流れるままに(第33回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

絶対権力者・秀吉の死は、その後継者を巡って一気に政争を加速させます。そう、政局です。分裂と、多数派工作、そして政敵の失脚を狙う陰謀の渦が巻き起こります。その中心になるのは、最大の軍事力を持つ家康と、政府官僚機構を支配する三成の二人になります。

しかし、そのほかの大名、特に大老である前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家はどうしていたのでしょうか。彼らとて、各種の思惑を持って動いていたはずです。

毛利、宇喜多は、九州に近いという距離の関係から、二度にわたる朝鮮出兵に狩り出され、かなり疲弊していました。金の掛かる中央政権に参画し、「あわよくば」という野心を発揮する余裕がありません。毛利は、政治の中心人物であった小早川隆景を失っていましたから、政治力のある人材に枯渇していました。安国寺慧恵が三成派に属していましたね。

宇喜多はお家騒動が勃発しています。中央どころではありません。

上杉は、執政の直江山城が石田三成と連携していますが、国替えになったばかりというのに朝鮮まで出陣して、国許が心配でたまりません。中央政治は後回しです。

残る前田は…利家が病気がちの上に、利長に代替わりするタイミングを失いました。秀吉から秀頼の守り役を懇願されて、断りきれずに受けてしまいましたが、末期癌の症状がでてきています。気力が続きません。

となれば、家康対三成です。軍事政権志向と、官僚支配構想の対決です。

家康を除く4人の大老からすれば、「三成よ、両三年ほど現状維持をしておいてくれ」というのが、共通した願望と、期待だったでしょうね。

105、秀忠は膝に乗せた千姫をあやしながら話していた。江がビックリするほど、秀忠は娘と一緒に時を過ごすことを好んだ。適度な距離をとって可愛がる、という、いかにも秀忠らしい接し方であったが、千姫を通して、夫婦仲がほぐれていくような気がすることも少なくなかった。

千姫、悲劇のヒロインですねぇ。お市、茶々、お千と続く三代は、まさに悲運の女系図です。栄光と結末があまりにも極端ですから涙を誘います。随分と物語にも描かれていますが、家康、秀忠の政略の犠牲と言うには気の毒すぎます。お市も茶々も、成人してから政争の具として使われますが、お千は生まれてすぐに政治目的に使われだしました。そういう点では、爺様の家康と言う男は、肉親に対する愛情に薄い男であったと証明されます。

妻の築山御前を斬り、長男の信康を殺し、長女の嫁ぎ先の小田原を乗っ取り、初孫の千姫を政治の駒として利用します。いずれも、時の権力者である信長、秀吉に強要されたから仕方ないと言い訳していますが、そればかりではなかったでしょうね。

そういう冷酷さが、諸大名にとっても脅威だったのです。肉親すら情け容赦なく切り捨てる男、こういう人が権力者になると、恐怖が支配します。

その恐怖を一番感じていたのは秀忠だったでしょう。千姫を可愛がるのは、縁の薄さが、感覚的に分かっているからです。

ドラマに出てくるかどうか分かりませんので、千姫の一生を先回りすると…、秀頼や茶々には愛されず、あげくは死別しますが、秀頼の忘れ形見の末娘を守り抜きます。その女の子が隠れ住んだのが、鎌倉の東慶寺・駆け込み寺、縁切り寺で有名になったお寺です。

その後、桑名の本多平八郎の息子・忠刻と熱烈な恋愛を実らせて再婚しますが、またまた死に分かれます。花のある時間が短い、気の毒な人生でした。

106、「政の主体は、あくまでも秀頼様とともになければならない。あの方の威光の裏側で、わしは日本国を操り、動かす。そうじゃ、陰の宰相こそ、この三成にふさわしいのではなかろうか」

「威光の裏で」「陰の」としてしか政権奪取の方法がないのが、三成の政治家としての限界でした。リーダシップの資質として第一に挙げられる、徳性が足りなかったのです。

「徳」という概念は日本的で、禅的で、情的で分かりにくく、定義しにくい代物ですが、人望、期待感などとも表現されます。西洋的科学に乗せるには「定義」をはっきりさせなくてはならないのですが、それができませんから社会科学系の知識人からは嫌われます。日教組を始め、革新系と言われる政党が道徳教育を嫌う要素のひとつでもあります。

