海人の夢 第35回 病人清盛

文聞亭笑一

今年の大河ドラマは人気がありませんねぇ。視聴率が10%を切ったのは、井伊直弼を主役にした「花の生涯」以来だとかで、最低視聴率記録(?)を更新したのだとか、話題になっています。そんなことはどうでも良いのですが、どうでも良いとも言っていられないのが「オッカケ筆者」の文聞亭で、今週号も「ふん、来たか」と、ゴミ箱ボタンを押されて消えてしまいそうです(笑)

今週のテレビ清盛は、回想シーン中心になりそうで、主催者側は今までのあらすじでもなぞるつもりでしょうが、脚本家の歴史に関する新説を強調するようで、NHKと言う公共放送がやるには…と、違和感を覚えます。

そんなことはさておき、今、文聞亭は朝ドラの「梅ちゃん先生」のほうに夢中です。とりわけ面白いのが梅ちゃんの頑固親父。変わり行く世の中に逆らって、自己主張を貫きます。我々の親父や、爺様を見るようで、懐かしくも可笑しく、そして、現在の自分を見るようで…、身につまされます。私の孫たちが昔を振り返って物語を書けば、多分、あの頑固親父の役割を演じるのは、私ではないかと思います。いや、いや。現在は女性上位が行き過ぎでいますから、頑固婆が登場するかもしれませんよ(笑)

今週の物語で、頑固親父が職業の貴賎を口にします。「物を作り出す職業は尊い。物を流すだけの商売は卑しい」と言うものですが、これのルーツは士農工商からでしょうね。更にいえば、奈良時代から平安に掛けて定着した身分制度と、農本主義でしょうね。これが、我々の常識の中に、文化的DNAとして、今でも残っています。文化的DNAとは「伝統」と言う言葉になりますが、法律と並んで、社会の枠組みを制約します。この伝統が希薄なのが、歴史の浅いアメリカ型社会ですが、今の日本は古い伝統と、アメリカ型との狭間に落ち込んで、出口を見失っているようです。

憲法をはじめ良いものは残す、悪いものは捨てる。それを指し示すのが政治ですけどね。

43、顔色は悪いが、実際のところ清盛は、少しも元気を失っていない。腰から足に掛けて痛みはあるが、それは季節の変わり目に毎年、清盛を悩ませる通風であった。だが清盛は、その持病をこの際、利用した方が良い、と考え、こうやって臥せっている。

50歳を過ぎて、清盛は大病を患います。何が原因で、どういう症状だったのか。平家物語や、当時の記録では特定できません。記録では「寸白」、つまり寄生虫による症状だとありますが、発熱を伴うとしたら回虫の仕業でしょうか。回虫なら色は白いですし、寸で測るほどの大きさです。これが、内臓を食い破ったりすれば、体内出血を起こすなどして発熱することは考えられます。現代では殆ど見当たりませんが、我々の世代が子供のころは、ごく普通の病気でしたね。「検便」などは日常の検査でした。

また、本当に危篤に陥ったのかどうかも、定かではありません。病気で苦しんだのは事実でしょうが、それを使った清盛の政治的演技であった可能性のほうが強いようにも思います。病室に入れたのは、長男の重盛と、側近の盛国だけだったと言うのが、そもそも…怪しいですねぇ。陰謀、謀略の臭いがします。

実力者が危篤となれば、当然のことながら有象無象(うぞうむぞう)が動き出します。実力者死後の情勢が大きく変化することを予測し、それぞれの立場を有利にしようと、水面下での動きが活発になります。―――それを観察して、政敵を消し、平氏の力を更に強めようというのが清盛の狙いではなかったでしょうか。

まずは、藤原摂関家の動きを注視します。

続いては、後白河上皇とその側近たちの動きを観察します

さらに、清盛亡き後の、平氏の後継者争いが起きないか、それをみます。

この三つを、注意深く情報収集します。それぞれが、思惑通りに網にかかってきました。

44、あくる仁安三年の正月28日、天皇は摂政の藤原基房の館へ、行幸をなされた。

もちろん藤原一門の公卿すべてが、基房の館へ集まり、天皇をお迎えして、盛大な宴を張った。名目は、詩歌の会と言うことになっているが、もちろん藤原一門が天皇を擁して勢力の挽回を図ろうという考えに違いない。

