海人の夢 第36回 夢への障壁

文聞亭笑一

清盛は、いよいよ海外貿易という夢に向かって邁進します。病気を理由に活動を停止している間に、藤原家、後白河上皇といった政敵の動きや、思惑は読めました。残るは山門の山法師の動きです。

この当時の比叡山は、表向きのタテマエは「都の鬼門を守る仏法の殿堂」ですいが、その実、商人や職人といった都の庶民の元締めの役割を担っていました。物語の中で「大衆」と言うのは僧兵の事を指しますが、僧兵の後には都や、近隣の民衆がついている、と考えた方がよさそうです。

比叡山の衆徒と一口に言いますが、大別して3種類の人種で構成されています。

座主などの頂点にいる者たちは、天皇家の血脈や、藤原家の血脈で、比叡山の中にも貴族社会を作っています。政治家といってもいいでしょうね。その下にいるのが学僧と呼ばれる求道家たちで、彼らは純粋な宗教家です。更に、その下にいるのが僧兵で、宗教の修行をするというよりは、寺社領の用心棒、自衛隊といった役割です。ですから、頭は丸めていますが、武士と殆ど変わりません。庶民の出身の者が多く、都の生活からはじき出された、暴れん坊もたくさんいます。仏法の仮面を被った暴力団ともいえますね。

通商立国と言う清盛の夢を実現していく上で、彼らは相棒にもなりますし、抵抗勢力にもなります。物資の動きが活発になり、商工業が盛んになれば、都市住人は豊かになります。これは比叡山にとっても収入が増えて結構なのですが、その分け前を平家が吸い上げるのは面白くありません。さらに、商工業者が平家に靡くようになれば、比叡山を支える一般大衆の支持が弱まります。

経済を睨んで、清盛と叡山の駆け引きですねぇ。

F75、「この明雲。いやしくも山門の頂に立つもの。山の裾野の如く広がる僧たちを養っているという自負がございます。私の身の振りかた一つで、皆の行く末が変わる。果たして平清盛が、まこと、この乱れた世に報いられた一本の矢であるかどうか
――この二十年、山の上から見極めたつもりにございます」
明雲は導師役を引き受け、清盛に戒を授けた。

白河法皇の時代から、叡山と朝廷の関係は良好ではありません。叡山の座主の任命権は朝廷にあり、藤原一族の者や、親王を送り込んできたのですが、政治力に乏しい者が多く、かつ、僧兵の中に政治的才能のあるものが増えて、派閥を作り、座主の命令に従わなくなってきました。保元、平治の乱の後は、敗者となったものたちが大勢逃げ込み、出家して頭を丸め、政治活動をします。西行などは文化人としての道を選びましたが、遠藤盛遠(文覚)などは、政治家として遊説をもっぱらとします。

明雲も、出身は貴族ではありません。朝廷から派遣された座主ではなく、学僧から、たたき上げた政治家です。それだけに、叡山内部における支持基盤が強く、朝廷にとっては厄介者でした。その明雲を選んで出家の際の導師にするとは、清盛もしたたかです。

清盛と明雲は、この機会を利用して、かなり多くの政治的密約をしたものと思います。藤原家や、後白河を封じ込めるための相互不可侵条約…、こんな協定を取り決めたのではないでしょうか。

最近、「オープンな政治」が流行ですが、政治的駆け引きというのは、トップ同士の膝詰め談義で難局を乗り越えます。オープンばかりで、情報を垂れ流していては、何も決められません。そんなことは商売を経験した人には当たり前の常識ですが、マスコミに媚びた民主党政権は、自らの首を絞めていますね。オープンでは建前の応酬しかできませんよ。ホンネの世界では…「ここだけの話」中心なのです。まず決めて、理屈をこじつける。それが政治的論理展開です。これをやられると、困るのはマスコミですよね。

だから、彼らは声高にオープン政治を叫ぶのです。

F76、2月19日憲仁さまが即位され、高倉帝となられた。それに伴い、3月20日には御母君の滋子様が皇太后となられ、滋子様の甥に当たる宗盛が、皇太后宮権太夫という要職に就くことになった。このため、前の皇太后のとき、その職にあった頼盛は辞任を余儀なくされた。

