海人の夢 第41回 油断か謀略か

文聞亭笑一

先週のNHKは架空の人物である兎丸の死を描き、時忠のやった禿童による恐怖政治の非を伝えるために、時代背景の説明に終始しました。独裁政権が持つ共通点ですが、隠密、探偵、秘密警察が活躍する時代は暗黒の時代です。他国の例を引くまでもなく、日本でもついこの間(70年前)のことです。特高警察、憲兵が幅を利かし、向こう三軒両隣の地域社会は、密告社会となっていました。その幻影が、社会のトラウマとして残っているのが「隣は何をする人ぞ」という孤立社会で、各種の社会問題を生んでいます。

が、都市部を中心に主流派となったこの現象は、果たして人間社会にとって正しいことでしょうか。近隣の絆が失われた結果が、孤独死や、孤立死を生みます。児童虐待もその結果で、民生委員などがカバーできる社会ではありません。

前内閣の厚生労働大臣は「孤立しないよう民生委員に見守りをさせる」などと発言しましたが、年間5万8千円ぽっちのお手当てで、社会のひずみをカバーできるものではありませんよ。事情も知らない大臣などに「させられて」堪るもんですか。寄付金、慶弔見舞い、上部団体への献金などで大赤字です。善意のボランティアを、自分の部下と勘違いするなど、社会の仕組みを知らなさ過ぎましたね。

脱線しましたが、現代では特高警察がなくなった代わりに、マスコミ記者やパパラッチという新しい探偵が増えました。彼らは「報道の自由」を盾に、有名人を狙い撃ちし、人権無視の取材攻勢をかけます。政治家諸兄も、うかつなことを発言できませんし、聖人君子でない限り、向こう傷のない人などいません。彼ら探偵が暗躍するばかりに、政治家の発言は慎重になり、情報発信が曖昧になります。「わかりにくい政治」の元凶は、政治家ではなく、暗躍するマスコミの仕業であると思いますよ。大いなる人権侵害だと思いますが、人権活動家は全く問題にしませんね。彼らも同じ穴の狢なのでしょうか。

60、清盛としても、別に門覚をかばい立てする筋合いはないので、そのまま伊豆の国へ流すことにした。先に伊豆の蛭が小島に流されている頼朝と、この門覚が、後になって平家転覆の密談をするなどと思ってもいなかった。それほど清盛は、門覚の力を軽く見ていたし、伊豆へ流された頼朝のことなど、全く眼中になかった。

門覚は度重なる注意にもかかわらず、平氏批判をやめません。ついに逮捕され、伊豆に島流しになります。公家、武士、平民であれば即刻死罪となるところですが、「坊主殺せば七生祟る」と信じられていた時代ですから、流罪になります。

それにしても、流す先が伊豆であったとは…平家の役人たちもうかつですね。関東方面は平家の地盤ではなく、源氏の強い地方です。しかも、この当時の伊豆の国主は源頼政でした。頼政は平治の乱で、源義朝を裏切って平氏についた武将ですが、清盛に心酔しているわけではありません。生き残るために、やむをえず平氏の命令に従っているだけです。

頼朝と頼政、それに門覚(遠藤盛遠)の三人が同じ地域に揃うことになります。当時の情報手段は手紙くらいしかありませんが、至近距離であれば、監視の目をくぐって会うことも出来ますし、監視しているのが源氏の一族ですからね。大いに目こぼしするでしょう。

伊豆の国は伊豆半島だけではありません。東は熱海までですが、西は、現在の三島から沼津までが含まれます。このあたりは船を使った交通網が発達していて、物資や情報の行き来には便利なところでした。伊豆の国府は三島です。駿河との境は黄瀬川です。駿河湾の東側一帯ですから、頼朝の流罪地、修善寺は至近距離ですね。

清盛の油断…と、平家物語の作者は断言しますが、もしかすると危険人物3人を集めて事を起こさせ、それを機に不平分子を一掃してしまおうという陰謀だったかもしれません。実際その通りになり、頼政は以仁王の反乱で敗死し、頼朝は石橋山の決戦で破れています。