三成が政権を取ろうとしても、政権の正統性がありません。秀吉は武力によって政権につきましたが、三成はその官房長官にすぎません。しかも、その秀吉家臣のうち有力な清正、正則、浅野、黒田とは敵対関係に近い状態にあって、支持者は五奉行のうちの増田、長束、前田(玄以)だけです。非常に支持基盤の弱い政権推進者の立場です。

秀頼の権威…と言っても、秀頼は子供です。となれば…妻の北政所、茶々が頼りですが、北政所は清正たちとの距離が近く、敵対関係に近い状態です。

秀吉の亡霊を長続きさせること…それしか三成の生き延びる道はありません。

現在の総理大臣も良く似た境遇ですね。この立場では「今の座」を盾に突っ張るしかありませんね。「俺が政権だ」と……。

107、三成と同じく、豊臣秀頼の権威を利用することを家康も考えていた。異なるのは、その対象であった。天下を支配する前に、まずは豊臣恩顧の諸大名の筆頭である三成を倒さなければなるまい。

秀吉も最初は信長の孫の幼児を使って政権に近付きました。そして、反対勢力を賤ガ岳で屠(ほふ)って、政権の座に就いたのです。家康とてそのプロセスを踏まざるを得ません。

豊臣恩顧…この言葉を、豊臣家への忠誠心ととらえれば、三成が「筆頭」とは言えませんね。三成は豊臣を利用することが先に立ち、秀頼は道具です。

忠誠心の筆頭は、やはり加藤清正でしょう。それに続いて福島正則、浅野幸長、片桐且元、黒田長政などですが、片桐を除いて、三成とは不倶戴天…ともに天下をいただかず…とも言うべき険悪な関係になってしまっています。秀吉の最大の失敗は、朝鮮での侵略の失敗よりも、秀頼を守るべき直属の家臣団を、真っ二つに割ってしまったことです。連立与党である家康よりも、与党内部の派閥争いを深刻なままにして、仲裁しなかったことですね。

死ぬ間際に「秀頼を頼む」と言い残す相手は家康や五大老ではなく、自らの家臣団であるべきでした。枕元に清正と三成を座らせ、秀頼のために手打ちをさせることの方が、どれだけ有効であったか…。それも分からないほどに耄碌してしまっていたんですね。

家康は自らの手を汚しません。豊臣政権内の内部対立を煽る方向で工作にかかります。

まずは、朝鮮遠征軍を手厚く迎えることでした。とりわけ清正、正則、黒田、浅野、細川などに、苦労をねぎらう形で近づきます。三成派を批判する立場を取ります。

これに対して三成は、小西行長から提訴された、加藤、浅野の軍令違反事件訴訟を検察官の立場で取り上げ、火に油を注いでしまいました。マジメ…というより、懐が狭いと言われても仕方がない生真面目さが裏目に出ました。政治、人事については素人と言われても仕方がない青臭さでしたね。

108、江戸城は思ったよりずっと広く、想像していたよりはるかに質素な城だった。
海岸の埋め立て、城の補修や普請は途中で投げ出されたような有様であり、波の打ち寄せる海辺の一帯には、粗末な家で漁民たちが暮らしていた。

江が暮らした城は、先ずは越前北の庄城でした。立派な天守閣を持つ巨城です。次に安土城、これは信長の芸術作品です。そして大阪城は、秀吉趣味の豪華絢爛な城です。そして聚楽第、伏見桃山城ときて、江の「城」のイメージが出来上がります。

それと、江戸城の比較ですから話になりません。都会の超高層ビルの豪華マンションから、田舎の古い民家に引っ越したような感じでしょうね。

江戸の町づくりは小田原戦の後から始まっていますが、ともかくも家臣の住み家を作ることが優先です。海岸の埋め立て、沼地の埋め立てが急がれますが、そのためには運河を兼ねた水抜きの水路を作らなくてはなりません。ともかくも巨大都市を零から作ろうというのですから巨大土木工事です。重機どころか、運搬用の馬、牛、荷車すら手に入りにくい環境での工事ですから、城の体裁などにかかずらわっているゆとりはありません。

江が入城した江戸城は工事現場の「飯場」の様なものです。

この当時の江戸の町を想像するには、津波で壊滅し、瓦礫の撤去が終わった街の風景を重ねてみたらぴったりだと思います。だだっ広い平原に何も建っていません。そんな広漠とした風景が江戸城周辺です。ただ、活気はあります。ひと山当ててやろうという男たちが、我先にと集まってきています。仕事だけは、いくらでもありますからね。それが、家康人気につながっていきます。