前号でも触れましたが、歴史教科書では、平安時代を794−1168年と規定しています。1168年には、清盛出家、後白河出家などの事件はありますが、時代の終わりとなるような重大事件は起きていません。……で、もしかすると…高倉天皇が即位したことが、時代の終わりなのかもしれません。高倉天皇は平滋子の産んだ子です。つまり、藤原氏の血縁が断絶した、天皇が即位したことになります。これは、藤原家にとっては大事件だったかもしれません。歴史の元になる資料は、殆ど藤原家の文書ですから、証拠主義の歴史家が見れば、「世の終わり」だったかもしれませんね。

余談になりますが、文聞亭は京都での9年間の単身赴任生活の間に、何度も高倉帝の御陵に行きました。清水寺から入り、東山を越えたところにひっそりと佇んでいます。このあたりに来ると、観光客は全くいません。絵を描くには最高の場所で、誰にも覗かれずに、画用紙が広げられました。西郷と月照が密談した清閑寺が近くにあります。紅葉が、なんとも言えず綺麗でした。

45、宋の国の商船を福原に招き、交易を始めようというのが清盛の夢であった。
そのためには莫大な費用が必要だし、おびただしい人の力も要る。それぞれ専門の人間も集めなくてはならず、ぜひとも清盛は自分の生きているうちに成就しなければ、と考えていた。

50歳を過ぎて…、病気もして…、清盛にも焦りが出たかもしれません。人生50年の時代ですから、現代人の感覚で言えば古稀、70歳を越えた感覚だったと思います。

音戸の瀬戸の開鑿も、大和田の港(神戸港)の築工も、当時としてはとんでもない大事業です。私たちは重機を使った工事しか見ていませんが、ダイナマイトやブルドーザーなんてない時代です。すべて人力…、むしろ、どうやったのか想像が付きません。道具はツルハシと、鍬と、モッコしかなかったでしょうね。コロと梃子で大石を運び、引き潮を待っての突貫工事、想像を絶します。が、それが出来たのですから、当時の技術は凄いと思いますよ。当時の工法を復元してみたいですね。現代人が思いもつかないような、特殊技術を駆使していたのかもしれません。温故知新…歴史をたどることは、新しい技術を発見することに繋がる可能性もあります。

息子たちの中に、清盛の通商立国の夢を、継いでくれる後継者が見当たりません。

長男の重盛は、穏健な調整型政治家で、宮廷政治重視です。

三男の宗盛は、もっと小粒で、伯父の時忠にあおられて、平家の党首を狙います。

四男知盛は軍人志向、五男の重衡、六男知度は未知数です。

「やるっきゃない」「俺の目の黒いうちに、夢を実現し、定着させるのだ」と、福原に陣取り、陣頭指揮です。

F77、「京におったのではいつまでたっても上皇様の掌の上。それゆえわしは、その目の届かぬ福原に住まう。そして大和田を博多の如き場所にして、宋や高麗、果ては天竺、南国の産物も取引し、富を得る。この富によって、国を富ませる。
先例第一の朝廷の枠にとらわれて国造りをしている暇はもはやない。国の形を秘かに作り上げ、それをこの国のあるべき姿であると示す。……それこそがわしの見出した答え。武士の世じゃ」

清盛が福原に移り住んだホンネはこの狙いでした。伝統と格式が支配する古都を避け、新天地に、新しい政治拠点を築こうということです。その新都では、法令を含めて、すべてを思いのままに制定し、実験し、形にしていこうという試みで、実に革新的です。

藤原家との確執、天皇家との主従関係、そういったものから解放されてこそ「新しい世」、すなわち清盛の夢が実現します。外国との通商にしても、寺社の利権、大宰府を経由した宮廷の利権と競合することはありません。

ですが…この発想、やり方……ごく最近どこかで聞いたような話ですね。そう、大阪維新の会、橋下徹市長、松井知事がやろうとしていることですよね。大阪で形を作ってみせる、そして、それを国政全般に広げていく………まさに清盛流です。彼らは、八策の中で「統治機構の抜本改革」を目玉にしています。首相公選、道州制など、どれをとっても「この国の形」を変えることを前提にしています。そのためには、まず、憲法改正が大前提です。

さてさて、どうなりますか。