が、重盛、清盛の死後、宗盛以下の息子や孫が凡庸だったのかもしれません。源氏に勢いをつけてしまいました。

61、その年の三月に入って、鞍馬山から義朝の子が逃れたと聞いたときも、清盛は不思議そうに家来に訊ねている
「義朝の子が鞍馬寺にいたのか」

金売り吉次に案内されて、義経が奥州へと抜け出します。平家の監視網に発見されずに脱出することは不可能ですが、そこは、いつの時代でも「地獄の沙汰も金次第」ですよね。脱出路には、吉次の金の威力が入念に撒き散らされていました。平氏の強い東海道を避けて、中仙道を辿っていったのでしょう。不破の関を抜けてしまえば、もはや大手を振って歩けます。信濃には源氏の義仲がいますし、関東はもともと源氏の地盤です。脱出行というより、「歓迎・源氏の御曹司」と歓待されながらの旅だったようです。各地で源氏の血脈を求めた豪族たちが、娘を夜伽に差し出し、色気旅であった…、という説もあります。

奥州の藤原秀衡は、したたかな政治家です。義経を手元に呼んで育てたのは、多分に保険代わりだったと思います。平氏の勢力がますます強くなれば、「犯罪者義経を捕縛した」と差し出せばよいし、源氏の勢力が強くなれば、御曹司をかくまい養育した功績で何がしかの要求を通すことが出来ます。あわよくば、義経が源氏の頭領になれば、養父として国政に進出することも夢ではありません。

ただ、秀衡の思いは、奥州藤原家の地位を磐石にし、出来うれば、独立国として中央からの制約を受けない、ということだったでしょうね。さらに、清盛の進めている貿易には大いに関心があります。豊富に産出する金を使って、海外との直接交易もやりたかったと思います。青森の十三港、秋田港、酒田港、いずれも日本海側の良港です。宋からの貿易船を、これらの港まで足を伸ばさせたいと考えていました。その意味で、宋船を瀬戸内航路に引き込もうとする清盛は、商売仇でもありました。

62、平家一門にとっても、法皇が厳島へ行幸されるお供をするのは、やはり名誉なことであり、重盛をはじめ、ことごとくが喜んだ。
清盛も、ここまで自分の勢力が伸びてきた以上、法皇を中心にした政変など、起こるはずがない、という気持ちがあった。

後白河法皇が、厳島神社に行幸したのは、1174年3月16日です。この時が、平家の絶頂期でした。清盛が贅を尽くし、一族全員で納経し、平氏の氏神として祀った厳島神社ですから、上皇が参拝するということは、「平氏を頼りにしている」という天皇家の意思表示になります。

福原から船に乗り、播磨の国・室津で一泊、備中の国・下津井で一泊、そこから安芸の厳島へという船旅です。船旅というのは、今でもそうですが、船中では宴会ばかりです。歌と踊りの競演です。従った平氏の面々は、法皇と直接見(まみ)える宴会を何日か続けて行うわけですから、かなり親しくなります。これは、名誉というより実利ですね。次の除目(人事異動)で、昇進昇格を担保されるようなものです。まぁ、絶好のゴマスリの機会ですよね。張り切らざるを得ません。

この船旅を取り仕切ったのは知盛でした。知盛は清盛の息子の中では、最も武勇に優れ、政治力もあって、瀬戸内の河野、村上という水軍を掌握しています。長門守でもありますから、瀬戸内海は自分の庭のように往復しています。

上皇は、今と同じく海中に立つ大鳥居と、朱色に輝く舞台の美しさに大感激でした。

予定を二日も延ばし、厳島に逗留します。

63、建春門院は風邪が因(もと)で病臥しているうちに、背中に腫れ物が出来て、仰向けに寝ていられないような痛みであった。 …<中略>… 七月八日、朝からよく晴れていたが、その日の昼過ぎ、ついに建春門院は世を去った。おん年、三十五歳であった。

清盛にとって、思ってもみなかったことが起こります。義妹の建春門院が病に伏せ、そして亡くなってしまいました。上皇への最大のパイプが、突然切れてしまったのです。

建春門院はしたたかな政治家で、法皇の取り巻きである藤原成親や西光法師が、反平家を画策しても、すべて水際で覆し、平家有利に導いてくれた最大の功績者でした。

建春門院の突然の死は、清盛にとって大打撃です。成親や西光が、自らの存在感を高めようと、法皇に献策するのを防いでくれる防波堤がなくなってしまいました。この時を境に、反平家の動きが息を吹き返し、鹿が谷の陰謀に繋がっていきます。

建春門院の死因は何だったのでしょうか。風邪からの後遺症ですし、背中にできものが出来て、痛がり方が尋常ではなかったといいますから、ヘルペス、帯状疱疹かもしれません。現代医学なら、死に至る病気ではありませんが、この当時の医術では、手の打ち様がなかったのでしょう。ここから平家に逆風が吹き出します。