽ったのは朝廷の公卿衆です。この当時の公卿は、秀吉政権が永続することを切望していました。戦国時代に味わった貧乏生活が、秀吉によって一気にバブル景気をもたらし、公卿たちにとっては、平安期以来の「わが世の春」が現出していたのです。この栄華を手放すまいと、阿諛(あゆ)追従(ついしょう)のための手練手管を駆使して、秀吉をおだて揚げていました。

利休…三成にとっては政敵です。公家にとっても侘び、寂びの禅文化は性に合いません。

秀次…三成一派の欺瞞に気付いていた一人です。消さなくてはなりません。

朝鮮戦争…武闘派の大名、特にライバルの清正、正則、浅野、黒田などは死んでくれた方が、後々の政権運営がやりやすくなります。できれば、徳川、前田も消耗させたい。

平和になれば不要になる軍隊、軍人は朝鮮の地で死んでくれた方が好都合なのです。

そのくらいの冷徹さがなければ、秀吉亡き後、秀頼を傀儡として政権を取ろうとすることなどはできません。

103、国内が平定されれば、戦、すなわち武士の仕事は消えてなくなる。天下をまとめると言うことは、そうした矛盾を内包しているのだと、秀忠は子供に教えるように妻に話した。

武士の仕事…つまり軍事専門家としての武士が出現したのは信長以来です。それまでは、極一部を除いて軍事専門職という性格の武士は存在しませんでした。殆どが農業、漁業との兼業で、戦の時だけ動員される戦士、徴兵でしたが、信長が始め、秀吉が育て上げてきたのが武士という専門職です。さらに、それを、軍事専門職から行政職、官僚へと衣替えしようと努力していたのが三成です。これはなにも三成だけではありません。家康も、利家も、景勝も、日本中の大名が志向していた方向です。その意味では「行政改革」そのものですね。その手法、行政技術を持ち、管理能力に優れていたのが……三成を筆頭とする近江人脈だったのです。

家康の周りにも行政手腕に長じたものが集まります。大久保、本多平八郎、榊原…などの軍人は遠ざけられ、本多正信、正純親子や藤堂高虎などが重用されます。

秀忠の周りにも、筆頭家老は小田原城主の大久保忠鱗ですが、土井利勝、板倉周防、伊奈忠治などの、行政手腕にすぐれた者たちが集まり、実権を握ってきます。

この時期、秀忠の最大の任務は、江戸の町づくりでした。さらには未開(?)の関東に、上方の進んだ文化や技術を移植することでした。農業の生産性、漁業の手法、鍛冶など諸工業の技術水準、どれをとっても一段、いや、三段ほど劣っていました。

「関東の国力を飛躍的に上げて、大坂に対抗できる実力を備える」

これこそが秀忠に与えられた大命題なのです。

104、石田三成に、徳川家康の暗殺を企てる疑いあり。
そうした噂が囁かれたのは、秀吉が没した、早くも翌日のことであった。
それを知るや否や家康は、秀忠と江夫妻、そして孫娘の千姫を江戸に帰すことに決めた。

露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪花のことは夢のまた夢

第二次朝鮮出兵のさなかに、秀吉が亡くなりました。戦争推進の原動力が消えましたから、日本国内の総意は、即時撤兵ですが、そうはいきません。アフガンからの米軍撤退を見れば明らかな通り、戦争は進撃する時よりも退却するほうが難しいのです。退却をやりそこなえば、太平洋戦争での日本軍同様に、全員玉砕が待っています。

秀吉の死は極秘として扱われますが、こういう情報は漏れるのが常です。翌日には、気の利いた大名たちの間では周知の事実になり、特に、朝鮮遠征軍の留守居役達にとっては、お家の一大事ですから、迅速に情報が伝達されます。隠せるものではありません。

秀吉の辞世とされる「夢のまた夢」、その後の豊臣家の行く末を暗示するようで、「でき過ぎている。後世の偽作ではないか」という意見が多いのですが、果たしてどうでしょうか。

江戸期になってから人気の出た、甫庵太閤記の作者あたりが原典かと思われます。

家康暗殺。暗殺でなくても、政権から家康を追い出そうとするのは当然の動きでしょう。

三成以下の行政スタッフにとって、家康ほど言うことを聞かない実力者はいません。

そういえば、つい先だってもありましたねぇ。鳩ポッポが辞任した後、家康に似た顔の実力者を、市民運動家が追い出して、政権を握りましたね。

三成は同じことをしようと画策します。「暗殺」その手段の一つです。秀忠ともども……

当然、視野に入ります。秀忠家族の避難は、適切な打ち手です。