これは清盛が倒れる直前の動きですが、藤原摂関家は清盛の太政大臣辞任に合わせて、デモンストレーションを行いました。幼少の六条天皇を自宅に招いて、宴を張ります。

現代語で言えば、藤原一門総決起集会とでも言えますね。もちろん、平氏一門は招かれていません。後白河上皇も蚊帳の外です。

関白基房の狙いは、まず、氏の長者として、自らが藤原一門の代表であることを内外に示すことでした。藤原家の財産を相続した兄の子(清盛の娘の子)をネグレクトして、名実ともに、摂関家の正統な後継者であることを示そうとしたのです。

さらに、皇太子になっている平家出身(滋子の子)の憲仁親王を廃し、以仁親王を皇太子にして、平氏の影響力を削ごうとします。

その動きのさなかに「清盛危篤」の情報は、ビックニュースです。「待ってました!」と大喜びしたことでしょう。動きは活発になります。

F73、いよいよ重盛が、腹を据えなくてはならないときが来た。
清盛が危篤だという噂が京の町に広がると、武士たちは身の振り方を考え始めた。
清盛が牽引力となり、武士の地位を引き上げてきた。もしもの事があれば、朝廷の機能が滞り、世が乱れるだけでなく、武士の立場は元の木阿弥になるかもしれない。

平氏内部も動揺します。清盛が君臨していればこその結束ですが、清盛が亡くなれば後継者を誰にするかで、ひと悶着が起きます。長男は重盛ですが、重盛は父の路線に比べると穏健派で、公武融和路線の人です。藤原・平家連立政権が理想だ、大連立だ…という意見の持ち主です。この意見には、文治派、穏健派の伯父や弟たちが従います。

一方、やり手の時忠は、姉・時子の実子である宗盛を傀儡に立てて、平氏を乗っ取ることを狙います。平氏を乗っ取り、その力で藤原家を抑え、妹の子を天皇にして、自らが闇の帝王として君臨する夢に動き始めます。まずは宗盛を「正室の子」とおだて上げ、その気にさせることを手始めに、清盛の弟・教盛を誘って多数派工作を始めます。

この様子を、清盛は病室からじっと観察していましたね。情報を持ち込むのは、医師、薬師に化けた、兎丸に代表される商人や情報マンです。頻繁に出入りしても疑われることはありません。彼らは清盛の病状を誇大に宣伝し、噂をばら撒きます。言ってみればマスコミ記者です。噂をあおりたて、藤原家をおだて、時忠をおだて、後白河を揺さぶり、希望と不安を掻き立てます。この活動の元締めは側近の盛国だったでしょう。清盛、重盛、盛国、この三人が情報分析をし、一気に反対勢力を屠(ほふ)るための秘策を練っていたことは、想像に難くありません。したたかですよ。現代の政治家には真似が出来ませんねぇ。

ふりかえって、現代の永田町では、野田さん、谷垣さんともどもに、党内基盤が弱い人同士が、総選挙を睨んで駆け引きを繰り返し、争っています。が、清盛ほどのしたたかさはありませんね。どちらも線が細すぎます。参謀の輿石は軽石、石原はガキですねぇ。

F74,重盛の報告を聞くと、清盛は大きくうなずいて縁側まで歩いた。
「賀茂川の水。双六の賽。山法師
――白河院の天下の三不如意。我が意のままにして見せようぞ」

清盛が最も注視していたのは後白河上皇でしょう。実力者清盛も、権威者・後白河上皇を意のままに操ることは出来ません。天皇家を無視したら、政治活動の正当性が失われてしまいます。天皇家は、いわば宗教的な権威ですから、これは政争とは別次元です。

平家物語の作者は、源氏に囚われた後の平時忠ではないかという説もありますが、

三不如意とは

賀茂川の水=時の勢い、時代背景や天変地異などの環境変化。

双六の 賽=時の運、やってみなければわからない不確実性。

山法師  =民意、世論。これは経済情勢と大いに関係します。

それぞれに、清盛としての計算ができた…と言うことでしょう。

「貿易により経済が活性化すれば、民意は我に靡く。誰しも貧乏より裕福が良い。藤原家を支えてきた律令制度は破綻した。自由化、実力主義の時代が来る。不確実なことは悩んでも仕方がない、まずやってみる」

これが、清盛の決断ですね。意のままにして見せようぞとは、そういうことでしょう。

平安時代は「794(なくよ)鶯平安京」から始まりますが、終わりは1168年と教科書にあります。「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」までの24年間、平家の時代です。